明日、人間ドッグです。
今夜の9時から食べていません。
呑んでません。
明日、胃カメラを呑みます。
辛いので寝ます。
NHKスペシャル(NHK総合21:00 ~ 21:50)
「虐待カウンセリング~作家 柳美里・500日の記録~」を観た。
虐待カウンセリング▽作家・柳美里の苦闘▽私はなぜ息子に暴力を家族の再生▽虐待連鎖
虐待を受けた経験がある親が自分の子供を虐待してしまう「虐待の世代間連鎖」。
柳美里が、東海学院大教授・長谷川博一氏のカウセリングを受けている。
彼は、わが子を虐待してしまうことに悩む「世代間連鎖」の親(200人以上)と向き合ってきた。
柳美里は、母親・父親と話す。
両親は離婚しているようだ。
親が子どもの頃に体験したことが柳美里への虐待になっているという。
そして、それが柳美里の息子への虐待になる。
私は、虐待というほどではないが、小さい頃父親によく殴られた。
殴られた原因を子ども心に考えても、殴られるほどのことではなかったと思う。
大声で怒鳴られ、頭をものすごい勢いで殴られた。とても痛かった。
幼児のときから小学生までそれは続いた。
それは、親父のある意味社会に対するむくわれない思いのはけ口だったような気がする。
ところが私が中学生になってからは、いっさい私への干渉がなくなった。
いいことをしても(絵で賞状をもらったり、通信簿が良いとき)、悪いことをしても何もいわなくなった。
私は親父が40歳のときに生まれた子どもなので、私が中学生のときは50歳を過ぎていた。
(私は6人きょうだいの末っ子です)
58歳になる私が書くとへんだが、あの頃の親父は初老だった。
私を殴っていたときの元気さはなくなっていた。
父は百姓をやっていたが、あまり上手ではなかったと思う。
タバコ栽培が主な仕事だった。
それと米ですね。
タバコは春先から晩秋までの仕事で、
秋の「タバコ売り」の日は、私の地域で一年中で一番の行事だった。
その日の朝、町の呉服屋が車で迎えに来る。
町のどこかでタバコの品質を調べる所があり、それで収入が決まる。
父の作ったタバコはあまり高く売れなかったようだった。
それでも親父は、呉服屋で私たちの冬に着るジャンパーなどを買って帰ってきた。
でもそのジャンパーは友人のものと比べるとあまり良くなかった。
私は、子どものときに親父に大声で怒鳴られ殴られたことがトラウマになっている。
誰かに大声出されたり、文句をいわれたりすると萎縮してしまう。
正常でいられなくなる。
自分が悪くないと分かっていてもダメなんです。
自分が悪いんじゃないかとなって萎縮して落ち込む。落ち込むとひどい。
結婚してから私は毎年茨城に帰って親父と酒を呑んでいろいろ話すようになった。
でも、子どものときのことは親父に聞けなかった。
親父はほんとうに優しい人でした。
音楽が大好きで、地域のぎょん(祇園)や盆踊りには、太鼓をたたいていた。
やぐらの上で唄をうたってた親父が私の自慢だった。
あるとき、NHKの「のど自慢」が町で開催されるというので親父は予選に出た。
しかし、落ちてしまった。出させてやりたかった。
親父のこと若かったときのことを知りたい。
「あなたが主役・50ボイス」(NHK総合22:55 ~ 23:25)
「新米パパ新米ママたちの子育ておもしろ奮闘記▽イクメンの本音は?▽企業の保育施設」
久しぶりにこの番組を観た。
これまでしばらく休んでいたような気がする。
私の息子ぐらいの夫婦の言葉あり、40代の人のもあった。祖父母のもあった。
まあ、子育ては大変ですよね。
しかし、私にとってあんな楽しいことはなかった。
私は、今でいえば〝イクメン〟といってもおかしくないと思う。
なにしろ双子を育てるには〝イクメン〟になるしかしょうがなかった。
朝起きてから子どものことにはかかわってきた。
会社にいるときは離れられるが、熱が出たと電話がかかってくるときもあった。
仕事から帰ってからは、全面的に子育てに参加した。
なんといっても双子なんです。息子たちとの闘いです。
息子たちが小学5年の3月まで一緒に寝ていた。
寝る前に絵本・童話などを読み、作り話を話して寝た。
そのあと女房に11時頃起こしてもらって、それから深夜の3時まで自分のことをしていた。
一緒に寝るのが最後の夜、私は息子たちに性の話をした。
