一昨日~昨日の続きですが、『白と黒』オーラス1話前の63話について、聖人(佐藤智仁さん)が兄・章吾(小林且弥さん)の向けた登山ナイフから一目散に逃げたのは、“刺された後、章吾が我に返って救急隊を呼んでも間に合わないように、確実に致命傷にさせるべく森の奥深くまで逃げようとしたからだろう”とここで書いたにもかかわらず、章吾が礼子(西原亜希さん)を聖人から引き離し、棒立ちだった一葉(大村彩子さん)に「聖人を助けるんだ!」と言って止血にかかった次のカットが、3人揃っていきなり病院の廊下(崩)。
画面に映り描写叙述されていることの、裏の、さらに奥を、愛をこめて読み解かんとする崇高(だよっ)な努力が、ここまで見事に一瞬のうちに踏み躙られると、いっそ気分爽快ですな(自棄)。
まぁここまで、信州の研究所⇔東京間、何度も何度もワンカットで往復していたので、このドラマにおける主要な移動手段は空間ワープだったのだ、ということにしておきましょう。聖人を演じたのが元・仮面ライダーガタック佐藤さんでもあるし、“変身しないと走力があまりなく(ガタックマスクドフォームは100㍍8.9秒、ライダーフォームは同5.8秒)、自分で思ってるほど奥深くまでは行けてなかったのだ”と補完したほうがいいのかな。んなことはないか。
当該登山ナイフ、刃渡り大体何センチぐらいあるものなのかわかりませんが、女性の礼子が、生涯初体験で刺したのだし、刺さった瞬間の手応えに怯えてそこで手をとめたとすれば、浅手の可能性が高い。肝臓・脾臓など致命的な臓器に達しない創傷の場合、致命の原因としてあり得るのは外傷性ショックと失血、次いで二次感染で、章吾(小林且弥さん)が正気を取り戻して適切な止血を試みれば、あとは消化管出血が逆流して吐血の際窒息する危険がある程度で、意外と時間的にもセーフだったかも。
63話で「勝利者はオレじゃないぜ」と言った時点で、聖人には“本当に欲しかったもの=礼子の愛”が手に入らないことはわかっていました。桐生家の社会的名声と繁栄の源泉であったはずのA115は、聖人が詐欺に成功した途端に、価値のない物だと判明してしまった。聖人は“無”を失墜させるべく戦いを挑んでいたことになる。
権威や世間の評価リスペクトがどれだけ儚いものか、それらを仮想敵として敵意を燃やすことがどんなに空しいかが、この時点で聖人は身にしみていたはずです。芸術家肌の聖人、“すべてかゼロか”“正答か誤答か”2つにひとつの理数的物差しがわかっていなかったのかもしれない。
勝利者でないなら敗北者。甘んじて兄の、生まれて初めての憎悪の刃、自分が望んで企んで兄に意識させ、覚醒させ、暴いた“黒”の凶刃にかかろうと覚悟を決めた聖人の目の前で、愛する礼子が章吾を突き飛ばし凶行を止めたことで、位相が一転します。章吾を殺人犯にしたくない、それほど礼子は兄さんを愛しているのか?と絶望が脳裏に兆したはず。
しかし礼子が章吾のナイフを奪って「これしかあなたを救う方法が無い…私だけがあなたを殺せる、あなたの罪を一緒に背負える…」と向かってきたときに、もう一度世界がネガからポジへ反転した。倫理と理想の世界を選んだはずの礼子が、自分と同じ黒の地平へ下りてきてくれたのです。
自分の腹に刺さったナイフを抜いたとき、今度は自分が礼子にこれを向けて、礼子に抱きつかれるままもろともに果てる選択肢もあったのに、聖人は捨てた。この1~2秒の間に、聖人の全人生、全宇宙を賭けた決断があったのです。
思い返せば第1話で、見過ごしても見殺しにしても誰も咎めなかった通りすがりの事故車から、閉じ込められて動けない礼子を救出したときに聖人の運命は定められていた。人の善意を信じずに生きてきた聖人が、自分の中のまっさらの善意を覗き見た瞬間。閉じ込められていたのが礼子でなかったら、疎遠だった兄の婚約者だとのちに知らされなかったら同じ情熱が湧いたかどうか…なんて屋上屋な詮索は野暮というものでしょう。
第1部終盤の、和臣(山本圭さん)毒殺未遂事件の直後に聖人を退け、自首を促してからの礼子はめっきり聖人に対して刺々しくよそよそしく、章吾の妻としては反対にどっちつかず隙だらけで、愛があるのかないのか観ていて首をかしげたくなる場面も多かったけれど、はなからこのドラマは、礼子が主人公のようで実はそうではなかった。
