1976年
粉中の野球は和歌山市内の中学校ほど盛んではなかったが、伊勢川真澄(34期)=捕手=と木村勉(35期)=投手=のバッテリーによって粉中黄金時代となった。とはいっても粉河町役場勤務の木村勉(55)は「和中、海中、和商、海南中のベスト4には歯がたたなかった」という。部員が最も多い時でさえ二十人ほどで、グラウンドも河原のようなところ。海草中と春秋の定期戦を行ったが、勝てるはずなく「いい試合したなあ」と思った時でさえ5-1のスコア。それでもベスト4以外なら、たいてい勝ち、相手が弱すぎると伊勢川が投手に、木村が捕手にと、バッテリーを交代する余裕も見せた。伊勢川は阪急、木村は南海へと、プロ選手の道を歩んだ。
粉中の野球は和歌山市内の中学校ほど盛んではなかったが、伊勢川真澄(34期)=捕手=と木村勉(35期)=投手=のバッテリーによって粉中黄金時代となった。とはいっても粉河町役場勤務の木村勉(55)は「和中、海中、和商、海南中のベスト4には歯がたたなかった」という。部員が最も多い時でさえ二十人ほどで、グラウンドも河原のようなところ。海草中と春秋の定期戦を行ったが、勝てるはずなく「いい試合したなあ」と思った時でさえ5-1のスコア。それでもベスト4以外なら、たいてい勝ち、相手が弱すぎると伊勢川が投手に、木村が捕手にと、バッテリーを交代する余裕も見せた。伊勢川は阪急、木村は南海へと、プロ選手の道を歩んだ。