雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキのZ1とNinja の想い出

2024-03-01 06:52:39 | カワサキ単車の昔話

★ 私自身はカワサキで二輪部門の企画や市場関係を担当していて、
 技術関係の車の開発などには殆ど関係しなかったのだが、
 この「Z1とNinja」にはカワサキの歴代のバイクの中で、
 私にとっても特別の想い出があるバイクなのである。

 カワサキがレースを始めた当時は『レース運営委員会』で運営されていて、
 そのメンバーは、山田熙明・苧野豊秋・中村治道・高橋鐵郎・大槻幸雄・藤佶郎・田崎雅元という
 当時の技術・生産・営業のメンバーで構成されていて、
 その事務局と当時のライダー契約などをが担当していたのである。

 当時はまだ各部の部課長や掛長の時代だったのだが、
 このメンバーの中から川崎重工業の社長副社長などが出ているのを見ても事業の中枢メンバーであったと言えるのだろう。


★このレース運営委員会はカワサキが初めてGPレースに参加した1966年まで存続したのだが、この年の秋を最後に解散したのである。
 大槻幸雄さんは技術部の市販車開発部門に、私も営業部門に配属されることになったのだが、
 その時大槻さんは私に『世界一のバイクを創る』と熱く語ったのだが、
 そのバイクがあのZ1に繋がったのだろうと思うのである。

  
 

 このZ1の開発当時は山田熙明さんが技術本部長時代で、
 大槻幸雄さんが課長時代だったと思うが、
 最初は750ccで開発が進められていたのだが、
 ホンダが750ccを市場に出したので、急遽900ccに変更されたのも、『世界一のバイクを』と言う大槻さんの想いの現れだと思っている。
 大槻幸雄さんとはZ1会のゴルフコンペなどで、ごく最近までお付き合いがあったのである。

 カワサキの初代のレース監督大槻幸雄さんで、助監督田崎雅元さんだったのである。


★ Ninja900が世に出たのは1984年だから、
  Z1が世に出てから12年もあとのことなのだが、
  大庭浩単車事業本部長の頃で技術本部長は安藤佶郎さんだったと思う。

  このバイクは「GPZ900R」として開発されたのだが、

  
当時のアメリカ市場から、Ninja』と言うネーミングが提案されたのである。
忍者』のイメージは暗いからと開発部門が猛反対で、
 大庭浩本部長が自ら当時のアメリカKMC社長だった田崎さんに、その意向を伝えるべく渡米されたのである。
 その席には大庭さん・田崎さんと私の3人だけだったのだが、
 大庭さんの伝達に対して田崎さんは猛烈に食い下がって「YES」と言わないのである。

当時はアメリカではNinjaが流行っていて、それは黒装束の忍者のイメージではなく、007のカッコいいイメージ』だというのである。

田崎さんはKMC社長ではあったが、川重では新部長の頃だったのだが、大庭本部長の説得を『よく頑張り通した』と思う。
事業本部長が説得すれば「Yes」と言うのが普通なのである。

そんなこともあって、最初の車はアメリカ市場だけが『Ninja』と言うネーミングで発売されるのだが、
その『Ninja』のネーミングが好評で、いろんなバイクのネーミングに使用され、今年はNinja40周年に当たるのである。

このNinja 900のエンジン担当開発者は若いころの山田浩平さんで、
山田さんとは今でもFacebookで毎日のように繋がっているのだが、
そのエンジン開発のコンセプトはZ1とは全く違ったものだったようである。
 
  

 
いずれにしてもZ1とNinja は『カワサキを代表する名車』であることは間違いない。
 そして、それは旧く『レース運営委員会のメンバー』が
 色濃く関係しているのは不思議だなと思っているのである。

 そして殆ど開発などには関係していなかった私も、
 懐かしい想い出を有しているのである。



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カワサキ単車の昔話   28    富士山登頂成功

2023-11-18 01:07:25 | カワサキ単車の昔話

★ この話は一度アップしたこともあるのだが、
 改めてもう一度まとめ治してみることにする。
 このプロジェクトは昭和40年(1965年)7月のことだが
 カワサキの品証部にいた福田泰秀君が当時広告宣伝を担当していた私のところにやって来て、
 「8月の休みに85J1で富士山に登ろうと思うのだが、その費用を持ってくれませんかという話から始まったのである。