その頃、小学6年になると学校で性教育があるということを聞いていた。
私は、そういう大切な話は私が息子たちにしたかった。
教師になんかまかせておけなかった。
翌日から息子たちと一緒に寝ていない。
私は、それまで彼らにいろんなことを話した。
中学・高校・大学生になってから、私はあまり息子たちと話していない。
必要なことがあれば話したけど、日常的には話さなくなった。
(話したくても、息子たちが話してくれないんです)
さみしいと思うこともあった。
しかし、私は小学5年まで息子と沢山話してきた。
それまでに私の考えていることをすべてといっていいくらい話した。
現在は、距離も離れているのでほとんど会っていない。
(孫に会いに行っても、息子は残業で帰っていない)
ま、そのうち酒でも呑めるときがあるでしょう。
携帯持ち込み全員禁止=大相撲(時事通信) - goo ニュース
これって、八百長の再発防止策なんですかね。
なんか私には、
「八百長するときは、記憶の残らないようにやってくれ」
といっているような気がしてしょうがない。
むかしは、携帯電話がなくても八百長をしていた。
記録が残っていないから、マスコミなどに突っ込まれても八百長問題を知らんぷりできた。
ところが今回は携帯電話に記録が残っていたからこんな問題に発展してしまった。
日本相撲協会にとって、憎いのは携帯電話だ、と思う。
4月から私は、12時20分頃に出勤の車の中ということが多い。
その頃っていえばTBSラジオでは、「小沢昭一の小沢昭一的こころ」をやっている。
それを知ってしまっている私が聴かないわけがない。
軽井沢の山道を、薄ら笑いを浮かべながら私はくねくね走っています。
1973年1月にスタートしたTBSラジオの名物番組
「小沢昭一の小沢昭一的こころ」が放送10,000回を迎えた。
始まった頃は、夕方放送していた。
若山弦蔵の番組内でやっていたんだよな。
4・5年前から昼間になった。
私は何かにつけ、聴けるときはこの番組を聴いていた。
好きなんですね、小沢昭一の語り口が…。
台本を書いている人は何人も替わっているが、
お囃子(音楽)は、山本直純です。
語りはとうぜん小沢昭一。
このお囃子と語りを聴くとホッとします。
このページに貼り付けましたからぜひ聴いて下さい。
それにしても私がいろんな状況のときに、この番組を聴いてきた。
なにしろ最初に聴いたのは私が21歳で、
東京の文京区本郷にある試薬会社にいたときです。
死んでしまったボクサーなりそこないの龍彦と、
会社の車に乗って薬品の配達などをしたときだった。
思い出すと涙が出そうです。
書くときりがないのでやめます。
それは私にとって他人事(ひとごと)だった。
私にとって腰痛は、長い付き合いの友人だが、
五十肩なんて私には関係ないものと思ってた。
ところが、4月の末のある朝目覚めて、
いつものように私の右上の位置にある小型のステレオのリモコンを取って、
ラジオのスイッチを入れようとしたとき右肩に激痛が走った。
(おいおい、なんだよこれは)と私は思った。
右腕が頭の上に上げられない。
左手で右手をつかんでリモコンのところまで持ち上げた。
それから毎朝、そんなことを繰り返している。
昼間も右肩が痛いが朝起きたときのような痛さではない。
ただこれまでなにげなくしていた動作がしにくい。
ネットで調べたらいろいろなことが書いてあった。
私としては今のところ、我慢できないほどではないので、
整形外科にはいかないで様子をみようと思っている。
今日、トンボの湯に行ってきた。
温泉につかっているときに両手をゆっくり動かしていた。
自己流の体操です。
そういえば露天風呂にある桜が終わりかけていた。
このところあまりトンボの湯に来ていなかった。
GWは料金が高いのです。
桜を見ながら温泉に入りたかったな。
先週、手の荒れがひどくて皮膚科に行ってきた。
軽井沢に来ていた女房に無理やり行かされたようなもんです。
私としては、なんとか自分で治そうとしていた(治るわけないよな)。
そんなこともあって今整形外科に行く気がしない。
来週は人間ドッグに行く。
3月に腰痛のために整形外科に行っている。
このところ身体に関係する出来事が多い。
私の身体も老年期に入ったのだろうか?
