1988年
亀山内野手と同じく、こちらも一卵双生児の話題の投手。高校では兄がエースだったが、将来性では弟の方が上との評価。直球と鋭いカーブで、大分県選手権では準決勝で14奪三振を記録。チームを準優勝に導いた。
1988年
亀山内野手と同じく、こちらも一卵双生児の話題の投手。高校では兄がエースだったが、将来性では弟の方が上との評価。直球と鋭いカーブで、大分県選手権では準決勝で14奪三振を記録。チームを準優勝に導いた。
1989年
昨シーズンの不本意な成績を反省して、自主トレから体を絞り、高知キャンプでは持前の目の覚めるような速球をビシビシ決め、微妙な制球力も一段と正確さを増した。フォーク、スライダーの球威もおととし(36試合、4勝3セーブ、防御率2.51)より数段上だ。プロ入り10年目、森の真価が問われる大事な年である。
1991年
鹿児島の南360㌔に浮かぶ離島の喜界島から誕生したプロ野球選手第一号。カーブ、フォークと球種が多彩で、体のバランスの良さ、無理のないフォームは北別府の再来と期待される。喜界高校3年間の公式戦成績は11勝6敗、防御率1.47。
1990年
社会人で一緒だった岩本選手(オリックス)など先輩に負けないようプレーしたい。そのためにも一軍定着を目標にしています。まずはゲームに出ないと。どうしようもないですからね。将来は、三振が多く取れるピッチャーになりたい。ストレート、シュート、スライダーを持っていますが、今シーズンは新しい球種、落ちるボールを覚えたい。チームの勝利に向けて、とにかくいっぱいガンバリます。
1991年
昨秋の日南キャンプでテストに合格、ドラフト外で入団した。佐世保商高では2年生からエース。本多技研熊本では6年間下積み暮らし。「プロで試してみたい」と退社して1年間自主トレーニングを重ねた。187㌢の長身を生かした速球とフォークが身上。
1984年
長身からの速球とタテに割れて落ちるカーブに威力を見せるのは、西宮今津高から入団の奥昌男投手。「無名ながら身体に恵まれたボールに力があり、将来非常に有望。隠れた素材として獲得した。」スカウト陣はその素材のよさを強調する。キャンプでの目標を「じっくり鍛え、身体を作っていくこと」と語る奥投手。生まれつきの負けず嫌いの性格は、練習ぶりにも表れている。ハードなとトレーニングにも決して音をあげることなく、黙々と取り組み地道な姿勢。高校出のルーキーにとって、プロの世界の壁は想像以上に厚いものがあろう。しかし、毎日の努力と精進がいつかは実を結ぶはずである。「焦ってはいないけど、3年後の一軍入りを目標に頑張ります」控えめながら語る豊富にも、意志の強さを感じさせる。「速球でグイグイ押していくピッチングにあこがれています」スケールの大きな投手を夢見るルーキーにとって、スタートは始まったばかり。
1990年
台湾ナショナルチームのエースだった郭建成は、ヒジの故障が治るかがカギ。150㌔近い速球の復活を目指すが、もう一人大リーガー投手の獲得も計画されており、外人三人制が敷かれる見込み。
台湾ナショナル・チームのエース・郭建成投手が、晴れてヤクルトの一員となった。1月10日、現地へ飛んだ根来ファームディレクターと家族をまじえ交渉。契約金2500万円。年棒480万円で合意に達しました。第三の外人としての扱いだが、「一日も早く一軍で投げたい。他の台湾プレーヤーに負けない働きをしたいですね」と力強い第一声。スワローズにも、いよいよ台湾パワー進出だ。
1991年