 カワサキの二輪事業は昭和36年12月に初めて単車営業課が出来て、
 私はそこに異動したのだが、それ以前に営業課はなかったが、
メーカーとして技術を担当するサービス係が3人いてその一人が福田康秀君だったから、
 彼は本当にカワサキの単車のスタート時代から関わっていたのである。
 そんなこともあって福田君は単車営業に異動した私の下についたので昔馴染みで頼みやすかったのだと思う。

 別に会社の起案ではないし品証の連中のプライベートでの企画なのだが、
 「富士山の山頂での写真」を撮ってきたら費用の面倒をみようということでスタートした話なのである。

 いまの時代ならバイクで富士山に登るなど、許可されないだろうし、
 そんな写真を広告宣伝に使うことなど考えられないと思うのだが、
 その時代はこんな無茶な計画も世間は許してくれる時代だったのである。


★ 結果は大成功で当時のバイク雑誌にも掲載されたし
 広告宣伝課の広報としても「雑誌広告」に使ったりしたのである。
 



 そして「85J1の抜群の登坂力」などと正規の広告に使用したりしたのである。

  


  
 富士山頂でのこんな写真もあるし


 


 当時の品証の懐かしいメンバー達である。




 2台の85J1をレース職場で整備し
 モトクロスタイヤを装着したりしたのだが、
 登頂はなかなか大変だったようで、
 ロープで引っ張り上げることもあったとか。

 戻ってきた85J1のタイヤのヤマは殆どすり減っていたのである。






★ それにしても、よく登ろうと思ったと思うし、
 広告に使っても会社から文句を言われるようなことは全くなかったのである。
 この企画を私も上司には相談などしていない。
 そんな自由な雰囲気があった時代のことなのである。
 昭和40年8月3日のことだから、
 いまから58年も前の話なのである。

 お互い若かったなと思う。
 これは2013年だから10年前のことだが、
 ある催しで『バイクで富士登山』を語る福田康秀くんである。

 


  
 久しく会っていないが、元気にしているのだろうか?

  
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カワサキ単車の昔話   27   7万台への挑戦 3

2023-11-10 06:00:25 | カワサキ単車の昔話

1990年代の初頭のことなのだが、
 7万台販売というとてつもない目標に挑戦した時期がある。

 出来ると思っていた訳ではないのだが、何とか目標達成が見えてきたので、
 当時の二輪事業本部の部課長を集めての講演会が行われて、
 2時間以上に亘って話しているのだが、その集約をご紹介している。
 今回で3回目だがこれで締めくくりたいと思っている。
 カワサキにとっては国内7万台は夢のような目標だったが、
 何とか達成することが出来たのである。

 7万台というのは、
 二輪車は4万台を6万台
 ジェットスキーは3000台を1万台
 という少々粗っぽい目標なのだが、何とか達成できたのである。
 

 



 こんなべらぼーな目標は、普通の販売促進策では実現できないと思ったので、
 『カワサキの新しいイメージ創造』という大きなテーマに取り組んだのである。 

 簡単にそう言ってはいるが、『イメージ創造』とは一般社会というか
 他人がカワサキに抱く発想なので、なかなか口で言うほど簡単ではないのである。
 最初に取り組んだのは、その時点でのカワサキのイメージ調査報堂に頼んで行ったのがこれである。

 これが当時の二輪4社のイメージなのだが、
 カワサキのイメージというと個性的なデザイン玄人受けはするけれども、
 レースに弱く、宣伝のセンスがなく、常にチャレンジしないし、
 そのイメージ総量が小さくて、極端に言うと一般には知られていない。
 このイメージを変えない限り、7万台などは夢のまた夢だと思って
 7万台というよりも『新しいカワサキのイメージ創造』という目標に取り組んだのである。
 

