イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

よっしゃ よっしゃ

2007-12-03 23:40:13 | CM

年賀状。今年も日本でどれくらいの人が、どれくらいの枚数、どれくらいの体温で書いて投函するのでしょう。

民営化なったばかりの郵便事業会社では「年賀状は、贈り物だと思う。」なんてしゃらくさいキャッチコピーを繰り出して年賀はがき、年賀切手を一枚でも多く売ろうと必死の形相ですが、母の日父の日バレンタインデーホワイトデーのたぐいと一緒で、贈り物だギフトだって銘打たれると見栄や義理や横並び意識で財布のヒモが緩むと思ってやがるな。世の中そうは甘くないぞ。

月河はこと年賀状に関しては、小学校高学年から中12ぐらいまでが関心のピークでした。

雑誌や本のイラストからお気に入りの図柄・字体を探し、トレペやカーボン紙、実家母が洋裁の型紙作りに使っていた色付きチャコペーパーを駆使してコピー、一枚一枚手作りしていたのは、わずか34年の間のみ。部活だ冬期講習だで年末年始は鬼のような忙しさになったし、そもそも出す相手も学校が始まれば顔を合わせる面々がほとんどなので、必要性も感じなくなりました。

何より年賀状熱が醒めてしまった最大の要因は「必死に書いて出したわりには、自分宛に届いた賀状をさほど熱心に読んでないし、ぶっちゃけ、賀状くれて嬉しい人もそんなに居ない」と気づいてしまったこと。

ある年の正月三が日の間に届いた賀状数十枚、つくづくじっくり文面読んだのはその年の暮れ、賀状今年は何件出さにゃならんのだ?と出してきた時が最初…なんて年が数年続くと「こっちが忙しいとき火噴いて書いた賀状だって、向こうでは大半この程度の体温で処遇されてんだろうな」と思い、加速度的に気持ちが引いて行きました。

最近は、もう「相手に礼を失しないため」「近況の無事を知らせるため」なんてことは考えません。誰某さんに新年の挨拶を一筆書くことが自分の中でなんらかの精神的節目になり、いくばくかの達成感、義理果たし感をもたらしてくれる、そういう誰某さんにしか書かないことに徹しています。

どこまでも自分のため、自分の1年の区切りのために書く。読んでくれようが、オモテ見てウラ見て、お年玉抽籤のときにもう一度見て、そのまんま束ねられて暮れまで引き出しか文房具入れに直行させられようが構わない。読んでいただくためには書きません。書いたことで得られる自分の満足のために書くのです。

……と、クソナマイキな大見得を切ったところで、今日は重大なアクシデントが起きてしまいました。まだ年賀状のアイディアがチラッとも頭に浮かばない段階で、先月から持ち越しの職場だよりのレイアウト案を印刷しようとして、思いっきりプリンタのインク黒が出なくなってしまった(噴)。

何ヶ月前に交換したか思い出せませんが、ディスプレイサインではまだ貯留量は十分のはず。こんなときにユーザガイドを引っ張り出してみても、例によって、どのページのどの項目を見たらいいのかわかりにくいのなんの。

思いつきでカートリッジをいったん取り外して見ると、外した後のスペースの、どうもインク噴き出し口に近い辺りに直径5㍉ぐらいの、インクの残り滓のカタマリの様なものがへばりついている。

これが噂の、インクジェットの目詰まりってやつか?と、無謀にもコンビニでもらうデザートスプーンでエイッとこそげ取ってみて、カートリッジ交換時のテストパターンを印字してみると、今度はどうにか回復。

まだちょっと薄めだけど読めないことはあるまい、と全10枚プリントアウト終了。封筒に入れてから、落ち着いてユーザガイドを見たら、目詰まりかそうでないかをチェックするため専用のテストパターンの出し方、カートリッジの調整・セルフクリーニングの手順もちゃんと本体にプログラミングされてました(崩)。早く言えよ。デザートスプーンでホジホジなんて、小学生以下の思考回路発動しちゃったじゃないか。