礼子という、自己実現欲や社会規範意識が高い一方、情愛や包容力に富んでいるとは言い難い、愛していても表現が下手くそな女性と出会い、愛してしまったことを契機として、黒だけを見つめてきた聖人が黒と白の間の、薄暮の森を見出し、歩んで行く物語だった。
全64話中、63回見慣れた提供スポンサーベースの森の映像が、最終話で漸く新緑の色を得たのが印象的。真っ白な人間も、黒だけの人間もいない。白の裏に黒を隠して生きているわけでもない。白黒「混ざり合ってひとつ」。これがわかった瞬間、一気に森に“ひかり”が射し込んだ。
大貫(大出俊さん)が回想していたように、「世間の価値観をものともせず、時にはあくどい金儲けもしたが、人の愚かさを決して攻撃しなかった」という実母・彩乃(小柳ルミ子さん)のDNAが、遅まきながら聖人にも萌芽し開花したとも言えるでしょう。62話の大貫、最後の長い台詞は全篇の総括でした。
なんとなく、大貫は聖人が結局は国外に去らないことをお見通しだったような気もします。身を隠しても、最愛のひとを見守れる場所にはとどまるはずだと。その前に一葉に一撃食らう可能性ぐらいは読んでいたかな。手を下しかけたのは章吾だったけど、「おもしろいから放っときましょうよ」と言ったのは確かに一葉だった。誘拐詐欺の一件を墓場まで持って行くのは、矢島らプロの黒どもからしっぺ返しを食らわないよう大貫自身のためでもある。ラストシーンの陰で、「彩乃、聖人くんはやはりおまえの息子だったよ、本当に必要なものが何かわかっているし、手段を惜しまない、傷つくことも怖れない、最後に必ず手に入れる」とひとりどこかで乾杯する大貫の微笑みが見えたような。
章吾がよく礼子の離婚届に応じあっさり引き下がったなとも思いましたが、兄弟ですからね。礼子を兄弟で張り合うという図式から一歩退いて、弟に必要なのは誰かと考えれば簡単に答えが出たか。ひととき自分の中の長年抑圧された憎悪を噴出させてみて、その途方もない反動で、章吾は憑きものが落ちてしまったよう。聖人という存在がなければ、“アタマでまず考える同士”、礼子とはいい科学者夫婦になったかもしれませんが、一葉の出没には陰に陽に一生悩まされたでしょうね。一度沖縄で手を出してしまってますからね。
それより、聖人がいなければ礼子は1話のあの現場で死んでいた可能性が高いから、物語になりませんね。“婚約当日にフィアンセに事故死され、現場から見殺し逃げた幼馴染みと結婚した男が、長い髪のフィアンセの亡霊に悩まされる話”で別のドラマになってしまうか。
話が薄くて汁気が少ないことを物足りなく思ったことも多いドラマではありましたが、最終クレジットロールのバックに流れるフラッシュを追うと、実にいろんなことがすし詰めに起きていたことがわかる。ヒロイン礼子の甘くせつない情感不足を不満に思うより、“聖人がそういう女性(序盤同行していた、わかりやすく献身型かつ官能芬芬の“カノジョ”サリナとの好対照を思うべし)を愛したことで眼前に開け、あるいは閉じる世界”のほうに最初から注目していればよかった。やや気づくのが遅すぎましたね。昨年の『金色の翼』も、国分佐智子さん扮するファム・ファタール修子は観客が一緒に泣いたり笑ったりするためのヒロインではなく、全登場人物の情動の触媒なのだと気がついてから一気に読解がスムーズになったものですが、早くソコんとこ気づかせるように作ってくんないほうもお人が悪い。「対照的な2人兄弟のはざまで“死を願うほどの愛”を見つめるヒロインの物語」と公式サイトで謳ってるんだもの。
小説でも長尺になると、冒頭アンダーライン引いて「この人物のこれがテーマよ」と掲げられた事柄から、1章2章と読み進むうちに微妙に重心が移動して行き、脇役と思っていた人物が俄然重きをなしてきて、終わってみると全然違う話になっていた、ということは珍しくはないし、そのことで即、作品の価値が低下するものでもない。
終わってみれば近来稀なくらい真剣に観た連ドラになっていた。途中では“あとは結末まで貯め録り流し見だな”と思った局面もありましたが、何だかんだ言って、月河は聖人が大好きだったのだなぁ。
意地っ張りで情が薄い上、些事に食いついて猜疑心燃やしがちな礼子のことだから、何年かのちに風向きが変わって「あの顛末ぜんぶ警察にバラしてやるもん、フン」てならないとも限らないけど、どうにか逃げ切ってね聖人。