 


  兎に角、1年間
  ● ケイ・スポーツ・システムというソフト会社を創って
  ● ユーザー組織KAZEに本格的に取り組み
  ● レースにも本格的に取り組んだら
 1年後にはカワサキのイメージはこれくらいには膨らんだのである。
 こんな変化にが自信になって、
 
   
 

  それ以降にさらに積極的に頑張ったのは
  ● 遊び会社ケイ・スポーツ・システム
  ● 具体的にはユーザークラブKAZEの本格化
  ● 一般ユーザーが走れる日本で初めてのサーキットSPA直入
  ● レース運営の積極化
  など販売対策などではなくて、

  総合営業活動として
  兎に角、新しいカワサキのイメージ創造に取り組んだのである。 
  
  
 
 
  
 この期間には、不思議なほど具体的な販売対策や販売促進策は行っていない。
 一番台数増に貢献したのはカワサキらしいバイクではなくて
 何の変哲もないZEPHREだったのである。

  
  


 この車が開発当時からこんなに売れるとは誰も思っていなくて、
 生産台数は極小だったからバックオーダーが出たのだが、
 生産台数を増やさずにそのままにしていたら、3年間バックオーダーが続いたのである。
 これは『私がそうした』のだが、
 過去に400FX3か月以上のバックオーダーになったので、生産を増やしたら、たちどころに消えてしまったのである。
 車が足りなくなると、ユーザーはあちこちの販売店に行くので、バックオーダーというのは過大な台数になるのである。
 そんな400FXの経験から、何もせずに放置したのだが、それがよかったのである。
 何の変哲もないZEPHREは、空前のヒット商品となり『7万台達成』に大いに貢献したのである。


★講演の最後に語ったのは私独特の経営のバランスシートである。
 線から上が一般のバランスシートだが、その経営にあたる人材は多様なソフトが蓄積されるほど高質人材が育つのだと思っている。
 そういう意味で特に販売会社の経営は多様なソフトの充実こそが、貸借対照表の内容の充実に繋がるのだと思っている。
 当時のカワ販グループは売上高400億円だが総資産は100億円、実に回転無借金経営自己資本比率35%というちょっと日本ではないような内容だったのである。
 それが出来たのはソフトであり、従業員の高質化だったと思っている。






★この時期ホントに力を入れたのは、
 カワサキの新しいイメージ創造だったから
 この講演会の講師もこんなメンバーだったし、
 話した内容も以下のようなものだったのである。

 

  


  そんな『ソフト対策』が7万台を実現したと言っていい。
  私の現役時代の総仕上げみたいなものだったが、
  私の生き方のベースは『差別化』でちょっと変わった生き方なのである。
  これは90歳になった今もちょっと変わっていて
  世の中には珍しい『90歳の生き方』になっていると思うのである。

 思わぬ大成功に繋がった『カワサキ単車の昔話』である。
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カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 2

2023-11-07 05:35:17 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。
私なりのユニークな対策の効果もあって、このムツカシイ目標の達成が見えてきたた91年3月に、
7万台への挑戦』についての話をするように当時の事業本部長高橋鐵郎さんからの指示だった。
そしてその講演を冊子にまとめてくれたのは当時の営業部の販売促進部長の岩崎茂樹くんである。

この冊子の冒頭のご案内で岩崎茂樹は大要このように述べている。
・・・皆様にお汲み取り頂きたいのは、そのユニークな手法ではなく、何故そうしたのか?何を狙っているのか?と言った
 一貫して中を貫いている"哲学”=基本的な考え方であります。
 ハードウエアだけでは最早競争相手との差別化が困難となったこの時代に、
 このソフトウエアを構築の柱としたダイナミックなマーケッテング活動をユーザーの意識の変化に即応して展開していく姿勢をも学んで頂きたいと思います。


  
  

 彼は若い時、私のレース活動を引き継いでくれたレースマネージャーで、2代目の広告宣伝課長なのである。
 そんなことで私自身をよく理解してくれているから言える言葉だと思う。
 

