女房は昨日(8/22)東京に帰った。
あの日から私と女房は、リベンジに燃えていた。
何がって、タコの入ったタコ焼きを作ることにです。
だってそうでしょう。
タコ焼きの作れるホットプレートを買って、タコ焼き風味の“タコ焼き”を食べたのです。
こうなったら、タコの入った正真正銘のタコ焼きを食べたいとなるのが真っ当な人間というものじゃないでしょうか。
それで私たち夫婦は21日の夕食でそれをやるために、再びタコを買いました。
ところが、女房がゴーヤチャンプルーやナスのしぎ焼きなどを作ったら、タコ焼きを食べる気にならなかった。
それで、タコ入りタコ焼きは、昨日の朝となったのです。
どうです、女房の手がタコをつかみました。
紅ショウガも天かすも横に控えています。
どうです、タコが一切れづつ入っているでしょう。
手前のは私が入れました。
次に、紅ショウガを入れようとしています。
天かすにカツオ節と青ノリを載せました。
さあ、竹ぐしでひっくり返します。
ここでプロのように、千枚通しを使ってはいけません。
タコ焼きのプロを目指したいあなたは使いたいでしょうが、ここはグッと耐えて竹ぐしで諦めて下さい。
金属を使うとホットプレートのテフロン加工が剥がれます。
どんどんひっくり返します。
とうぜん、手前のは私がひっくり返しました。
なかなかうまいでしょう。
私が昔焼いたぶかっこうな皿に、タコ入りタコ焼きを載せ、マヨネーズをかけました。
イマイチ理想型にはなっていませんが、これからの私たちの修行に期待して下さい。
今回の粉は、ツルヤに売っていた「タコ焼きの粉」というものを買ってきて作りました。
次回は、薄力粉にだし汁などを入れて作ってみたいものです。
ソースも工夫してみたい。
夢は広がります。
私は小学生のとき、運動神経は悪くて気が小さく、いつも教室でひとりでいる男だった。
私は読書をする小学生ではなくて、この頃はマンガが好きで、よくマンガを書いていた。
でも図書室にあったシートン動物記とファーブル昆虫記は全巻読んだ記憶があります。
小説は読まなかったですね。
勉強は優等生ではないが、クラスの上のほうにはいたと思います。
小学生のときクラスの男の子は昼休みに全員校庭に出て遊んでいた。
ガキ大将的な男がいてみんな彼に従っていた。
私はそれがイヤで教室にいた。
みんなにイヤミをいわれていじめのようなこともあった。
それでも私は、イヤなものはイヤだからひとりで教室にいた。
なんといわれても「おれはおれだ」という気持ちで生きていた。
気は小さかったが、意地っ張りではありました。
腕力もない私ですが、気持ちだけは負けたくなかった。
「こらそん保育園 そんけいぶんのプライベート日記」を読んで、小学生のときを思い出しました。
8月20日(月)の昼、私と女房は湯川ふるさと公園を歩いてツルヤに買い物に行った。
この日は私が普通に歩いていても、女房が「ゆっくり歩いて」という。
女房は、足が痛いので歩くことが苦痛になっていた。
ツルヤからの帰り、しばらく会っていなかったおじいさんに会う。
最近、姿を見かけなかったので心配していた。
冬の頃、私たちはこのおじいさんによく会った。
話をすると、健康のために歩いているといっていた。
腰を深く曲げて歩いている。
挨拶をするとステキな笑顔を返してくれる。
私たちは、「またお会いしましょう」といって別れた。
8月19日(日)、私と女房は朝7時半に東京の家を出た。
清瀬から254号を通って東松山ICで関越道に乗って順調に帰ってきたのですが、
横川SAを過ぎて、碓井軽井沢ICの前でものすごい渋滞になった。これは、
関越道に乗ったときから表示板に「碓井軽井沢IC 渋滞 10分」と書いてあり、わかっていた。
私と女房は悩んだ。
女房がこれまで高速バスで来るときにも経験したことない渋滞だという。
それじゃ、ということで佐久平PAまで行ってスマートICで出ることにした。
女房の予想では、あのまま碓井軽井沢ICから高速を降りたら、
中軽井沢の家に行くまで1時間はかかるのではないか、というからだ。
