イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

真作とレプリカ

2008-09-13 00:25:10 | スポーツ

角界大麻汚染絡みで何度か書きましたが、弁護士さんの頭髪その他はさておき、結局は“年長世代が若い世代を教育する力量の低下”という、2008年の日本に普遍的な問題の一断面に尽きると思います。大相撲界に、あるいは相撲協会に、ましてや外国人力士に固有の問題ではありません。

モノであれ、言葉・用語であれ、所作や振る舞いであれ思想であれ、伝統的なもの、お祖父ちゃんお祖母ちゃんの子供の頃から受け継がれてきたものより、昨日今日にわかに出現したもののほうを持てはやし有難がる風潮がこう何十年も続くと、子供たちや若者たちに“年長者に敬意を持ち、言われたことを素直に聞く”という習慣と言うか、基本姿勢が形成されないのは当たり前のことです。

いまや、職場でも家庭でも“年齢が上の人ほど物事を知らない、扱えない、使いこなせない”のが現状。彼らにとっては、新しいことを習い覚える能力が低下してからいきなり現われて、今日からこれをさあ使えと迫られるモノに囲まれているのです。生まれたとき、物心ついたころからそのモノがあって慣れ親しんでいる世代に、遅れを取るのは当然です。生徒は教師を、新入社員は管理職を、弟子は師匠を、子供は祖父母やご近所の高齢者を、みんな心の底では「何も知らない」とあなどっています。

もちろんその根底には、間断なく新しいモノを作り続け、売り続け、人の気をひき続け買わせ続けていかなければ食い詰める“市場経済という名の車輪ネズミ”構造があります。

 加えて、児童生徒なり部下後輩なり、目下の者を教え導き、監督し、管理するという作業は、一定の年齢になれば誰でもできるというものではありません。教えることは特殊能力であり、才能です。小中学校高校の頃、同じことを注意されても、カチン、ムカッと来る先生もいれば、右から左へ受け流して速攻忘れる先生も、従わなければしょうがないと思える先生もいました。みんな大学の教職課程を経て国が定める教員免許を取得し、同じ教育委員会の採用試験に合格した先生たちなのにです。

教える能力、適性は大学では身につかないし、ペーパーテストで判定もできないのです。

子供が親の言うことを聞くのは、親が絶対だからです。親は目が開いたときに、どんなモノより思想より先に、あらかじめそこにいる。親が自分に乳を与えて生かしてくれる。親と生存は直結している。だから子は、親がどんなに世間的には無知蒙昧だろうと、自分の親だというだけで親の言うことに従い、従わず背いたときは心の底で痛みを感じるのです。

相撲部屋は親子関係をかたどったものでした。力士にとって師匠は親同然。師匠がいるから飯が食える。寝起きする部屋も与えられる。出世すれば実家の実親に仕送りもできる。しかも師匠は多くの場合、幼い頃からTVで憧れた横綱や大関です。

しかし、いまや体格優秀な10代の若者たちにとって、“飯が食える”だけなら何も有難いことはない時代です。昔とは様変わって、息子を東京の相撲部屋に送り出す実家も貧乏でクチ減らししたいわけではなく、「辛かったら帰ってこい」と言うはずです。歯を食いしばっても師匠の指示命令に従わなければならない理由はどこにもなくなりました。

ここで初めてからんでくることですが、あまつさえ問題力士たちは外国人で言葉の壁、習慣の壁があり、師匠の指揮命令がかりに完璧だったとしても、意図するところが正確に伝わっていたかは怪しいものです。

官公庁の不祥事、行政の不手際、食品・製品偽装、教員汚職、無差別殺傷事件など、いま日本社会を震撼させたり不安に陥れたりする事案のほぼすべてが“上が下を教え導き、ルールに従わせる能力がない”ことから発している。

六三三四制という枠組、義務教育という法的拘束力があるから、まだ学校教育だけは辛うじて生きながらえていますが、今般、暴力致死事件から始まった相撲界の一連の問題は、若年世代の教育にかかわるシステムのうち“経年劣化のすすんでいるところから先に噴出した”だけのような気がします。“まだ保つと思っていた”場所からも、早晩噴出するでしょう。

