忙しくて、しばらくブログの更新が滞っております。あまり更新を怠ると読者に見放されてしまうので、何か書きます。いま時事問題を論じる余力がないので、現在自分が追い立てられている仕事について書きます。いまの仕事は、1980年代以降に、中国や韓国からの留学生たちが書いてきた東アジア地域の林業・林政に関する諸論文をまとめてレビューするというものです。
東南アジアやアフリカの森林研究では、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、スペインなどの旧宗主国が導入した森林政策と、独立後の森林政策との連続性に注目する研究が、1980年代から盛んに行なわれるようになってきました。独立後も森林の収奪的利用をもたらすことになった森林の国家所有制度は、植民地時代に起源があります。独立後の途上国政府の多くは、基本的に植民地時代の森林行政を引き継ぎましたが、それが森林荒廃を生み出す制度的基礎になったというわけです。
台湾・韓国・北朝鮮・中国東北部(旧満州地域)に共通していることは、いずれも日本の植民地支配期に、日本の林政を移植する形で「近代的」林政の導入が計られたという事実です。植民地期林政の歴史資料の多くは日本語で書かれています。
ところが、日本の植民地時代のそれらの地域における森林行政に関する研究は十分にされていないんですね。日本人の手による研究としては、萩野敏雄氏が1965年に『朝鮮・満州・台湾林業発達史』(林野弘済会)という名著を書いているんですが、後に続く研究が出ていません。
韓国からの留学生は日本語を自由に読みこなせるので、日本に留学中に、日本にある歴史資料を読んで自国の森林政策のルーツを研究したりしています(そうした論文は少数です。まとまった単行本にもなっていません)。西欧によるアジア植民地の林政研究は盛んなのに対し、相対的に遅れています。また、韓国や中国からの留学生たちの論文は日本語で書かれているので、欧米にも全く知られていないという状況です。
いま韓国人留学生が行なった研究をまとめているのですが、それで少々意外だったのは、日本の植民地時代の森林行政に関する評価が、それほど悪くないことなのです。
例えばかつて東大に留学していた鄭夏顕氏は、植民地時代の日本の森林政策は、燃料林問題の解決や荒廃林野の造林・復旧に効果を上げたというプラス面を評価しています(鄭夏顕・永田信「近代韓国林野制度における国有・民有区分の形成過程」『林業経済研究』No.127、1995年)。
韓国は、1970年代の朴政権の下で大植樹運動を展開して、朝鮮戦争で荒廃した山林を完全に復旧させました。これは世界的に評価されている大森林再生プロジェクトでした。その森林再生の過程でも、日本が植民地時代に組織化した山林組合が、独立後に再組織化され、それがフルに機能して大いに役立ったとのことです(安起完「韓国における森林資源造成政策の展開と山林組合の役割に関する実証的研究」『林業経済』No.553、1994年)。
西欧の植民地では、森林は全て国有林として囲い込まれ、地元住民の山林利用の権利はひたすらに排除され、収奪が進められたのに対し、日本は朝鮮半島において、地元住民の伝統的林野利用権に一定の配慮をして国有林よりも私有林を重視して官民有区分をするとともに、李朝時代からの入会林慣行も配慮して地元住民による森林管理組織として山林組合を設立しています。
もちろん、だからといって植民地支配が正当化されるわけでは全くありませんが・・・。日本による私有林制度の導入の過程で、日本人や日本企業の大山林地主を生み出すなど、収奪的な側面も沢山ありました。韓国人の森林所有者の一人当たりの平均所有規模は9haだったのに対し、新たに韓国で林野所有権を得た日本人の平均所有規模は262haだったそうです。また、朝鮮総督府は1932年になってから、自ら組織した山林組合が民族的反抗の母体になる可能性を懸念して解散させてしまいます(安起完、前掲論文)。留学生たちはそうした事実も客観的に指摘しつつ論文を書いています。
しかしながら、西欧によるアジア植民地林政は、その後の荒廃と結び付けられて論じられているのに対し、韓国の植民地時代の林政は、その後の森林の再生とも結び付けられて論じられているというのは面白い事実ではあります。西欧の植民地林政と日本の植民地林政の比較研究というのは、ちょっと面白いテーマかも知れません。