これまで彼女は、ICを出てから軽井沢駅までものすごく時間のかかったのを経験していた。
佐久平PAではなんの混雑もなく高速道路から降りられた。
面白いもんですね。
これまで私はよくこんな看板を見た。
「佐久平PAからも軽井沢に行けます」とかなんとか。
私は、なにも遠回りして佐久平PAから降りることはないよな、と思っていた。
そんな私が、佐久平PAから降りた。
私は、生きている方針をこんなに簡単に変更してしまう。
九想の人生なんてこんなものか…
上信越道を降りて私たちは佐久市街に行った。
東京から帰る車の中で、私と女房はホットプレートの話をしていた。
その前に夕食は何にするか?という話題だった。
私が「焼き肉がいい」といったら、女房が「それじゃ、ホットプレートを買いたい」という。
私の家には、息子たちが高校生の頃に買った大きなホットプレートがあった。
それは2人で焼き肉をやるには大きすぎた。
それで女房は、もっと小さいのが欲しいというのだった。
それで渋滞のお陰で佐久まで来たのだから「小さいホットプレートを買おう」となった。
女房は、「ニトリに小さいのがあったと思う」という。
私は、「その前に、ケーズデンキを見てみよう」といった。
ケーズデンキに1,980円で丸いホットプレートがあった。
値段はいいが、ちょっと大きかった。
「せっかくだからもっと小さいのがいい」と女房。
ニトリに行った。
1,900円でこんなものがあった。
天板が交換できて、タコ焼きもできるのだ。
女房はこれがとても気に入った。
「私、タコ焼きを焼いてみたかった」と上機嫌。
それを買って、その夜の食事は焼き肉にした。
次の日(8/20)の夜、タコ焼きのできるホットプレートを買ったのだから、夕食はタコ焼きを作ろう、となった。
夕方、ツルヤでタコ焼きの食材を買った。
しかし、女房は体調が悪かった。
実は、東京にいるときから女房は元気がなかった。
そんなこともあって、この夏休みにはどこにも行かないで中軽井沢でのんびりしよう、となったのです。
結局、その夜に、タコ焼きは作らなかった。
あのいつも軽井沢に来ると元気にはしゃいでいる女房が、食欲なく静かだった。
食事もそこそこに彼女は8時頃布団に入ってしまった。
私は、タコ焼き用に買ったタコを刺身として食べてニセビールを飲んだ。
翌日(8/21)の朝、女房が「タコ焼きをやろうか」という。
「だって、タコ食べちゃったからないよ」と私。
「タコなくてもいいから、タコ焼きやろう」と体調の悪い女房がいう。
よくわからない会話です。
女房が、タコ焼きの粉を水で溶かし、ホットプレートの天板をタコ焼き用にして、
九想家のタコのない“タコ焼き”は決行された。
焼けてきたタコ焼きの粉の上に前日購入しておいた紅ショウガと天かすを載せた。
それを竹ぐしでひっくり返す。
なぜかタコがないのに、タコ焼きらしくなった。
美味かった。
「終わらざる夏」(浅田次郎著 集英社)の第一章(179ページ)までを読んだ。
序章では、大本営に勤務する小松少佐と盛岡聯隊区司令部の佐々木曹長のことを書いている。
小松少佐は、召集令状を発行するもとになる動員表を作っている。
動員班の歩兵担当主任である佐々木曹長は、数字を氏名に置きかえていた。
兵士を集める人間の苦悩がここには書いてあった。
そして盛岡で動員が始まった。
「こんどの動員ばがりァ、ゆるぐね」
しかし、村に残っているのは女と子どもが多くなっていて青年は少ない。
なのでこれまで兵士には無理なような人が選ばれた。
この小説の3人の登場人物が出てくる。
“特業”と呼ばれる専門技術者だ。
米英語の通訳者、医者、車の運転ができる人だ。
第一章には、45歳と11ヶ月の洋書出版社で翻訳をしている片岡直哉、
若い医師の菊池忠彦、右手の指が3本しかない車の運転ができる富永熊男の、
軍隊に行くまでのことが書いてあった。
これからこの3人が軍隊に入ってどうなっていくのだろう?
上・下1,000ページほどある小説です。
今日はたくさん読めたが、いつ終わるのだろう?
