代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

江戸公儀の安政の五か国条約のままならば迅速に工業化していた

2014年02月19日 | 長州史観から日本を取り戻す
 前回の記事「下関戦争は日本におけるアヘン戦争である」に対し、「薩長公英陰謀論者」さんからまたもやすばらしいフォローをいただきました。コメント欄に留めておくのはあまりにももったいないので、本文でも引用させていただきます。私などよりもよほど多くの文献を渉猟しておられ、博学であり、脱帽しています。私の代わりに書いてもらいたいくらいです。

 もとより歴史学者でも何でもない私が、「やむにやまれる気持ち」でこれらの記事を書き始めたのは、ひとえに安倍政権がNHKを抱え込んででも遂行しようとしている長州=靖国史観による「日本人再洗脳プログラム」に対し、微力ながら何とか抵抗したいという思いからであった。

 これは多くの人々が力を合わせて初めて可能になることだと思います。ぜひ今後と読者の皆様に教えていただきたく存じます。

 なお「薩長公英陰謀論者」さんの密貿易問題に関しては、私は造詣がうすく、まだ適切なコメントできる状態ではないので、まず勉強させていただきます。また長州尊攘過激派の行動に関しては、多分に行き当たりバッタリ的な側面も多いように思えます。周到なシナリオがあったという「薩長公英陰謀論者」さんの解釈には、「少々彼らを過大評価しすぎかも知れない」とも思えます。この問題もにわかにはコメントできません。
 本日は、それ以外の部分に関して、若干のコメントをさせていただきます。

****薩長公英陰謀論者さんのコメントの抜粋****

Wikipedia「改税約書」に「駐日イギリス公使パークスを中心とする列強側は、財政難の江戸幕府が支払いに困窮している下関戦争賠償金総額の3分の2を減免することを条件に条約の勅許、兵庫早期開港、関税率低減を要求した。これにより、・・・外国商品は国内の物価上昇(インフレーション)に即応しない安価な商品が大量に流入することとなり、国際貿易収支を不均衡にしたのみならず、日本における産業資本の発達が著しく阻害された」とあること、また、岩波新書『シリーズ日本近現代史 幕末・維新』(井上勝生、2006年)に、「こうして日本は、関税について天津(敗戦)条約を結んだ中国と同じ不利な条件を認めさせられた。前年1864(元治元)年の幕府の関税収入は174万両、歳入の18パーセントという多額の収入になっている。関税障壁を低減させたことと併せて、関税収入大幅減額(四分の一への減)は、日本にとって重大な損失であった」(同書P132)とあるのを見ました。なるほど。

『講座 明治維新第2巻 幕末政治と社会変動』(有志舎、2011年)所収の鵜飼政志論文「ペリー来航と内外の政治状況」がこだわるポイント、対米外交を担当した幕吏が有能であったことと、その後の歴史が整合しない・・、という疑問への答えがここにあります。井伊直弼が短視眼的権謀術数によって次席老中松平伊賀守忠固以下その「有能な幕吏」をすべて粛清してしまっていたという公儀側の不運な状況を奇貨として、この下関アヘン戦争が公儀側の達成のすべてを吹き飛ばし、「歴史の継続性・整合性」が断ち切られたわけですね。

英国(英国商人)は中国市場を本命にしながらも、アジア地域をそのひとつである日本を含めて自由貿易地域にする(グローバル化する)という一貫して揺るがない基本戦略を持っており、そのために日本については公儀による通商地を限定した管理貿易体制を破壊することが至上命令であったと思われます。これがはからずも薩長の「攘夷」と表裏一体となるわけで、オールコック・長州攘夷派の双方「あうんの呼吸」で日本におけるアヘン戦争を結果的に演出したのかと思うと、ぼう然とするばかりです。

「長州攘夷派の『暴発』に乗じ、米仏蘭三カ国の現地軍事力を巻き込んで利用、完膚なき武力行使と注文どおりの講和を演じてのけたオールコックの手腕」&「武力行使を問題視した本国政府に理解して貰った(下関アヘン戦争の)『事情』」とは、下関アヘン戦争が、「四カ国それぞれの市民とその通商活動を保護するためのやむを得ぬ正当防衛として行われた」ものであるという「事実」のことです。

 井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社、2002年)にはこう述べてあります(講談社学術文庫版P305~306):

・・・攘夷予定実行予定の当日、下関海峡を通過するため、折からの強風を避けて停泊していたアメリカ商船に。長州藩の下関総奉行毛利能登が問い合わせをする。これに対して、アメリカ側は幕府の水先案内人を乗せていて、幕府の用状ももっていることを示したため、下関総奉行は長州藩の尊皇攘夷激派に対して、商船への砲撃を制止したのであった。ところが、久坂玄瑞ら京都から来た「光明寺党」(下関の光明寺に拠った)の尊攘激派は暗夜に紛れて軍船で忍び寄りこの商船を砲撃し、大破させた。・・・つづくフランス通信艦、オランダ軍艦に対する突然の砲撃も同様であった。アヘン戦争の時、アヘンを廃棄した林則徐の行動とは、道理において比較できるものではないのである。・・・越前藩の村田巳三郎(注:Wikipediaによれば、松平春嶽の補佐役とのことです)は坂本龍馬に、長州藩の行為は「日本、万国に対して不義非道」と述べた。

