本日(2月21日)の東京新聞は、2月20日の衆院予算委員会での安倍首相の答弁も詳しく紹介していた。
安倍首相は、教育改革に関し「教育基本法は占領時代につくられたが、衆参両院で自民党単独で過半数をとっていた時代も手を触れなかった。そうしたマインドコントロールから抜け出す必要がある」と語ったという。
日本人が抜け出すべきは長州史観のマインドコントロールからである。正しくは、次のように言うべきであろう。
「教育勅語は長州藩閥の日本占領時代につくられたが、長州の末裔が首相になってその亡霊がよみがえりつつある。明治時代に長州が仕掛けたマインドコントロールから抜け出す必要がある」
また安倍首相は以下のようにも語ったそうだ。
第一次安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というスローガンについて、「あえて使っていないが捨てたわけではなく、変わらない」、さらに「憲法や教育制度を私たちの手で変えていくことこそが、戦後体制からの脱却になる」と。
日本人が本当に目指すべきなは、明治期の薩長藩閥政権がつくりあげた中央集権的官僚支配体制という「長州レジームからの脱却」である。正しくは次のように言うべきであろう。
「憲法や教育制度を、長州人の伊藤や山縣などが密室で決めて上意下達したようなやり方でなく、国民の下からの輿論によってつくりあげていくことこそ、長州レジームからの脱却につながる」と。
日本は基本的に146年間というもの「長州レジーム」によって支配されている。安倍首相が憎むところの、占領軍が戦後に行った「改革」など、薩長藩閥政権がつくりあげた官僚支配体制という強固なレジームに小手先の修正を加えたにすぎない。「占領レジーム」とともに「長州レジーム」から脱却してこそ、日本はよみがえるのである。
安倍首相は、教育改革に関し「教育基本法は占領時代につくられたが、衆参両院で自民党単独で過半数をとっていた時代も手を触れなかった。そうしたマインドコントロールから抜け出す必要がある」と語ったという。
日本人が抜け出すべきは長州史観のマインドコントロールからである。正しくは、次のように言うべきであろう。
「教育勅語は長州藩閥の日本占領時代につくられたが、長州の末裔が首相になってその亡霊がよみがえりつつある。明治時代に長州が仕掛けたマインドコントロールから抜け出す必要がある」
また安倍首相は以下のようにも語ったそうだ。
第一次安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というスローガンについて、「あえて使っていないが捨てたわけではなく、変わらない」、さらに「憲法や教育制度を私たちの手で変えていくことこそが、戦後体制からの脱却になる」と。
日本人が本当に目指すべきなは、明治期の薩長藩閥政権がつくりあげた中央集権的官僚支配体制という「長州レジームからの脱却」である。正しくは次のように言うべきであろう。
「憲法や教育制度を、長州人の伊藤や山縣などが密室で決めて上意下達したようなやり方でなく、国民の下からの輿論によってつくりあげていくことこそ、長州レジームからの脱却につながる」と。
日本は基本的に146年間というもの「長州レジーム」によって支配されている。安倍首相が憎むところの、占領軍が戦後に行った「改革」など、薩長藩閥政権がつくりあげた官僚支配体制という強固なレジームに小手先の修正を加えたにすぎない。「占領レジーム」とともに「長州レジーム」から脱却してこそ、日本はよみがえるのである。
関さん、いささかなりとお役に立てばと場違いのお邪魔をおそれながらお送りしたものに対して、まことに身に余るお言葉をいただき、恐縮して凝固っております。
「最新コメント」欄で投稿名がボトムに移り目立たなくなりましたので、その後にお出しになった記事についてまたフォロー(追っかけ)をさせていただきたいと、豊富なトピックの咀嚼をしております。
それに・・・御著『自由貿易神話解体新書』に喝采をと(この本はほとんど暗記するまで繰り返して手に取るだろうと思います)。
☆☆☆
さて、この間、白井聡という方の『永続敗戦論』(太田出版、2013年)が妙にアタマに引っかかっておりまして・・・おそらく、白井聡氏の趣意は、次のようなことかと思います:
自らの責任により始めた戦争(対中戦争と対米戦争)の敗北・破綻にかかわらず対内支配を維持した支配層が、対内的には、即ち国民となにより自分自身に対して、欺瞞によって敗北を否定し続けてきたことが、最近の米軍沖縄基地問題から原発問題、領土問題からTPP、オリンピックに都知事選という事態にあらわれるものの、諸悪の根源であること。すなわち、それが敗戦=GHQレジームを否定する「アベ・レジーム」であること。
当方なりの結論に先回りしますと、「永続敗戦」(敗戦の誤魔化し)が根源なのではなく、「(明治維新以来の)支配層が、対外的敗戦にかかわらず対内支配を維持したこと」に民を苦しめる現在の諸悪の根本の原因があり、言い換えますと、東西冷戦という外的事情を奇貨として「長州史観の継続」がなされたことに発することであると思います。
冷戦終了後に本来当然にあらわれるべきものであると考えられる、関さんの『長州史観から日本を取り戻す』という主題に満腔の敬意を表します。
そうは言いながら、『永続敗戦論』の第1章「『戦後』の終わり」にある白井聡さんのソ連崩壊に関する言葉(同書P33)にはまったくつけ加える余地がありません。借りものとは思えませんので、という弁解をしつつ、関さんにお贈りしたいと思います:
・・・日々の日常生活における不満が高まったところで、それ自体が時の体制を根本から否定する流れをつくり出すわけでは必ずしもない。・・・日常生活において人々が直面する抑圧、そして侮辱が、その社会が歴史的にたどってきた軌道から生ずる必然的な産物として把握されるとき、その社会体制は我慢することのできない全般的な犯罪として、その存在そのものが耐え忍ぶに値しないものとして現れる、・・・歴史と記憶に対する支配の実効性と、現実的支配の実効性・・・は、正比例の関係にある。