プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

橋詰文男

2018-01-08 15:23:53 | 日記
1964年

打者転向をいわれたのは十九日の対東京ダブルヘッダー終了後だ。第一試合の六回、久保田をリリーフ、榎本に右翼線にたたかれ、わずか2球で敗戦投手になった。ベンチのすみで考えこんでいる橋詰に多田コーチが耳うちした。「あすからの関西遠征には参加しなくていい。多摩川でバッティングの練習をしろ」二十一日からの対阪急戦(西宮球場)には両親、兄弟が見にくることになっていた。下宿にかえった橋詰はあわてて大阪市東淀川区堀上元町の実家のダイヤルを回した。電話口にでたおかあさんのマサさんは耳がとおく、クビにでもなったのかと勘違い、あわてておとうさんの金蔵さんをよびに走ったという。弟の和夫君から「兄貴がんばれ。近鉄の関根さんだって、やめた田宮さん(元大毎)だって投手から転向してりっぱな打者になったじゃないか」という激励の手紙がすぐきた。それから真夜中のバット・スイングがはじまった。一週間もたたないのに両手には大きな血マメがいくつもできた。もともと打撃にはある程度自信を持っていた。同大では投手兼左翼手。東映にはいってからもしばしば代打に起用され、16試合ほどインスタント一塁手をつとめたこともある。それで自分でも打者転向を考えたこともあるそうだ。しかし「故障して打者転向ならまだ話はわかるが、なんでもないのに打者になれというのは投手が落第なんですからね」と笑いながらいうことばは、非常にくやしそうだった。だがいまは熱心に桜井二軍監督の指導をうけている。「いままではボールにバットをあてるだけの投手用バッティングだった。これからは腰をつかった力強いバッティングにしなくては」桜井二軍監督は「じめじめした性格でないのがいい。手首が人一倍強く、目もいいから、二、三ヶ月みっちり練習すればきっと成功する」と太鼓判。橋詰は「外人選手なんかいらないよ。おれがぽんぽん打ってやる」と冗談をとばしている。

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