夏休みに読書はいいですね。
昨日、私は東京に行った。
昨日から私は5日間の夏休みです。
土曜日に休めることはほとんどないので、昔同じ会社で働いていたSさんと会うことにした。
彼は平日の夜は仕事があり、土日にしか会えない。
彼と会うときは、いつも西友小手指店の前です。
小手指駅前に高層のマンションが2棟たっていたのには吃驚した。
街の景色が変わっていた。
私が離れてしまってから所沢は大きく変わっていく。(トウゼンデス)
友人と会うのは正月以来。
彼は私より5歳年下で5人の子どもがいる。
互いの暮らしのことをいろいろ話し午後8時に別れた。
この12月に長男が結婚するという。
私は、新所沢のほうに歩いていった。
肴やにでも行ってみようと思った。
途中の横断歩道橋に沢山の人が上がっていて遠くを見ていた。
そういえば花火の音がしていた。
西武園の花火が歩道橋から見えるのかな、と思った。
西武園では夏の間、毎週土日に花火を上げていた。
一度通り過ぎたが戻って私も歩道橋に上がってみた。
遠くに花火が見えた。
私が住んでいた団地の6階の家からはよく花火が見えた。
20分ほどで昔よく飲み歩いたシントコの“飲み屋街”に着いた。
一度通り過ぎてから戻って、よく入った店の写真を撮り始めた。
「カラオケしんちゃん」「ブロッグヘッズ」
懐かしい気持ちがググっと心にあふれてきた。
ボーッとその街並みを眺めていたら、
「おぎちゃん」と呼ばれた。
シントコに住んでいたときに陶芸を一緒にやっていたシンちゃんたちだった。
「ナニしてんの?今からカラオケに行くんだよ。行こうよ」という。
カラオケは久しぶりだった。
(軽井沢にカラオケ店はない。“西軽井沢”に1つありますが、“西軽井沢”は軽井沢町ではありません)
私は歌いました。
「希望の轍」サザンオールスターズ
「唇をかみしめて」吉田拓郎
「虹とスニーカーの頃」チューリップ
「悲しい気持ち」桑田佳祐
「レイニーブルー」徳永英明
楽しかった。
みんなは変わりなく元気だった。
しかし、この頃は年を取ったせいか平日は飲んでいないという。
私はいつもは平日にしかシントコに来られない。
たまたま土曜日にシントコにいたからって、会えたのはほんとに偶然だった。
花火を歩道橋で見なかったら、会えなかったかもしれない。
肴やは閉まっていた 新所沢駅 所沢駅
10時40分に店を出て走った。
新所沢駅で10時51分の新宿駅行きの電車に乗った。
所沢駅で西武池袋線に乗り換えた。
清瀬駅で11時20分の深夜バスに乗れた。
バスに間に合ってよかった。
今朝、女房と軽井沢に戻って来た。
この夏休みは、女房の大好きな軽井沢にいようと思う。
私の父は、平成3年8月18日に82歳で他界した。
私が、39歳のときだった。
息子たちが10歳のときなんですね。
そのとき私はちょうど会社のお盆休みのときで、
1週間、父の入院している病院に泊まり込んで看病できた。
1日おきに兄と交替で病院に泊まった。
最後のほうは父の意識がなく、下の世話もした。
点滴だけで生きていたので薬臭い緑のウンチだった。
私の休みが終わるので18日に所沢に帰った。
そして、私が所沢に着いた頃、父は亡くなったらしい。
父の病気は膵臓ガンだった。
その年のはじめに顔が黄色くなり(黄疸ですね)、入院した。
手術をしたが、なにもできずに傷口を閉じた。
5月の頃、いったん退院した。
父は病気がなおったかと思い喜んだ。
しかし、膵臓ガンは何も変化していなかった。
7月に再び入院して、8月18日に亡くなった。
今日は、しみじみ父のいろんなことを考えました。
岬めぐり - 山本コータローとウィークエンド
今朝のラジオ深夜便の午前3時台は、
「にっぽんの歌こころの歌 作家で綴る流行歌:山上路夫(作詞)作品集 (第2回)」でした。
岬めぐり 山本コータローとウィークエンド
二人でお酒を 梓 みちよ
昭和ブルース 天知 茂
あゝ人生に涙あり 杉 良太郎、横内 正
学校の先生 坂上 二郎
遣らずの雨 川中 美幸
お先にどうぞ 由紀 さおり
いくたびの櫻 ふくい 舞
翼をください 赤い鳥
山上路夫は、いろんなジャンルの歌詞を書いているんだなと思った。
私はこの歌の中で、最初にかかった「岬めぐり」に思い入れがあります。
この歌が流行っている頃に私は四国一周をした。
そのときに足摺岬にバスで行った。
バスの窓から外の景色を見ているときに、ずーっと「岬めぐり」を歌っていた。
♪あなたがいつか話してくれた 岬を僕はたずねて来た
二人で行くと約束したが 今ではそれもかなわないこと
だいたいつきあっているときはこういう約束をするんですよね。
♪幸せそうな人々たちと 岬を回るひとりで僕は
くだける波のあのはげしさで あなたをもっと愛したかった
十分自分の愛は激しかったのですが、振り返ると激しさが足りなかったと反省する私です。
♪岬めぐりのバスは走る 僕はどうして生きていこう
悲しみ深く海に沈めたら この旅終えて街に帰ろう
岬の先端に行って海に飛び込もうということではなくて、
「この旅終えて街に帰ろう」というのに、救いというか明日への希望がありますね。
じっさい、私も足摺岬から帰って東京で再び暮らしはじめたんです。