1959年
大毎・和田代表は同大倉高新始投手(22)=1㍍82、77㌔、左投左打=獲得のため十五日午前十時十分伊丹空港着の日航機で来阪、市内北区中之島毎日新聞社内球団事務所で青木スカウトから報告を受けたあと「倉高君には会えなかったがきょうも青木スカウトが会って話はついている。あとは金銭的な問題だけになった。すぐ使える実戦向きな点が魅力だ」と倉高の大毎入りを明らかにした。同選手は平安高時代岩井投手(現明大)の控え投手、三十二年同大に進学、リーグ戦には一塁手として出場、三十五年春のオープン戦では投手として五勝一敗の好成績をのこしている。今春家庭の事情で退部、巨人、阪神、中日、大洋、大毎、東映からねらわれていた。
大毎・和田代表は同大倉高新始投手(22)=1㍍82、77㌔、左投左打=獲得のため十五日午前十時十分伊丹空港着の日航機で来阪、市内北区中之島毎日新聞社内球団事務所で青木スカウトから報告を受けたあと「倉高君には会えなかったがきょうも青木スカウトが会って話はついている。あとは金銭的な問題だけになった。すぐ使える実戦向きな点が魅力だ」と倉高の大毎入りを明らかにした。同選手は平安高時代岩井投手(現明大)の控え投手、三十二年同大に進学、リーグ戦には一塁手として出場、三十五年春のオープン戦では投手として五勝一敗の好成績をのこしている。今春家庭の事情で退部、巨人、阪神、中日、大洋、大毎、東映からねらわれていた。
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