東南アジアやアフリカの森林研究では、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、スペインなどの旧宗主国が導入した森林政策と、独立後の森林政策との連続性に注目する研究が、1980年代から盛んに行なわれるようになってきました。独立後も森林の収奪的利用をもたらすことになった森林の国家所有制度は、植民地時代に起源があります。独立後の途上国政府の多くは、基本的に植民地時代の森林行政を引き継ぎましたが、それが森林荒廃を生み出す制度的基礎になったというわけです。
台湾・韓国・北朝鮮・中国東北部(旧満州地域)に共通していることは、いずれも日本の植民地支配期に、日本の林政を移植する形で「近代的」林政の導入が計られたという事実です。植民地期林政の歴史資料の多くは日本語で書かれています。
ところが、日本の植民地時代のそれらの地域における森林行政に関する研究は十分にされていないんですね。日本人の手による研究としては、萩野敏雄氏が1965年に『朝鮮・満州・台湾林業発達史』(林野弘済会)という名著を書いているんですが、後に続く研究が出ていません。
韓国からの留学生は日本語を自由に読みこなせるので、日本に留学中に、日本にある歴史資料を読んで自国の森林政策のルーツを研究したりしています(そうした論文は少数です。まとまった単行本にもなっていません)。西欧によるアジア植民地の林政研究は盛んなのに対し、相対的に遅れています。また、韓国や中国からの留学生たちの論文は日本語で書かれているので、欧米にも全く知られていないという状況です。
いま韓国人留学生が行なった研究をまとめているのですが、それで少々意外だったのは、日本の植民地時代の森林行政に関する評価が、それほど悪くないことなのです。
例えばかつて東大に留学していた鄭夏顕氏は、植民地時代の日本の森林政策は、燃料林問題の解決や荒廃林野の造林・復旧に効果を上げたというプラス面を評価しています(鄭夏顕・永田信「近代韓国林野制度における国有・民有区分の形成過程」『林業経済研究』No.127、1995年)。
韓国は、1970年代の朴政権の下で大植樹運動を展開して、朝鮮戦争で荒廃した山林を完全に復旧させました。これは世界的に評価されている大森林再生プロジェクトでした。その森林再生の過程でも、日本が植民地時代に組織化した山林組合が、独立後に再組織化され、それがフルに機能して大いに役立ったとのことです(安起完「韓国における森林資源造成政策の展開と山林組合の役割に関する実証的研究」『林業経済』No.553、1994年)。
西欧の植民地では、森林は全て国有林として囲い込まれ、地元住民の山林利用の権利はひたすらに排除され、収奪が進められたのに対し、日本は朝鮮半島において、地元住民の伝統的林野利用権に一定の配慮をして国有林よりも私有林を重視して官民有区分をするとともに、李朝時代からの入会林慣行も配慮して地元住民による森林管理組織として山林組合を設立しています。
もちろん、だからといって植民地支配が正当化されるわけでは全くありませんが・・・。日本による私有林制度の導入の過程で、日本人や日本企業の大山林地主を生み出すなど、収奪的な側面も沢山ありました。韓国人の森林所有者の一人当たりの平均所有規模は9haだったのに対し、新たに韓国で林野所有権を得た日本人の平均所有規模は262haだったそうです。また、朝鮮総督府は1932年になってから、自ら組織した山林組合が民族的反抗の母体になる可能性を懸念して解散させてしまいます(安起完、前掲論文)。留学生たちはそうした事実も客観的に指摘しつつ論文を書いています。
しかしながら、西欧によるアジア植民地林政は、その後の荒廃と結び付けられて論じられているのに対し、韓国の植民地時代の林政は、その後の森林の再生とも結び付けられて論じられているというのは面白い事実ではあります。西欧の植民地林政と日本の植民地林政の比較研究というのは、ちょっと面白いテーマかも知れません。
日本は征服した土地も日本として扱いましたからね。
奴隷ではなく、同胞として受け入れ教育も施し、日本のカネを注ぎこんでインフラ整備もした。