アメリカからやって来た助っ人なら戸惑いの梅雨の季節も、台湾から来た郭にはへっちゃらだ。というのは、台湾にも日本の梅雨に似た雨季が、それも4月から6月まで3カ月間もあるからだ。「だから別に気にならないよ。去年だって、何てことなかったもの」むし暑い日本のこの季節も郭にしてみれば、台湾と比べて2か月間も短いだけに、まだましなのだ。「もともと、生モノはほとんど食べないよ。まあ、たまに刺し身ぐらいかな。それに向こうの夏の方がもっと暑い。台湾で水ばかり飲んでいたんじゃ、汗がたくさん出て野球が出来ないから、余分に水分をとらないことには慣れているね」と、サラッといってのける。そう、郭にとって梅雨など苦にならないのだ。ただ一つ、気にかかる点がある。それは、来日1年目の昨年のこの時期に、逆に台湾の雨季を思い出したことから重症のホームシックにかかり、成績もこの期間だけ落ち込んでしまったことだ。来日直後だったから五月病のようなものだったかもしれないが、郭自身は「いつもは練習が大変で、台湾の家族や友達のことを考えている暇はないね。それに天気がよければ、近くに住む台湾の友達と出かけることもできるよ。でも雨の日が続くと、部屋にずっといなきゃならない。ついつい、いろんなこと考えちゃうね」とカタコトの日本語で話すが、その日はちょっぴり寂しそうだ。祖国のプロ野球には目もくれず、異国の球団に飛び込んだ男気のある郭だが、孤独感だけはどうにもならないようだ。もっとも、原因がはっきりしている2年目の梅雨シーズン、同じ過ちを繰り返すようなことはしない。「去年の今頃よりずい分、日本語も喋れるようになったよ。それにチームの仲間も親切だし、気分転換もできるでしょう」第三の外人を打破して、一軍切符をつかむためには、梅雨だの、ホームシックだのとは、いってられないのだ。5月下旬にはバニスターとマーフィーの故障で二度目の一軍昇格(昨年は登板機会なし)を果たした。結果は4試合に登板しただけで、再びファームに逆戻りしてしまったが、郭自身はある程度の感触はつかんでいる。「ボクは変化球が多いので、投球の組み立てを覚えられないように、注意して投げた。ヤングやアレン(ともに広島)、落合(中日)といった本当の一軍の選手を、思い通りのピッチングで抑えることができたのは、収穫だったよ」郭泰源、郭源治に続く第三の郭は、まだまだ修行の身だが、この一軍初登板で自信を深めたことは確かだ。バニスターに代わる新外人、ロックフォード投手、それほど大物の感はないようだし、梅雨さえうまく乗り切れば、夏頃にも、一軍に戻ってきてくれそうだ。
1990年
後半戦に入り、ローテーション五本柱の一角に食い込んだが、好投しながら勝ち運に恵まれないツキのなさ。それでも来季に向けては、なかなかの好材料を提供している最近。それゆえ、ここに気になる情報がひとつ。今年春に発足した台湾プロ野球界が、この郭の奪還計画を密かに練っており、シーズン終了後にも、なんらかの動きがありそうだ。はっきりいって台湾球界も人材不足。猫の手も借りたい現状であり、日本球界で働く台湾選手は垂涎のマト。特に投手は貴重な存在なのである。「いまのところ、そういう話はないし、来年もヤクルトで投げる」とは郭の言葉だったが、再び第三の外人になろうものなら、信教の変化にも十分に考えられるかもしれない。
1990年
満を持しての登板となった4月8日の巨人戦。そして二度目の先発となった4月14日の大洋戦。いずれも「まだ、昨年6月に手術した左肩の回復具合から長いイニングは無理」(石岡コーチ)ということで、5回で降板している。ただ問題なのは、途中でマウンドを降りたということより、打たれた内容だ。巨人戦で伏兵・川相の二塁打で1点を失った。大洋戦でも市川、青山といったら、どちらかといえば非力な打者に次々と痛打された。そう、完全に日本の小柄な打者を甘く見ていたのだ。「(日本の打者は)ミートがうまいとは思っていたけど、こんなにパワーがあるとはね。小さいからってなめてかかると、痛い目にあうね」1試合ごとに自己反省し、カブトの緒を締めていたバニスターだが、イヤな予感は的中する。3戦目の阪神戦、わずか170㌢の小兵・嶋田宗に左翼スタンドに運ばれる一発を浴びたのだ。「うん、ボクのミスだよ。でもまさか、あそこまで飛ばされるとは…」と目をシロクロさせながら話すバニスター。