『白と黒』53話を一日遅れで視聴。大出俊さん演じる大貫が、一葉(大村彩子さん)→和臣(山本圭さん)→礼子(西原亜希さん)→聖人(佐藤智仁さん)と“一対一面談行脚”で大活躍の日でしたが、彼から「とんでもない男(=聖人)と一緒になってキミも苦労するね」と水を向けられた一葉の言葉「苦労だなんて思いません、聖人といると、人間って何てずるくてみっともない生き物なのかとよくわかって、楽しいんですよ」「自分のことも、身勝手でずるい自分を認めてみると、とてもラクになれます」は重かった。

一葉の序盤の礼子見殺し未遂や、聖人に唆されての章吾との想像復縁を経て礼子との和解、留学帰国し仮出所後の聖人との電撃結婚などここまでのすべての行動や経験は、この台詞を言うための長い助走だったかと思わされました。

礼子にはできないであろう“一緒に汚れる”ことで聖人と絆を築き保ちたいという執念は、第一部での章吾への未練とはまったく違う地平に突き抜けた。この枠の“いつもの昼ドラ”ならばそろそろ聖人に何かの“仕込み料理”を供するお約束ですが、一葉のいまの静かさ、達観ぶりはそういうモノより百万倍不気味。

大貫-和臣対談(キャスト的には俳優座先輩後輩対談)も、大貫としては次回以降の企みのための下調べ訪問だったと思しいのですが、“彩乃(小柳ルミ子さん)の元愛人と元夫”の顔合わせ、ベルンハルト・シュリンク『逃げてゆく愛』(←左柱←参照)に収録されている短編『もう一人の男』を思い出させました。

亡妻の遺品の中から出てきた、別の男からの思いがけない甘い恋文の数々。文中引用されている妻の言葉や行動は、夫が長年イメージしていた妻とはまったく異なるものでした。

こっそり調べ上げて、偶然の旅行者を装って接触したその相手の男は、謹厳な仕事人間をもって任じていた夫とは正反対の、見栄えのいいほら吹きの伊達男。夫は嫉妬と悪戯心から、身分を隠して男にある罠を仕掛けようと試みますが、意外な顛末、そして夫が男から学んだこと。

ある人のある部分が、ある人にはかけがえのない美点に見え、別な人には欠点に見える。また別の人には、まったく何も見えない。大貫が愛しつつ翻弄された彩乃、和臣が妻として見て、失望させられた彩乃、どちらも嘘偽りはありませんが、彩乃のすべてではなかった。

毎日この枠のドラマを録画再生するとき、まず末尾の次回予告だけを先に見て、「次回この場面この台詞が来るなら、今日はこんな展開になったのではないかな」と想像逞しくしてから本編を再生するのですが、54話で聖人がブラックスーツの連中に焼きを入れられるということは、裏で指揮したのは大貫でしょうね。“どこを突いたらいちばん効率よく波紋を起こせるか”この53話で面談リサーチしていたのでしょう。なかなか老獪。

でも“聖人に絵を描くのをやめさせる(研究機密闇ビジネスに専念させる)”ことが暴行の目的のひとつだったとしたら、予告を見る限り達成できないようです。大貫が目的と思っていることは聖人には手段、大貫にとっての手段が、聖人には実は目的かもしれない。

物語が礼子章吾聖人一葉の恋愛感情の神経戦モードから、一気に謀略モードになっていく契機として、大貫と、大貫を演じる大出さんの存在感が思っていた以上に効いている。5週で彩乃の内縁の男として初登場の頃は「こんな居ても居なくてもいい、クレジットにファーストネームさえない(54話のいまもない)役にどうしてこんな重鎮さんを使うんだろう」と思ったのが夢(?)のよう。

一葉から情報を得るための面談会話「カネだけがほしくて聖人くんの話に乗った訳じゃない、おもしろかったんだな、彼が」(←第4話の聖人「あんた(=礼子)、おもしろいな」を想起)「彩乃の死に目に会えなかったからね、ちょっとした弔い合戦の気持ちもあったかもしれないよ」で、大貫がここまで状況に容喙してくる必然性が俄然出てきた。

大出さんをこの枠で拝見するのは、再放送枠で見た『白衣のふたり』(98年)以来ですが、ちょっと無理筋かもと思える急展開でスピンや脱輪をしない操縦において、やはりベテラン俳優さんの演技力、キャラ状況表現力に頼むところは大きい。ドラマにおける脇役の重要性を再確認します。

コメント
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