もうすぐ私は、59歳になる。
SONGS(NHK総合22:55 ~ 23:25)
「徳永英明▽名曲なごり雪・ラブラブラブ▽合唱と共演・翼をください▽原点を訪ねる旅・レイニー・ブルー」
という番組を観た。
「原点を訪ねる旅」で徳永が話していた。
彼は、20代のとき乃木坂の喫茶店でバイトをしていた。
その店は業界関係の人が客として沢山来る店だった。
そこで働いていれば何かあるのではないか、と思って働いたそうだ。
デモテープを作っては、客として来る芸能関係者に渡していた。
ある事務所の社長と話す機会があった。
その頃、徳永はテクノポップ(?)のような音楽を目指していたが、
その社長は彼のライブに来てくれていて、
「『レイニーブルー』のような歌がいい」とだけいってくれたそうだ。
その曲が徳永のデビュー曲になった。
徳永英明 Rainy Blue レイニーブルー
虎党、真弓監督にお願い!金本に遠慮するな(サンケイスポーツ) - goo ニュース
とうとう阪神が最下位に落ちてしまった。
日々、試合を観ていないので詳しいことは分からない。
(観たくても観られない)
阪神ファンのくせに、阪神の現在の選手にどんな人がいるか知らない。
なのに阪神が好きだというのが私にも理解できない。
まったく情けない阪神ファンです。
今、テレビのスポーツニュースを観たら、巨人が横浜に負けて
阪神と一緒に最下位になった。
横浜が勝っていることは嬉しい。
試合数 勝数 敗数 引分 勝率
1 ヤクルト 22 12 7 3
1 広島 22 12 7 3
3 横浜 25 11 13 1
4 中日 21 9 11 1
5 阪神 22 9 12 1
5 巨人 22 9 12 1
5月4日(水)、中軽井沢から旧軽井沢まで歩いた夜、私たちはパンカーラに行った。
イラ・イ・アルカのライブを見に行ったのです。
昼間、歩いたせいで私は疲れてしまった。
午後3時頃寝たら目覚めたのが5時半だった。
急いで起きて北軽井沢に車を走らせた。
家を出てから6キロまで、反対車線(中軽井沢に行く方向)が渋滞だった。
(みなさん、GWに軽井沢に車で行くのはやめましょう。時間がもったいない)
私たちは順調に車を走らせた。
パンカーラに6時半に着いた。
ところが店の前の駐車場に全部車が停めてあって停めるスペースがない。
勝手知ったるわが家の感じで私は店の裏に回った。
マスターたちの駐車場に車を停めようと考えたのです。
そこに行くとなんと、あのウサギがいた。
そのときまで私と女房はウサギのことを忘れていた。
女房は、「人参を持ってくればよかった」と残念がった。
パンカーラのウサギは元気にしていたんですね。
車にひかれないでよかった。
パンカーラに入り、私たちのネームプレートのあるテーブルに向かって坐った。
店内は満席という感じだった。
予約なしで入ってきた客を、マスターは断らなければならなかった。
私はさっそく生ビールを頼んだ。
午後7時に、ライブは始まった。
心地よいケーナ、チャランゴ、ギターの音が店内に響く。
一部の最後に「コンドルは飛んで行く」をやった。
それを私は、デジカメで動画として記録した。
それをブログに載せようと試みましたが、ファイル容量が大きくて受け付けてもらえなかった。
どうしたらブログに載せられるか分かる方教えて下さい。
二部に入ったとき私は日頃の節酒はどこ吹く風で、焼酎の水割りを呑んでいた。
いい音楽聴いて酒呑んで、心の底のほうには鬱が居坐っていたが、いい気持ちでした。
ライブが終わってから、みんなと楽しく話した。
10時頃だったか、私と女房は店を出た。
女房の運転で無事、中軽井沢の家に戻ることができました。
日曜日、私は夜勤でした。
6時前にある利用者が来た。
毎週日曜日の夜、中学生たちに社会的なことを教えている私塾の先生です。
いつもは部屋の利用料を払うと真っ直ぐ借りた部屋に行ってその日の準備をするのに、
その日は何か私に話したそうだった。
彼の年齢は30歳前後かと思う。
私の息子と同じような年齢と私は見ている。
やおら彼は、DPEで現像するともらえるようなアルバムを私の前で開いた。
3.11のあの日からよくテレビでお目にかかる風景が写っている写真があった。
「福島に行ってきました」
「えっ、ゴールデンウィークにですか、どれくらい?」
「5日間でした」
彼は、ボランティアに相馬地方に行ってきたという。
一輪車と携帯コンロと自分の食料その他を車に積んで行ったという。
被災地の片付けを手伝ってきたそうだ。
細かい話を聞きました。
彼は、事前にボランティアの組織に詳しく聞いて福島に行ったという。
多くの人がボランティアに来ていたそうだが、
自分の食料などを持っていかなかった人は帰されたそうだ。
一輪車はかなり役にたったという。
(よけいなことですが、この一輪車はネコのことです。
小学生が体育の時間に乗る一輪車ではありません)
話を聞いていて私は感動した。
なかなかボランティアに行けるものではない。
私なんかそんな気にもならない。
でも、そこには全国から若者が来ていたそうだ。
アルバムには、津波に襲われた海岸や街の様子、地震で潰れた家屋などの写真があったが、
ボランティアに集まった若者たちの集合写真もあった。
それはそれは中高年の私には、眩しい写真でした。
もし、私も20代だったらボランティアに行ったかなと考えた。イクワケナイヨナ~。ダメなオトコです。
彼は、その日来る子どもたちに福島でのボランティアのことを教材の一つとして話すのだろう。
いいことだと思う。
しかし、遠い世界のことだと思っていた東北でのボランティアに、
私の身近な人でしていた人がいたなんて、なんかうれしくなりました。
私は、心を込めて彼に「お疲れ様でした」といえた。
いつだったかTBSラジオの「土曜ワイド」で永六輔が、
「ボランティアを意味する良い日本語がないかな?」といっていた。
その翌週、「ボランティアの日本語として『お手伝い』がいい」と話していた。
私も提案します。
「助っ人」がいいのではないか。
「スケット」って響きもスマートでしょ。