過去二度の来日(日米大学野球と日米野球)で培われた、対日本人打者への自信が薄らいでいく。しかし、である。同じ過ちを繰り返してはならないのが大リーガーの基本。まさかの打者からの強烈パンチが、バニスターのメジャー魂を目覚めさせた。4月25日の大洋戦、30日の巨人戦とさすがの好投でチームに白星を引き寄せていく。特に巨人戦では、初対戦でやられた川相を3打数0安打に抑えてみせた。空振り三振、右飛、左飛の結果を見ても、今度はバニスターの圧勝。「この日のゲームが、今までで一番よかった。コントロール、スピードともに申し分なし。だんだん調子も上がってきたネ」まるで他人事のように話すバニスター。完璧の状態にはほど遠いといいながらも、ちゃっかりと4月、3勝を挙げている。評判通りというべきか、いや、この調子なら絶好調になったときが末恐ろしい。5月6日の中日戦で打球を軸足である左に当て途中退場したが、幸い大事には至らず、すぐに練習再開。石岡コーチからも「あと1、2試合投げれば、完投もできるのではないか。いよいよ、本当のバニスターの力をお見せできますよ」と折り紙をつける。暑くなるにつれ、いよいよ本領を発揮してくれそうな予感。現役バリバリの大リーガーの左腕がいま、うなり始める。
6月19日、フロイド・バニスター投手解雇のニュースがあった。メジャー通算133勝をあげた左腕として、鳴り物入りの来日であったが、一抹の不安があったのも事実。そう、昨年6月28日に受けた「左肩回旋腱板裂傷」の手術である。早い話、この左肩が元に戻らずクビとなった次第だが、実はこんなこともあろうかと、球団は同投手と特殊契約を結んでいたことが明らかになったのだ。契約書にある一文は「1年契約ながら、6月を過ぎた段階で、左肩の状態がおもわしくない場合は、一方的に解雇できる」というものだった。要するに、これに沿った決断がなされたわけだ。9試合投げて3勝2敗、防御率4.04では仕方ないのかもしれない。
1987年
フォーム…右本格派 球種…ストレート、縦のカーブ
右本格派の森投手を中心に機動力を生かした、そつない野球をする。
熊本工の森もカーブが鋭く決まり、序盤は投手戦。
「九回の二死まで走者を背負った投球だったので苦しかった」と熊本工のエース・森は薄氷の勝利にほっと胸をなでおろした。昨年はスタンドで応援、先輩たちの初戦敗退に悔しい思いをした。「きょうは森田、平岡の本塁打に助けられた」と苦しい時の打線の救援にも感謝。四球を与えるのを警戒しすぎて逃げの投球になったといい「次はきっと思い切りのいい投球をします」と自らにもいい聞かせていた。
フォーム…右投げ本格派 球種…ストレート、カーブ、シュート。
1975年
主戦、今岡はどちらかといえば打たせてとるタイプで、二年生ながらプレート度胸も満点。これといった決め球はないが、走者が出ると思い切りよく内角シュートでつく。打たずとみれば、ずばり投げ込んだ。
早実打線は毎回のように安打の走者を出しながら、長い間合いを取ってストレートとカーブを内外角に投げ分ける中京商今岡から決定打が奪えない。
エース今岡は直球でカウントをかせぎ、変化球で打たせてとるタイプ。
中京商の右投げ本格派、今岡(二年)の投球内容は、出足から小気味よいほどさえていた。高打率(・379)の早実打線に対し、一番効果のあったのはスピード豊かな球速と、ここというところで決める制球力だった。内外角にほどよく散らす直、曲球はいずれも正確で、炎天下の甲子園では、疲労度を考えるとムダのないあつらえ向きの投球といえる。
1971年