★ 私はこのような講演会でも大綱は纏めるが、原稿などは作ったりはしないのである。
 話は喋り手と聴き手で成り立っている。
 常に聴衆の反応を見ながら話さないと、一方的な講話になってしまうのである。
 そんなことで、高橋鐵郎さんが何を思ってこの講演会を考えられたのか?
 先ず、冒頭に高橋さんの考え方を私から聞いてみたのである。
 即席ではあったが、高橋さんはこのように語られている。


 


本来ですと、直ぐカワ販の講師に喋って貰ったらいいのですが、
ここに並んでいる講師の連中は見かけによらず心臓が弱そうで、
私にキックオフをしてもらわんと、
喋る訳にもいかぬという要請が只今ありましたので、
今日の会合の趣旨について若干私からお話したいと思います。
 いまよい製品を適正な価格で売るということは、必要ではあるけれども、十分条件ではない。
今後の販売は周辺のソフトを固めてグローバルに総合的にモノを顧客に提供していく時代が来た。
我々事業本部の方も今後の販売は総合的な力で最終的な結果が得られるということをよく認識して、
前線で戦っている販売面をよくバックアップしていかなければいけないと思い、
CP事業本部の幹部の方々に集まって頂いた訳です。どうか皆さんご清聴下さい。
 というご挨拶で、この講演会が始まったのである。
  
 
★高橋さんから『7万台への挑戦』の話をするようにと言われて、
 さて、どのように話すべきかと思ったのだが、
 これは私が指揮をとってはいるが、私が一人でやっている訳ではないので、
 部下というか「仲間と一緒に話すべき」だと思って
 喋り手はこんなメンバーにして、こんな構成にしたのである。

 その講師に選んだのは販売促進部などではなくて、
 ●ケイ・スポーツ・システムというソフト会社南常務
 ●レース担当重本部長
 ●広告宣伝小林課長とし、
 打ち合わせなどなしにスタートしたのである。

 打ち合わせなどしなくても、日ごろの業務の中で意思疎通はよくできているから、
 自由に喋らしてもおかしなことにはならないと思ったのと、
 若し、何かあればその場で私が修正すればいいと思ったので、
 先ず私が喋り、そのあと3人が話して
 最後に私が纏めるという方向としたのである。

 目次は綺麗に纏められているが最初にあったのではなく、
 話した内容をあとで岩崎茂樹が纏めてくれたのである。

 


★この講演会のテーマは『7万台への挑戦』なのだが、
 その副題にあるように『新しいカワサキのイメージ戦略』なのである。

 目標が5万台ならともかく『7万台』という途方もない台数は、
 「カワサキの新しいイメージ創造」がキーで、
 それなくして、単なる販売促進策では不可能だと思ったからである。

 1988年10月に国内販売を担当して、
 最初にやったのは『ケイ・スポーツ・システムというソフト会社』を創ることから始めたのである。 
 川崎重工業の中ではじめてのソフト会社は、翌年3月に設立され、
 私が社長を兼務して『7万台への挑戦』の中枢に据えたのである。

 端的に言えば『遊びの会社』なのである。
 二輪車は交通手段でもあるが、カワサキが主とするスポーツ車は
 『遊び道具』なのである。
 販売店などにはできない「本格的な遊び」を末端のユーザーとともに創って、
 『新しいカワサキイメージの創造』が出来ない限り、
7万台の販売達成はない」と思ったのである。

 その新会社の設立に利用したのが、
 当時日本で初めての一般ユーザーが走れるサーキット『SPA直入の管理』という名目で、
 新ソフト会社・ケイ・スポーツ・システムの創立の理由にしたのである。


 

 この時期は丁度SPA直入が建設中だったので、
 
 そんなことにでもしなければ、川崎重工業の役員さん方に『二輪の遊び会』などと言ったら、新会社の設立などは申請が通らないのである。
 この時の川重社長の大庭浩さん単車本部長時代に私が番頭役を務めてたので、
古谷が言うのなら』とあまり中身は解らずに通して頂いたのだと思っている。