そう言や日経新聞土曜版NIKKEIプラスワンの、はなおかたかこさんのコラム『得するデジタル』で「インク目詰まり防止のためには、何も必要が無くても週に一度は何かかんか印字しとけ」(←文体はこんなんじゃなかったですよ)って読んだ記憶があるな。あの頃は自前のプリンタを持ってなかったので、右から左へ受け流す歌だった。競馬ライター時代のはなおかさん(当時は花岡貴子と漢字表記)には鐚一文得する情報もらえなかったけど(自分が勝手にヘタ打ってただけという説もある)、このコラムは勉強になるなぁ。

PCに関しても同じですが、このテの機器のマニュアル説明書は、何か問題が起きてから、本棚やキャビの奥からごそごそ探し出してホコリを払い「こんなときはどうするんだ、何ページのどこを見ればいいんだ」とイライラバタバタするよりも、何でもなく余裕のあるとき通販のカタログを見るように「へぇーこんなこともできるのかぁ」ってチェックしておくぐらいのほうが、賢い使いこなしへの早道ですね。

このプリンタのユーザガイドは珍しく文芸単行本サイズなので、いしいひさいちさんの漫画本等と一緒にトイレの愛読書に並べてみるか(匂)。

1114話まで録画したまま、観られずにいた再放送『真夏の薔薇』、いきなり今日第15話は、稲彦(池田政典さん)が家を飛び出し葉山の貸し別荘を借りて碧(安永亜衣さん)を連れて2人きり、(もちろん自分たちの異母兄妹疑惑は知らないまま)初めて愛の儀式…というところまで来てました。あらら、4話分の空白はやっぱり大きいなあ、こりゃ急いで巻き戻して、早送りででも見たほうがいいかな?と思ったら、稲彦父の英雄(小野寺昭さん)がいつの間にか別荘にひそんでいて、「着替えてきます」と碧が部屋に引っ込んでいる間に稲彦につかみかかり「お願いだからセックスだけはしないでくれ」

このひと言で、前のほう巻き戻すよりとにかく先を観たくなりました。11年前の作品ですが、中島丈博さんの書く台詞は、一種土建屋的な、田中角栄さん的なパワーがある。

しかも、息子にあっさりのされて縛り上げられ、若い2人が主題歌『悲しみのためじゃない』の♪誰も傷つけず 生きる弱さが正しいなんて 嘘をつく胸に 答えなんてきっとなーいだろーー とムダに澄んだ歌声(中西保志さん)をBGMに抱き合っている間じゅう車のトランクの中で「開けろーお願いだあーセックスだけはしないでくれえー」と車体ユサユサさせている。

昼間のドラマらしく鏡に映したりなんかして控えめなベッドシーン描写と、この“車ユサユサ”とのカットバックを考えた監督さんも、なかなかシャレのきいた人だ。小野寺さんの、先日のお祓い騒ぎから連綿と続くズレ加減役立たず加減の絶妙表現といい、このドラマ、96年の本放送時はどれだけ大ウケだったことでしょう。

資料によると『真夏』のタイトル通り79月期の放送だった様子。学校の夏休み・お盆休みや帰省が重なり、昼ドラ主客層の主婦にとっては生視聴がいちばんし辛いシーズンです。「子供や夫に見せたくない、見てると思われたくない」という動機で客に離れられないように、制作サイドとしては、とかくこのクールは色っぽさやセクシー要素を避け、ほのぼのヒューマンタッチや爽やか笑えるモードの作風に逃げたくなりがちでもある。

しかしこのドラマは逃げてないなあ。全盛期の桑田真澄投手並みにフトコロ突いて攻める攻める。“セックス”とか“獣のまじわり(←兄妹で男女関係になることを指して稲彦母・萌子が)”などそのものズバリな表現がポンポン飛び交いますが、不思議に淫靡さもなく、突き抜けた痛快味すら感じる。

明日は録画したままの4話分を見る時間はあるかな。

コメント
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