イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

汚れた黒い羊

2008-09-11 00:41:36 | スポーツ

昨日の記事に登場してもらった元小結の露鵬、ソスラン・フェーリクソヴィッチ・ボラーゾフさんですが、「やってない。信用してない」会見のご本人より、代理人の弁護士さんの頭髪が味出してましたなあ。かぶりモノの下から、地毛と思しき毛が数本垂れて、というか漏れて、束になって汗でコメカミからもみあげ方向に張り付いている人は初めて見ました。もちろん、かぶりモノの毛のほうは何事もなくこんもり横分けに固定しているからややこしい。

 ああいう、本当は見てはいけないのであろうモノをTVで見ちゃうと、やはりあの手の人工物は、どんなに高機能高耐久性を宣伝されようと暑さや汗は禁物なんだなと実感してしまいますね。人工物が如何にシッカと動かなくても、その下の“地モノ”が暑さなり汗みずくなりの独自の動きをしてしまう。業者さんにとっては逆宣伝で、あの弁護士さんをお得意さんにしている当該メーカー・販売店のかたが会見映像をもし見ていたら、汗は汗でも冷たい汗が流れたのではないでしょうか。

以前ここでも書いたと思いますが、頭に載っているモノの(白黒灰色に関係なく)毛ヅヤと、顔・首・手の甲などの肌の張りツヤに明らかなギャップがあれば、速攻“人工”は読めてしまいます。

男性の場合、載せることには積極的なのに、肌が年齢相応にシワっぽく水けや皮脂が減り、特に目周り・口角周りがクシャクシャガサガサになり、毛穴の弛緩と相俟って部分的には“格子縞”状態になっていることにまったく無頓着で、頭部だけ独走でツヤツヤ黒々、フサフサこんもり盛り上がったモノを載せている人が非常に多い。

載せモノを潔しとしない代わり、もう全滅寸前まで激減した“地モノ”をこれでもかと純黒に染め倒している人も見かけるし、外貌の若々しさを保たん、保てないなら装わんとする努力がなぜか異常に“頭髪”に一極集中し、容貌の他のパーツとのバランスを一顧だにしない傾向、男性に顕著だと思います。

ご本人が満足しておられるなら別に外部から、それもTV鑑賞でどうこう言う筋合いはありませんが、弁護士さん、“真実”“正義”“虚偽や捏造の解明と是正”を取り扱う職種だけに、ちょっと気にしてみました。

白黒灰色と言えば『白と黒』52話。肖像を描く、モデルになるという関係で妻・礼子(西原亜希さん)と弟・聖人(佐藤智仁さん)との間に熱気再燃を感じ不安にかられた章吾(小林且弥さん)、料理経験ゼロなのに「夕食はボクが作ってあげる」「あ、ペッパー買い忘れた」とアタフタ。13話での聖人「朝メシ一緒に食おう、いちばん近いコンビニはどこだ?」のさりげなさと見事な対照。

「君は本当にボクを愛して結婚したのか」と礼子を問い詰めた挙句、翌朝礼子が「モデルはやめるわ」と申し出ると「なぜいまそれを言う?モデルは続けてくれ」。

礼子も間が悪いけれど、“もろさ”“臆病”も人間の“黒”部分のいち側面とすれば、章吾もとことん自分の黒さに自覚のない男です。突き詰めなくていいことまで突き詰めずにいられない科学者気質と言うか、良く言えばまじめで、悪く言えばハンドルの“遊び”がない。

家政婦路子(伊佐山ひろ子さん)に「ご自分の身体を使って人体実験はもうおやめになってください、人の命を救うため(に薬学の研究をする)という旦那さまのご信条に反するのではございませんか」と諌められ、「生意気なことを言うな、使用人ふぜいが」とはねつけてしまう和臣(山本圭さん)も章吾と同類項の“黒”を露呈している。本当は路子さんの、家族以上の永年忠勤に感謝し大切に思ってもいるのに、路子さんが“雇われの身でこんな僭越なこと言うべきではない”と解雇覚悟で進言してくれていることも冷静になれば察しられるのに、だからこそ「痛いことを言ってくれるな」と斥けるに適切な語彙を、章吾と同じく“遊び”のない和臣は持っていないのです。

昨日の予告の段階でこの「使用人ふぜいが」を聞いて、「ここまで言っちゃったら和臣の人間性もキャラとして終わりじゃないか?」と気がかりでしょうがなかったのですが、字ヅラ通りの“尊大”“威圧”のタームではなく、心底から温かい親身の路子さんの諫言だからこそ、スマートに、やんわり却下するすべを知らない和臣の“弱”“不器用”部分を強調した演じ方、俳優座のベテラン山本圭さん、さすがです。台詞の強さ身もフタもなさを、ここまで築いてきた和臣のキャラとひとつも矛盾させず、続く路子さんのバルコニーでの真情告白シーンにつなげました。

2部に入って聖人と結婚して登場した一葉(大村彩子さん)は礼子章吾に“ラブラブ幸せ見せつけモード”のときから催眠術にかかったようなウィスパー気味の喋りが不気味でしたが、今日の聖人への赤ワイン振りかけでひとつのピークに達した感。

ワインにしては色も質感もねっちょり濃厚な赤紫で、視覚効果としてリアリティどうなの?という気もしましたけど、聖人のボサボサ髪から滴り落ち頬を伝う場面は、ブライアン・デ‐パルマ監督『キャリー』のプロムパーティーステージでの破局シーンを思い出させました。

これはどう見ても“血”の暗喩、と言うか直喩。その血はまさに一葉の“子宮”、つまり女性性の暗部を象徴している。

「オレという哀れな子羊を世話することで自分の生きる意味を実感したいだけだ」といくら聖人に突き放されようと、一葉は女として聖人に抱かれ、聖人の子を身篭り産みたいと思っている、その気持ちに嘘はない。

聖人に浴びせた赤ワインは、聖人の子を孕むべく子宮にたくわえられ、子種を着床させることなく無駄に排出された、つまり一葉の経血の代用なのです。「あなたが抱いて、妊娠させてくれないから、ほら、こんなに…」……おおコワ。でも昼のドラマで、よくぞここまでシンボリックに洗練された“性”のメタファーを見せてくれたものです。仮出所後の聖人をワイン輸入販売業に就かせたのも、今日のこの場面への布石だったかな。

コメント
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