イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

Nicheもサッチも

2010-03-25 15:42:05 | バラエティ番組

しばらくお顔を見なかった野村沙知代夫人を、最近たて続けに二度ほど夜のゴールデン番組で見かけました。一度は爆笑問題の『太田総理…秘書田中』で、もうひとつは忘れた。

前にも増して声は大きいし、化粧は濃いし、以前の露出ざかりの頃に比べても心なしかシワも減って肌ツヤもよろしいような。隣席のタレントが何か言うと「違うわよ」「そうじゃないのよ」とバッと手を載せて遮ったり、“共演者の誰よりもワタシが人生の先輩で、認知度も高くて、発言権あんのよ”という自負にいささかの翳りもない様子です。

沙知代さんと言えばずいぶん前に、脱税で裁判になり「タレント活動はやめます」と法廷で上申したんじゃなかったでしたっけ。もう10年近く前だったような気がするから、時効と言うか、“刑期満了”みたいな感じでしょうか。夫君の野村克也さんが楽天監督を降り(その後名誉監督に就任されたらしいが)、事実上リタイアド身分になったので、「今度はなりふりかまわずアタシが稼がなきゃ」とチカラ入っておられるのかもしれない。

あるいは、新進党時代の小沢一郎さんにくどかれて選挙に立候補した(落選の上、学歴詐称疑惑まで)経験がおありなので、「誰でもいいから小沢の悪口つけつけ言いそうな人を集めてこい」という流れに乗ったか。

いずれにせよ、タレント引退宣言はドコ行った?と目クジラ立てるのもいまとなっては野暮というものでしょうか。政治家の選挙公約や、政党のマニフェストを例にひくまでもなく、何かに際して何かかんか約束したり、宣言したり、誓ったりしたことどもを“徐々に、次々に反故にしていく”のが人間の人生というものじゃないかなという気もするんです。

入学、進学、卒業、就職、転職、結婚、子供の誕生、離婚、定年など、人間いろいろな場面で「これからはこうしよう」「こういうふうに生きよう」「いついつまでに、これこれを達成しよう(もしくはやめよう)」と決心し、時には他人に公言したり、ブログに載せたり、紙に書いて壁に貼ったりしますが、決心した通り寸分違わずに果たせている項目がそのうち何割何パーセントあるか。

誓った通りの結婚生活を10年、15年(中略)、50年、一日も手抜かりなく過ごせているか。「このかわいい子のために、こんなこともしてあげよう、あんなこともしてあげよう」と決心した通りに子育てに取り組み、こう育てたいと思った通りの子に育ち上がっているか。誓った通りの入社年度に、目指した通りの役職に就けているか。目標通りの年収と、願った通りのレベルのマイホームが現にここにあるか。

たいていの人が、「まぁ、100%ってわけにはいかないけど、まあまあかな」「途中、状況も変わったからね、不況とか」と誤魔化し笑いとともに自答するのではないでしょうか。まあまあということは達成“できなかった”と同じことで、できなかったと言うとネガくなるから、婉曲表現で「まあまあ」と言ってるだけです。

約束を果たせないということ、果たせない自分、“まあまあ”で事足れりとする自分と、折り合いをつけていくのが人生、と言い換えてもいい。

事足れる自分、折り合う自分だけでなく、折り合う世間というものがあるのも現実です。沙知代さんが「ちょっと、アタシこれから旦那の引退した分も稼ぎたいんだからテレビ出させてよ」と言ったとき(見てたわけじゃないけど、言ったと仮定して)、バラエティ番組やトーク番組のPなりディレクターなりが「沙知代さんタレント業引退って言ったじゃないですか、法廷で宣言したんだからダメですよ」とストップかけてたら、この人を再びTVで見ることもなかったわけで、要するに皆“折り合って”しまってるわけです。

TVの向こう側の責任だけではない。このご時勢、TVだってお付き合いやしがらみやゴリ押しでキャスティング決めてるわけにもいかないのであって、ある人を出したら出した途端にがつんと視聴率が下がるとなったら、当然、以後出しません。がつんと下がらないということは、なんだかんだで、視聴者、観客も受け入れているのです。「もうTV出ないって自分で言ってたあの人、また出てるわ」「出てるねえ」とかぬるく見流して、誰もスイッチ切ったりチャンネルかえたりしないから、結局出続ける。

月河、個人的には野村沙知代さん、面識ももちろんないし、“なんだか知らないけどTVに頻々と出てる人のひとり”ととらえれば、突出して嫌いでも不快でもありません。沙知代さん、公表年齢は1932年生まれで今年78歳になられますが、彼女の年代からもう少し下がった、“プレ団塊”世代=70歳前後のおばさま・おねえさま方が複数集まる趣味の会や教室、茶話会などに同席すると、大雑把に言って4人にひとりは“小型サッチー”的なタイプがいます。この年代の女性たちは、物心ついたのが日本のドン底終戦前後で、日本人の価値観や女性観、とりわけ結婚観・夫婦観・家族観が大きく変わった時期に多感な青春を過ごしてこられたため、“世が世ならこうしたかったこと”、ぞっくりアタマカズ多い戦後生まれの後輩たちに対して“違うわよと言いたいこと”を山のように抱えて年輪を重ねてきており、普通に話していても地声が大きく、放っておけば右肩上がりにダメ出し・お節介口調になりがちです。

個体差もあるとは言え、これは概ね彼女たちの落ち度ではなく、時代のめぐり合わせなので、そういう言動や態度、ファッションセンスにいちいち引っかかっていては営業も、近所付き合いも成立しません。

沙知代さんが再びTV界に返り咲かれるなら、ますますお元気でとぬるく笑って看過する度量ぐらいは持ちあわせているつもりですが、“約束したり決心したりしては、ゆっくり反故にして、折り合う繰り返しが人生である”ってことを、この人を見ているとじわじわ思い出させられ、再認識させられる。だからなんだかモヤモヤするのです。

あとね、沙知代さんを久しぶりに見かけたとき、なぜか隣席が和泉元彌さんママの和泉節子さんだったんですよ。相変わらずごっつい眼鏡にごっついチェーンつけてた。沙知代さんと違って別に何か裁判やってたわけじゃないけど、ある時期からTVで見かけなくなったと思ったら、こちらもいつの間にか返り咲きですかね。セットで復帰というわけでもありますまいが、2人並ぶと結局約10年前のトークバラエティと絵柄が一緒なのね。当時のPだかDだか、制作スタッフも10年も経てば辞めた人、昇進した人、下から上がってきた人も多くて顔触れ一新してそうなものなのに、この変わり映えのしなさ、進歩のなさ知恵のなさ、何とも思わないのかな。

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