先日、大学生の就職内定率が低迷している件についての記事を書きましたが、その中でリンクしたブログ記事の筆者のひとりが続きを書いていたのを読みました。
「就職難は大学生の増え過ぎが原因」に対する反論(アゴラ・加藤智将)
なんだかイマイチな浅い議論だなと感じたので、脊髄反射的ではありますが軽くカラんでみたいと思います。
まず、問題設定が不可解。
"就職難は大学生の増え過ぎが原因"説への反論ということだけど、ここでいう「就職難」って何を指しているのか?
たぶんこの記事は、同じアゴラの池田信夫氏の記事「大学生が多すぎる」への反論なんだろうけど、池田氏の記事は、大学生の就職内定率が低いのは大学生の数が多いからだと言っている(内定率の分母は大学生数なのでこれは単純な算数の問題)のであって、「就職難」即ち「求人が少ないこと」の原因が「大学生の増えすぎ」にあると言っているわけではない。
次に、大卒求人倍率と比べて高卒求人倍率が低いことをもって、「仮に大学進学率が今より下がって高卒者が増えたとしても、更に就職が厳しくなるだけ」と書いているが、これもよくわからん。
大卒も高卒も求人数が一定だと仮定した場合、大学生の数が減って高卒者の数が増えれば、高卒の求人倍率はさらに低下するが、大卒の求人倍率はその分上がる(これも単純な算数の問題)。
他の条件を一定とすれば、それに応じて大卒の就職内定率は上がって、高卒の就職内定率は下がる。
つまり「就職難」は良くも悪くもならない(マッチングがうまくいくようになって改善するかもしれない)。
で、"理工系学生が少なすぎる"ことが問題だと言ってるのだけれど、これも浅いなあと感じる。
理工系は就職に強いので、理工系学生が増えれば就職難が改善すると言っているようなのだけど、本当にそうだろうか?
理工系が就職に強いのは少数精鋭で希少価値があるからであって、そこらじゅう理工系だらけになってしまったらその分価値は下がる。
コメント欄にもあるけど、理工系の定員を増やしたところでその分レベルが下がれば”就活無敵”という状況も変わってくるのが必定。
どうも全体に数字を一面的、静的に捉え過ぎなきらいがあり、こっちの数字が変わればあっちも変わるという相関が理解されていないような印象です。
「就職難は大学生の増え過ぎが原因」に対する反論(アゴラ・加藤智将)
なんだかイマイチな浅い議論だなと感じたので、脊髄反射的ではありますが軽くカラんでみたいと思います。
まず、問題設定が不可解。
"就職難は大学生の増え過ぎが原因"説への反論ということだけど、ここでいう「就職難」って何を指しているのか?
たぶんこの記事は、同じアゴラの池田信夫氏の記事「大学生が多すぎる」への反論なんだろうけど、池田氏の記事は、大学生の就職内定率が低いのは大学生の数が多いからだと言っている(内定率の分母は大学生数なのでこれは単純な算数の問題)のであって、「就職難」即ち「求人が少ないこと」の原因が「大学生の増えすぎ」にあると言っているわけではない。
次に、大卒求人倍率と比べて高卒求人倍率が低いことをもって、「仮に大学進学率が今より下がって高卒者が増えたとしても、更に就職が厳しくなるだけ」と書いているが、これもよくわからん。
大卒も高卒も求人数が一定だと仮定した場合、大学生の数が減って高卒者の数が増えれば、高卒の求人倍率はさらに低下するが、大卒の求人倍率はその分上がる(これも単純な算数の問題)。
他の条件を一定とすれば、それに応じて大卒の就職内定率は上がって、高卒の就職内定率は下がる。
つまり「就職難」は良くも悪くもならない(マッチングがうまくいくようになって改善するかもしれない)。
で、"理工系学生が少なすぎる"ことが問題だと言ってるのだけれど、これも浅いなあと感じる。
理工系は就職に強いので、理工系学生が増えれば就職難が改善すると言っているようなのだけど、本当にそうだろうか?
理工系が就職に強いのは少数精鋭で希少価値があるからであって、そこらじゅう理工系だらけになってしまったらその分価値は下がる。
コメント欄にもあるけど、理工系の定員を増やしたところでその分レベルが下がれば”就活無敵”という状況も変わってくるのが必定。
どうも全体に数字を一面的、静的に捉え過ぎなきらいがあり、こっちの数字が変わればあっちも変わるという相関が理解されていないような印象です。