1984年
プロ入り引退後・・・・叔父の似政(これまさ)さんが経営する建設会社の広木工業に入社。
1974年
ロッテは三十日午後二時から東京・西大久保の球団事務所で西垣一軍担当総務と金田監督が立ち会い菊川ら移籍6選手の入団を発表した。 吉岡悟と交換の太平洋・菊川昭二郎内野手(29)=173㌢、68㌔、右投右打=と池辺、井上と交換した阪神・鈴木晥武投手(33)=170㌢65㌔、右投げ右打ち、小川清一投手(22)=179㌢、78㌔、右投げ右打ち、上辻修投手(26)=182㌢、73㌔、右投げ右打ち、平山英雄投手(29)=178㌢、72㌔、右投げ右打ち、森山正義外野手(24)=176㌢、75㌔、右投げ右打ち=で午前十一時に来季の契約も済ませた。背番号は未定。 背広に身を包んだ6選手はいずれも東京生活は初めてとのこと、いずれも即戦力というよりはチーム力の底辺アップにつながる選手が多いだけに、気負ったところもみせない。「12年間、プロ生活をやってきたが、一年生のつもりでがんばりたい。ロッテはガッツのあるチームなのでやりがいがある。遊撃のポジションをねらいたい」(菊川)リーグが変わったといっても、やることは同じ、一生懸命やりたい」(鈴木)などの抱負を語っていた。 金田監督の話 ロッテ方式の練習で若手をびしびし鍛えて、将来の戦力アップを図っていきたいと思う。若い素材のいい投手が多いだけにどれだけ、伸びてくるか楽しみだ。
1974年
ロッテは、ヤクルトを自由契約になった東条文博遊撃手(30)174㌢、69㌔、右投右打、鹿児島実高出の獲得へ乗り出す。東条は今季前半はレギュラーで78試合に出場、打率2割2分6厘、10打点をマーク、後半は永尾の台頭で控えに回ったが、三拍子そろったしぶい内野手。ロッテの弱点は遊撃で太平洋から菊川をトレードで獲得したものの、金田監督はまだ満足していなかった。すでに太平洋・江藤監督が獲得へ動き、東条と交渉しているが、ロッテの交渉次第で逆転もありそう。
1976年
またドラフト六位に指名した中京商の今岡均投手(18)=177㌢、70㌔、右投げ右打ち=の入団も八日決定した。中日の東方スカウト部長は同日午後四時三十分、岐阜県土岐市泉町久尻の今岡家を訪ね、父親の速人さん(52)母親春枝さん(49)と本人を交えて交渉、第二回目の五日に提示した条件に上積みして千五百万円、年棒百八十万円(ともに推定)を今岡家が受け入れ、入団が決定した。
1984年
あの藤城が甦った。右肩痛を起してから1年半、一時は引退も考えたほどの重傷が、昨年夏に受けた霊熱療法によって回復。以来、秋も冬もなく投げこんできて、高知キャンプで復活のきざしを見せたのだ。藤城が負担に思わぬようにと、わざわざ紅白戦をやめて組んだシート打撃(2月16日)。本人にとっては復活をかけたテスト登板でもある。さすがに、最初の2人には球が上ずり連続四球を与えたが、つづく簑田を中飛にうちとってからはスイスイ。自慢の速球が手元でグッと伸び、カーブも大きく曲がり、練習では投げていなかったフォークまで投げて、はじめは心配そうだった上田監督ら首脳陣もホッとひと安心。14人目まで3四死球だけのノーヒット。結局、打者17人に2安打と「いける」ところを見せたのだ。「打たれると思ってた。抑えようという気持もなかったしね。でもよかった。このままいけば・・・」ネアカ人間だけに明るい表情の藤城だったが、一昨年9月以来、遠ざかっている公式戦のマウンドへ向けて「なんとしてももう一度、試合で投げたいと思ってた。長かったなあ」と、ポツリともらしたことばに、苦しかった日々も感じさせもした