1966年
バッティング専門投手だった巨人の周防清投手(20)も、とうとう今シーズンかぎりで退団が決まった。周防は群馬県富岡高から巨人入りして今年で四年目。しかし、今シーズンは支配下選手の縮小(50人)の影響などもあって登録メンバーからも外れ、バッティング投手として契約していた。「巨人を去るのはさびしいが、いい勉強になった」と郷里に帰っていった。
1967年
巨人のユニホームを着ているが、巨人の選手ではない。周防清、21歳。彼は一軍のフリーバッティング専門投手だった。支配下選手50人のワクから外れた周防投手はベンチにも入れず、ナイター開始3時間前にグランドへあらわれて待機する。彼は人間ピッチングマシンだ。柴田が打つ、ONが打つ。主軸打者5、6人が打つと投球数は200球近い。これは1試合分以上の投球数だ。二軍選手ならまだ希望がある。がんばれば一軍へあがる可能性もあるが、周防投手は腕が折れるまで投げても同じこと。「ぼくが投げて王さんや長嶋さんがいい当りをするとホッとするんです。調子がいいぞ、きょうはやるぞとうれしくてね」それが彼の青春であった。泥まみれになって明日を夢みることもできない周防は、契約更改に際して「やめさせてください」と、みずから申し出た。「このまま巨人のユニホームを着ていても、自分自身を生かす場所がない」というのだ。この申し出を球団はいとも事務的に処理した。「自由契約とか任意引退には当てはまらない球団の職員が辞めたと解釈してもらいます」といっている。ユニホームを脱いだ周防君は、ひとりの若者にかえった。「ぼくの年齢にしてはサラリーがよかったですからね。家具を買ったり、背広を作ったり、楽しみはありました。しかしぼくはまだ若い。好きな道へ方向転換しますよ。巨人で過ごした月日をいい思い出にして…」周防君はこれから電気関係の学校へ通うそうだ。明るく口笛を吹いて巨人を去った彼は、新しい希望に向って歩み出している。
バッティング専門投手だった巨人の周防清投手(20)も、とうとう今シーズンかぎりで退団が決まった。周防は群馬県富岡高から巨人入りして今年で四年目。しかし、今シーズンは支配下選手の縮小(50人)の影響などもあって登録メンバーからも外れ、バッティング投手として契約していた。「巨人を去るのはさびしいが、いい勉強になった」と郷里に帰っていった。
1967年
巨人のユニホームを着ているが、巨人の選手ではない。周防清、21歳。彼は一軍のフリーバッティング専門投手だった。支配下選手50人のワクから外れた周防投手はベンチにも入れず、ナイター開始3時間前にグランドへあらわれて待機する。彼は人間ピッチングマシンだ。柴田が打つ、ONが打つ。主軸打者5、6人が打つと投球数は200球近い。これは1試合分以上の投球数だ。二軍選手ならまだ希望がある。がんばれば一軍へあがる可能性もあるが、周防投手は腕が折れるまで投げても同じこと。「ぼくが投げて王さんや長嶋さんがいい当りをするとホッとするんです。調子がいいぞ、きょうはやるぞとうれしくてね」それが彼の青春であった。泥まみれになって明日を夢みることもできない周防は、契約更改に際して「やめさせてください」と、みずから申し出た。「このまま巨人のユニホームを着ていても、自分自身を生かす場所がない」というのだ。この申し出を球団はいとも事務的に処理した。「自由契約とか任意引退には当てはまらない球団の職員が辞めたと解釈してもらいます」といっている。ユニホームを脱いだ周防君は、ひとりの若者にかえった。「ぼくの年齢にしてはサラリーがよかったですからね。家具を買ったり、背広を作ったり、楽しみはありました。しかしぼくはまだ若い。好きな道へ方向転換しますよ。巨人で過ごした月日をいい思い出にして…」周防君はこれから電気関係の学校へ通うそうだ。明るく口笛を吹いて巨人を去った彼は、新しい希望に向って歩み出している。