 ・・・とのこと。長州藩をその後まるごと乗っ取ることになる長州尊攘激派の、この確信犯的で果敢なテロリズムは、たんなる『暴発』ではなく、その背後にしっかりとしたシナリオがあることを感じさせます。もちろんシナリオ(権謀術数・謀略)であって、それゆえに道理の有無は別問題ですね。

 
 


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 井上勝生氏の『シリーズ日本近現代史 幕末・維新』、不覚にもまだ読んでいませんでした。下関戦争の結果としての「改税約書」が、いかに日本の産業資本主義の発達を阻害したかに関しては、石井孝氏の一連の研究以来は十分な研究がなされていないと思っていました。井上氏のこの指摘は本当にすばらしいと思いました。
 また「改税約書(=江戸協約)」のwikipediaの記事も本質を捉えた的確な記述だと思います。Wikipediaのあの記事を書いた方 Good job! です。
  
 以下、若干補足します。

 関税自主権のない状態では、日清戦争以前、日本政府の輸入関税率は一律に5%とされ、明治政府の財政に占める関税収入の割合も5%程度であった(輸入関税と輸出税の双方をあわせて)。同じ時期のドイツが財源の20~30%を輸入関税に依存していたのとは大きな違いであった。

 この時期に世界でもっとも高い関税率を維持していたのは米国であった。朝倉弘教氏の『世界関税史』(日本関税協会、1983年)によれば、1870年代の米国の平均関税率は40%であった。この時期の米国連邦政府の財源に占める関税収入の比率を見てみると1885年で関税収入は歳入の56%、1889年には58%などとなっている。( 川崎紘宗氏の「行財政改革に至るまでのアメリカ連邦政府における予算制度と財政の状況」を参照  http://www.b.kobe-u.ac.jp/stuwp/2010/201010a.pdf

 19世紀後半のアメリカは歳入の50%強を関税に依存し、それによって鉄道や港湾、道路など自国のインフラ建設を進め、 さらに安価なイギリス製品に対抗しつつ工業化を進めたのである。

 日本では、開国初期の元治元年(1864年)に国家財政の18%を補っていた関税収入が、下関戦争の敗戦の結果5%程度に減ってしまった。安価な工業製品(綿製品など)の流入に歯止めがかからなくなり、殖産興業のための財源も不足し、二重の意味で工業化を遅らせる作用を及ぼした。関税収入を失って、思うように財源の確保ができない明治政府にとって、関税自主権の回復が悲願になった理由が分かるであろう。明治の薩長藩閥政府は、自らが起こした無謀な攘夷戦争によって自らの手足を縛ったのである。大英帝国にとっては、江戸公儀に比べて、明治の薩長藩閥政府の方がどれだけ御しやすい相手であったことだろう。

 鉄鋼などの重工業を育成するためには、税収確保の手段として、また近代工業を育成するための保護措置として、関税自主権の回復がどうしても必要だったのだ。当時の日本の最大の輸出品であった生糸は、江戸時代の百姓技術を基礎に発展した軽工業であり、初期費用はそれほど必要ではなかった。

 初期費用が膨大にかかる重化学工業を本格的に発展させるためには、関税による保護が必要だった。それゆえ明治政府にとって関税自主権の回復は悲願となったのである。これは日本史を勉強した人ならば誰でもが知っているはずのことであろう。

 この点に関しては、竹中平蔵氏の師匠である経済学者の山澤逸平氏でも次のように述べている通りである。

 
日本の工業化が欧米諸国との協定による低い関税障壁のもとで開始されたことはよく知られている。現在著しく高い関税障壁を維持し、きびしい輸入制限を行いながら、その工業化が停滞している発展途上国が少なくないことと照らし合わせて、工業化初期の日本においては強制されたとはいえ、自由貿易を維持したことを、急速な工業化を成功させた一要因と見る論者も少なくない。
 しかし一八九九(明治三二)年関税自主権を回復して以来一九三○年代初めまで、日本の関税率は漸次引き上げられていった。これは日本が重化学工業化をはじめ、その輸入代替化を推進した時期にあたる。すなわち、日本の重化学工業化は保護貿易のもとで進められたのであった。(山澤逸平『日本の経済発展と国際分業』東洋経済新報社、1984年:140頁。
 


 じつに的確な記述であると思う。本来、ふつうの近代経済学者であれば常識的にこのような認識をしていたのである。近代化のためには関税など邪魔であるかのように言う、昨今の新古典派経済学者たちがいかに異常な存在か、歴史を知らない無知な人々であるかお分かりであろう。そのような人々の言いなりになって世界を破壊してはならない。

 
 さて、日本政府は、第一次の条約改正が行われた1899年になって、ようやく重化学工業に傾斜した関税政策を採用することができた。綿花や鉄鉱石などの一次資源に対しては関税率を低く設定する一方で、工業製品(完成品)に対しては15%程度の関税を賦課して、鉄鋼業などの国内産業の育成を図ったのである。

 1899年の関税自主権の一部回復後、明治になってはじめて国家予算の10%以上を関税収入で補えるようになった。それを契機に重化学工業化を進めることができたのである。しかし財源に占める関税収入の比率10%を達成しても、まだ「幕末」期に達成した18%の比率には及ばなかった。

 江戸公儀が結んだ安政の五か国条約の原型のままであったら、すみやかに日本は工業化していたはずであるという理由がわかるであろう。
 

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