カープの新人となれば、なんといっても佐伯。だからキャンプ地・日南を訪れる評論家諸氏の目は佐伯に集中、ファンの視線も佐伯を追い求めている。しかし一方で地味だが、日増しに首脳陣の評価を高め、ある意味では佐伯以上と力を買われている新人投手がいる。地元盈進高から入団した永本裕章投手が、それである。この永本が首脳陣の目を奪ったのは、自主トレの最中。軽いピッチングをしたとき、投手担当の備前コーチが、思わずうなった。「実にいいフォームをしている」177センチ、76キロ。外木場を、もうひと回り大きく、たくましくしたからだつき。しかし、これは意外な喜び方でもあった。というのは、タマの速さは抜群との情報を得てはいたが、大変に制球力が悪く三振か四球といったタイプの投手と聞かされていたからだ。さらには昨年の夏、右ヒジを痛め、このため半年近くもマウンドを踏んでいなかった。「ヒジを痛めるくらいだからフォームもよくはあるまい」首脳陣が、そう判断していたのである。「永本はほとんどの球団からマークされていた。三年生の夏にヒジを痛めなかったら、ビッグスリーに劣らぬほど騒がれていたんじゃないか。その彼をとれたのは、うちにとって本当にラッキーだった」二年生のときからマークし、獲得した藤井スカウトは、日増しに高まる後輩の永本の評判に大喜びだ。永本の日南入りは、卒業試験のため、ナインより一週間遅れた。しかし、自主トレに参加していたとあって体調は十分。連日ナインと同じ練習量を積極的に消化している。まだピッチングこそしていないが、女房役のベテラン田中捕手は「いい投げ方をしているなあー、ムダがまるでないよ。ソト(外木場)の入団時よりいいんじゃないか」とべたほめ。「ホンマ、ワシらより速いタマを投げるんと違うかいな」とその外木場も感心しきり。外木場より速いタマはともかく、地元では球威の点では佐伯にも負けないといわれるほどだからたいしたもの。とにかく二年生の秋地区予選で対北川工をノーヒット・ノーランにさばき、三年生の春には対尾道商戦で、連続九三振、通算二十一三振を奪っている。佐伯も奪三振の面では永本にかなわないのだ。「ヒジは、もうまるで痛まない。半年間投げなかったのが幸いしたようです」とは永本だが、この男、やたらと向こう意気が強い。「佐伯といったってボクとたいして力に差はない。ビッグスリーなんて、たいしたことないですよ」といった調子。これも永本株上昇に一役買っている。「ボクの持ち味は速球だ。これまでも、そのことだけを考えて投げてきた。コントロールの悪かったのは力の配分を誤ったからだと思う。力み過ぎです。だけどバランスがうまくとれたときは自分でも驚くほどタマが伸び、そんなときは相手のバットがかすりもしなかった。このキャンプではしっかり足腰を鍛えて、もっと速いタマを投げられるようにしたい。課題は制球力です」と永本は不敵にいう。かつて南海に籍を置いていたことのある実兄・勲二さん(26)からプロのきびしさを教えられているだけに、新人にありがちな浮ついた面がまるでない。先日、かつての名投手杉下茂氏(現評論家)から「君のフォームはいかにも投手らしい。いい投げ方をしているよ、カープにはもっとも必要なタイプなのだから、がんばれよ」と激励されて永本はいっそうの自信を得たようだ。備前コーチのいう「秘密兵器・永本」がコントロールの面で狂いがなければ佐伯以上のヒーローになりそうだ。
1982年
プロ野球には、半永久的に破られないだろう、といわれる記録がある。王の868ホーマー、張本の3085安打、野村の3017試合…これらのなかで意外に見落とされがちなのが、桑田さんが34年に作ったルーキー31ホーマー。打高投低の傾向が年々強まるなかで、この大記録はアンタッチャブル。田淵も原も及ばなかった。「思い切りのよさが作った記録でしょう」と懐かしそうに振り返る桑田さんは、いま、横浜市内の大手建設会社の営業課長さんだ。もちろん、プロ野球での桑田さんの足跡。この新人本塁打記録に尽きるわけではない。一シーズン3サヨナラホーマー。2試合連続逆転サヨナラホーマーなど滅法、勝負強い打者だった。ポジションも三塁。大洋版燃える男だった。「私は監督さんに恵まれたと思いますね。三原さん(現日本ハム相談役)には、4打席3三振でも一打席に価値ある一打点を稼げ、4の4でも打点がゼロなら意味がない、とよくいわれた。