日本の侵略は罪ではなく『功罪』だと思ってます。
いまの日韓歴史共同研究でも、もっとも揉めそうな問題ですね。
http://www.jkcf.or.jp/history/
私の立場を述べておくと、事実は「功罪」であっても、かつて支配した側の人間は「功」の部分を自慢してはならず、政治の次元では、「罪」の部分をひたすら謙虚に反省するべきだと思います。(その上で、学問的レベルでは、客観的に事実追求がなされるべきですが、政治レベルでしこりが残っていると、それも不可能になってしまいます)。
たとえ「功」があったとしても、植民地支配というものは民族的自尊心を決定的に踏みにじる行為です。支配された側が、「功」を認めたくないのは当然だと思います。
支配した側がひたすら「罪」の部分を謙虚に反省していれば和解できるでしょうし、そうなれば両国の学者が、客観的立場で「功」の部分をも含めて研究できる日も訪れるだろうと思います。
ちなみに植民地支配した側は、歴史資料がいちばんあるにも関わらず、政治レベルで気まずい雰囲気があるので研究しにくいというのは、他国でもありますね。オランダ人はインドネシアの研究をしにくいみたいですし、フランス人はベトナム、ラオス、カンボジアの研究はしにくいみたいです。(イギリス人は例外。平然と旧植民地の研究をやっている。ちゃんと和解できたから?)。
いずれにせよ、政治レベルで和解してしこりが消えないと、客観的学問研究も進まないですね。
その意味でも小泉を早く取り替えないと・・・・。
隣国に住む者として日本の存在は大きい。「日本の植民地になった方が得だ」と言われて、朝鮮は植民地にされた。だが、それは他の帝国主義国の支配より苛酷だった。日本自身が貧しかったから朝鮮を激しく収奪した。
(以下参照者の私見)
そればかりか、日本はただ収奪するに止まらず、施政方針にも問題があった。
例:英国と日本との口約によって、片やインドを、一方日本は朝鮮半島を手中に入れたが、両者のやり方は、天と地の違いを見た。前者は、如何なる場合も話し合いで事を処した、その延長線上にガンジーの「無抵抗の抵抗」が生まれる余裕があり、またアヘン戦争の約束であった99年9ヶ月満ちて香港を返還するにあたり、現地人は、英国人が引き上げることなく、政庁の政務のみ中国に返還して、現状維持を望むほどであったのに対して、後者は、直接に現地人(朝鮮人)を殴打・日本刀で斬首するようなことをして現地人の息の根をとめるやり方であった。村山談話「日本は国策を誤った」があり、一時、朝鮮半島人の心も柔らいたかと思いきや、最近は、再びそれを否定する政治家も現れているようである。善隣友好・遠くの親戚よりも近くの隣人と手を取り合う日の近からんことを切にねがってやまない。 (07.11.27日 朝日新聞『歴史は生きている』権 五氏の論説を参照し、私見を加筆した。)
>それは他の帝国主義国の支配より苛酷だった。日本
>自身が貧しかったから朝鮮を激しく収奪した。
もちろん日本のやったことは決して許されないと思います。日本人が大韓帝国を植民地化したことは恐ろしく恥ずべき行為であり、それに関しては、一部を除く多くの日本人が罪の意識を共有しています。一部の政治家の心無い言葉が韓国の人々を傷つけています。それについては一日本人として謝罪いたします。そういう恥ずかしい政党が一刻も早く政権から落ちるよう、私は個人として行動するしかありません。
しかし、日本は西洋の帝国主義諸国同様にひどかったとは思いますが、「それよりひどかった」とは思いません。
多分、素里奈さんは、西欧が植民地で何をやってきたのか、十分にご存知ないのです。例えば、私が思いつく文献というと下記のようなものがあります。ぜひご一読ください。
下記文献では、それぞれスペイン、フランス、ベルギーの蛮行が詳述されています。いずれも、あまりの恐ろしさで背筋が凍りつきます。
・ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫
・フランツ・ファノン『地に呪われたる者』みすず書房
・藤永茂著『「闇の奥」の奥』三交社
>英国と日本との口約によって、片やインドを、一方
>日本は朝鮮半島を手中に入れたが、両者のやり方
>は、天と地の違いを見た。
