そうだったのか現代思想 ニーチェからフーコーまで (講談社+α文庫) | |
小阪修平 | |
講談社 |
Kindle版にて読了。
現代思想といえば知識欲を刺激されるものの、Eテレの『100分de名著』でニーチェを、内田樹さんの本でレヴィ・ストロースをほんのちょっと齧ったことがあるくらいで、ハイデガーだサルトルだフーコーだと言われても何がどう違うのかさっぱりわからん自分。
この本は入門書としてはかなりわかりやすい、とどこかで読んだので挑戦してみた次第。
著者はすでに故人(2007年に60歳で死去)ですが、全共闘世代で、東大を中退、在野の評論家として活躍しつつ予備校の講師も務めた人物。
本書は1990年代前半に朝日カルチャーセンターで著者が行った講義を書籍化したもので、2002年に再編集して文庫化されたもの。
ということで、20年前くらいの議論なので最新の内容とは言えないのだろうけど、その後の「失われた20年」では現代思想なんて世間でほぼ関心を払われていない気がする(自分が知らないだけかもしれんが)ので、大差ないのかも。
本書の中でも浅田彰の名前がよく出てくるけど、自分が小学校高学年くらいだった1980年代前半には確かに思想ブームってのがあって、大学受験の時の現代文の試験問題に記号論に関する文章とかよく出てきたな、なんて思い出したり。
現代思想の影響って、全共闘世代・団塊世代の下のラインでぶっつりと途切れている印象は確かにするのだよね。
正直、これを読んで現代思想が「解った」ということは全くなく、また、さらに深く学んでみようという意欲を掻き立てられたということも全然ないんだけど、まあ大まかな「流れ」みたいなものをちょっとはイメージできたかな、と。
以下、僭越ながら自分なりの理解でその「流れ」をダイジェストしてみる。
まず著者は、現代思想の源流として、ニーチェの思想、フロイトの精神分析学、ソシュールの言語学の3つを挙げる。
【ニーチェ】
旧来の哲学の「破壊者」
「神は死んだ」→それまでの哲学が基準としていた「価値」「真理」を否定。
生の中心をなすのは「力への意志」である。
【フロイト】
「無意識」からの力をもとに人間の心のモデルを組み立てる。
【ソシュール】
先にモノがあって言葉はそれを映すのではなく、逆に人間の認識というのは言葉を通じてしかありえないのではないか、との考え方。
言葉をつくっているのは「差異の体系」
→言葉の制度から逃れて自由を求めるのは、言葉の規則をうまく使いながら、実は今までの規則から逸脱したような言葉を使う、ということではないか。
そして、現代思想へと思想のシーンの転換期に登場したハイデガー、サルトル、レヴィ・ストロース。
【ハイデガー】
世界を「見る」という働きの背後にある存在=「人間」
人間を、モノとしての存在とは異なるあり方をもった存在として捉える。
【サルトル】
人間の自由意志を強調。
【レヴィ・ストロース】
文化人類学の見地から、様々な文化における社会制度を、対立関係を軸に数学的な「構造」として捉える→構造主義、客観主義
(→次第に「実はそんなに客観的ではない」ことがわかってくる→ポスト構造主義=ポスト・モダン)
「歴史」「人間」の特権性、ヨーロッパ中心主義に対して批判的。
で、以降は「狭義の現代思想」、各論に入っていく。
【デリダ】
ラング(言語)から逃れるために、言語をある決まりきった使い方から「ずらしていく」。
その中にある種の「自由」がある。
【ドゥルーズ=ガタリ】
人間の「欲望」に着目。
【ロラン・バルトとボードリヤール】
モノの消費から、モノに与えられた社会的な意味、記号としての意味の消費へ。
言葉の中に、あるいは記号の中に「自由」を見ていっても、言語の体系を乗り越えることができない。
→あらゆる過去が神話作用を通じて現在になっていく、あらゆる超越性が消費されていく。
【フーコー】
「自分」の二重性→どれだけ説明しても、またそれについて意識する自分というのがある。
近代の空間は、ある排除によってその部分が成立するという構造を持つ→「権力」の概念の範囲を広げた。
で、まとめ。
現代思想というのは、「絶対的な真理」「確固とした主体」を批判する、相対主義への流れである。
が、相対主義というのはどうしても「恣意性」を含んでしまうことが問題である。
日本でもかつて(1966年くらいまで)は「知識人」が社会をリードしていくんだという意識があった。
それが高度成長、大衆社会の到来により崩れていった。
知識人が自分自身を問わなくてよい幸福な立場にはいられなくなり、どんなことを言っても「お前が勝手に考えただけだろ」という恣意性の批判を浴びるようになってしまった。
こういう反問に答えるには、自分自身のなかの不透明な部分をとりあえず認めて、それに鷹揚になることが必要。
現代思想が批判している古典的な「自己」「道徳」ではない形での、自己や倫理に対する問題の立て方がありえるはずで、それが21世紀初頭の大きな課題の一つであろう。
というのが、著者の〆めであり、この課題提起をして21世紀初頭にこの世を去っていったわけです。
どうだろう、21世紀に入って15年が経とうとしている現在においても、社会はどんどん相対化していて、それによる様々な対立もまた先鋭化しているような気もする。
著者が投げた課題提起に対する答えはどこにあるのだろう?
(共同体回帰?それもまた違うような気がするな)