こんな言葉が思い切りのよさを引き出してくれたのでしょう」中大時代は、4年間で4ホーマー。「とても、思い切りのいい打者とはいえなかった」(桑田さん)のだから、飛躍的な成長があったわけだ。元祖燃える男長嶋は、この桑田さんのバットのおかげで、千載一遇のチャンスを逸することになる。36年が、長嶋にとって三冠王が最も近くにあった年だった。大洋が全試合を終了した時点で桑田さんと長嶋との打点差が10。が、巨人は10ゲーム以上残していた。十分、逆転可能だ。「ところが長嶋さん、たしか2打点しかあげられなかった。プレッシャーがかかったんでしょうねえ」王の出現で、以後三冠王の可能性が消えていっただけに、長嶋には痛恨のシーズン。それだけ、桑田さんの思い切り打法が光るのである。その思い切りが身上の桑田さん、どうにも思い切れない痛みに直面したのが1年半ほど前。日大藤沢高から中大に進んだ長男の武将さん(20歳)が、野球部の合宿から脱走。「野球も大学もやめて、プロボクサーになる」といい出したのだ。「よりによって、一番危険なスポーツを選びおって、他に別なスポーツがありそうなものなのに、と思いましてね。とにかく絶対反対でした」しかし、武将さんの意志は固く父子戦争は三か月続いた。とうとう父親が折れた。「あの時はホトホト弱りましたよ」と桑田さん。だが、好きこそもののなんとやら、「野球のような集団競技より個人競技に向いている」(桑田さん)という武将さんはメキメキ腕をあげ、プロのライセンスを獲得、そして7月30日、横浜文化体育館でデビュー戦。ミドル級4回戦で、武将さんは見事2回、3分2秒でKO勝ちを収めた。「あんなドキドキの思いを味わったのは生まれて初めてでも、一度この道に入ったんだから。世界が見えるまでやれ、と私はいうんですよ」桑田さんは武将さんに、24歳までに世界レベルまで行けなかったらスッパリあきらめろ、といい渡している。しかし、それまでは援助を惜しまない。「海外へ武者修行させることも考えています」父は左手だけだったが、息子は両手にグラブをはめる。それだけの違いなのかもしれない。
1974年
ロッテは三十日午後二時から東京・西大久保の球団事務所で西垣一軍担当総務と金田監督が立ち会い菊川ら移籍6選手の入団を発表した。 吉岡悟と交換の太平洋・菊川昭二郎内野手(29)=173㌢、68㌔、右投右打=と池辺、井上と交換した阪神・鈴木晥武投手(33)=170㌢65㌔、右投げ右打ち、小川清一投手(22)=179㌢、78㌔、右投げ右打ち、上辻修投手(26)=182㌢、73㌔、右投げ右打ち、平山英雄投手(29)=178㌢、72㌔、右投げ右打ち、森山正義外野手(24)=176㌢、75㌔、右投げ右打ち=で午前十一時に来季の契約も済ませた。背番号は未定。 背広に身を包んだ6選手はいずれも東京生活は初めてとのこと、いずれも即戦力というよりはチーム力の底辺アップにつながる選手が多いだけに、気負ったところもみせない。「12年間、プロ生活をやってきたが、一年生のつもりでがんばりたい。ロッテはガッツのあるチームなのでやりがいがある。遊撃のポジションをねらいたい」(菊川)リーグが変わったといっても、やることは同じ、一生懸命やりたい」(鈴木)などの抱負を語っていた。 金田監督の話 ロッテ方式の練習で若手をびしびし鍛えて、将来の戦力アップを図っていきたいと思う。若い素材のいい投手が多いだけにどれだけ、伸びてくるか楽しみだ。
1974年
ロッテは、ヤクルトを自由契約になった東条文博遊撃手(30)174㌢、69㌔、右投右打、鹿児島実高出の獲得へ乗り出す。東条は今季前半はレギュラーで78試合に出場、打率2割2分6厘、10打点をマーク、後半は永尾の台頭で控えに回ったが、三拍子そろったしぶい内野手。ロッテの弱点は遊撃で太平洋から菊川をトレードで獲得したものの、金田監督はまだ満足していなかった。すでに太平洋・江藤監督が獲得へ動き、東条と交渉しているが、ロッテの交渉次第で逆転もありそう。