私は、このような歴史的事実は知りません。インドはそれ以前から英国に植民地化されていますので、日英のあいだに交換条件などなかったと思います。
交換条件があったのは日米のあいだです(桂・タフト協定)。アメリカは軍事的にフィリピンの独立勢力を20万人以上を虐殺してフィリピンを植民地化しました(日本が韓国にやったことの比ではない残虐さでした)。日本人の中には、フィリピンの独立を支援する空気が強かったのです(残念ながら日本が政府としてフィリピンの独立運動を支援することはありませんでしたが)。アメリカもフィリピンでひどいことをやり、日本も韓国でひどいことをやった。
日本はアメリカのフィリピン領有を承認するのと引き換えに、アメリカは日本の韓国併合を認めました。日米は、それぞれお互いにひどいことをやって、それぞれ後ろめたかったので、帝国主義国同士、それぞれの非道なふるまいを相互に承認して黙認し合ったというわけです。
しかしです。アメリカ統治下のフィリピン経済といえば、サトウキビ、マニラ麻、ココナッツ、木材などのアメリカへの輸出向け一次産品ばかりを生産するモノカルチャー経済を押し付けられました。
日本統治下の朝鮮半島はまがりなりにも工業化しています。
西洋のアジア植民地はどこもそうです。一次産品偏重のモノカルチャー経済しか許されませんでした。西洋はアジアにおいて、一次資源と一次産品を収奪することにしか興味がなかったからです。
日本支配下の朝鮮半島と台湾はそれなりに工業化しています。これは否定できない事実なのです。
もちろん日本がやったことが免罪されるわけではありません。しかしどうか、西欧がアジアで何をやったのかは十分に勉強してください。
アヘン戦争も何故起こったのか知っていますか?
イギリスは19世紀初頭、インドに自由貿易を押し付けて、インドの発達した木綿産業を壊滅的に破壊しました。裕福だったインドは一瞬で貧困・失業のどん底と飢餓地獄に陥れられたのです。
先進的な木綿産業が崩壊したインドにおいて、イギリスが生産させたのがアヘンでした。そのアヘンを中国に売りつけて、今度は中国を中から腐らせた上で侵略したのがアヘン戦争です。まさに悪魔の所業というしかありません。インドも中国も、イギリスの侵略を受けて産業構造を破壊され、貧しくしかなっていません。
アヘン戦争当時、日本は幕末でした。韓国と同じく儒教道徳が深く浸透した当時の日本人にとって、イギリスが行ったアヘン戦争は、驚天動地の許しがたい蛮行でした。日本人の多くは激怒し、この蛮行を行ったイギリス人を憎み、いわゆる尊皇攘夷運動が始まったのでした。
儒教道徳からして許しがたい西欧の横暴に対し、当時の日本の先進的知識人は次のように考えました、科学技術では西欧人には決してかなわないから、それは認めて彼らの進んだ技術を摂取するしかない。その上で、このような侵略戦争を行うという蛮行は決して許してはならない。儒教道徳を、東洋の王道思想を堅持して、西洋の野蛮な侵略性は拒絶せねばならないと考えたのです。
しかしそう考えた人々(例えば佐久間象山とか横井小楠)は、皆、幕末の動乱の中で暗殺されました。残った明治政府の政治家といえば、ひたすら西欧を模倣すればよいのだと安直に考える小物ばかりだったのです。それで日本から儒教道徳はうすれ、西洋のマネをするばかりで、いつしか野蛮な侵略性までマネるようになってしまったのです。
それで日本も、英国のようなひどいことを大韓帝国に対して行ってしまいました。でも英国同様ひどかったが、英国のマネをしてそうなったのであって、決して英国よりひどかったとは思いません。先例を作ったのはあくまでもイギリスなのです。
少なくとも江戸時代の日本人の道徳観念では、アヘン戦争のような蛮行は決して許せないことと思えたのです。それが東洋の道徳だと思います。
アジア人同士、お互いに「お前は醜い」と罵倒し合うのは止めましょう。それこそ西洋人の思うツボです。事実は、東洋の方が道徳的に優れていて、西洋がメチャクチャだったのです。日本は残念ながら、その野蛮な西洋をマネちゃったから変になってしまったのです。
西洋の偏見に満ちた歴史観を受け入れて、アジア人同士が叩き合うのはやめましょう。仁義礼智信徳孝恕の東洋思想に回帰しましょう。それが東アジア共同体の核になると思います。