 そんなことで出来た『ケイ・スポーツ・システム』だが、
 この会社での最初の仕事は、ユーザークラブKAZEの本格的な導入
だった。


 
 

 当時はホンダはHART ,ヤマハはYESS,スズキはじゃじゃ馬と4社ともあったユーザークラブだが、
 4社の中でKAZEだけが今も存在し、今年35周年を迎えるのである
 その理由は、他社は担当者ぐらいはいたのだろうが
 カワサキは、これを企画管理するソフト会社を創って本格的に対応したからだと思う。
 KAZEとは少々当てつけだが
 Kawasaki Amusing Zone for Everybody の頭文字をとったもので、
 風を切って走る二輪の楽しさを何となく連想させるものになっている。

 これらの話は、今となっては『カワサキ単車の昔話』ではあるのだが、
 この『新しいカワサキのイメージ創造』は私にとっては
 二輪のマーケット分野を担当した集大成 だと言っていい。

 いま思うと、岩崎茂樹がよくこんな冊子にまとめてくれたなと感謝・感謝なのである。
 因みに『SPA直入』は私と岩崎茂樹とで創ったサーキットで
 その『SPA直入』の名付け親は岩崎茂樹なのである。
 その名の由来は、直入町の温泉もあるのだが。
 世界的に有名なベルギーの『スパ・フランコルシャン』から来ているのである。

★こんなコンセプトでの講演会だったのだが、
 当時のCP事業本部の約200名の部課長を前に
 2時間以上に亘って話したのだが、非常に好評だったのである。

 どんな話の内容であったのかは、サワリの部分を次回にご紹介することにする。
 
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カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 1

2023-11-03 05:51:15 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。

 この7万台の販売目標は1983年当時大庭浩本部長が国内のカワサキオートバイ販売社長を兼務されていた時に建てられた目標なのだが、
 あまりにも大きな台数目標であったために、
 当時のカワ販では目標ではあったが、本気でそれに向かおうとはしてなかったぐらい高い目標だったのである。

★今年はカワサキモータースジャパンの創立70周年である。
 これは昭和28年(1953)明発工業が創立されてからの年数で、
 同じ年に戦後中断されていた川崎航空機工業が再スタートし、
 その明石工場は戦前から飛行機のエンジン工場であったことから、
 バイクのエンジンを開発生産し、明発工業に供給していたのである。
 私は昭和32年(1957)の入社だから私が入社する4年前の話なのである。

 ただカワサキが単車工場を造って単車の一貫生産をスタートさせたのは、昭和35年(1960)のことだから、
 スタートとされる昭和28年からは7年もあとの話で、
 カワサキの単車事業の歴史としては、
 この年から数える方が妥当かも知れない。

  
 
 
 私はこの1960年のカワサキの単車事業一貫生産の時期から
 単車営業課に異動したので、カワサキの単車事業スタートの時期からずっと一貫して単車事業とともに歩き、
 国内担当とメーカーの主として企画部門を交互に担当し、
 1988年から1999年までは最後の国内市場担当だったのである。


★この1988年からの国内担当は『7万台の販売目標』を達成すべくいろいろ頑張った私のマーケッテンぐ分野の集大成の時期なのだが、
 このムツカシイ7万台の販売目標は1991年6月1日に年間移動値で達成するのだが、
 その達成直前の3月に当時の二輪事業本部の課長以上を集めて
 『7万台への挑戦』と題して、当時の部下たちとともに行った講演があったのだが、
 それを当時のCP事業本部の営業部販売促進課が1冊の本に纏めてくれたのが、これである。

 この冊子は単に二輪事業本部の中だけに配られたものではなくて、
 当時の大庭浩社長以下役員全員にも広く配布されたものなのである。

 

  
 

 
  当時のCP事業本部は高橋鐵郎本部長時代で、
  高橋さんはカワサキオートバイ販売の社長を兼務されていて
  私が専務として実務を担当していた時代なのである。

    CPとはConsumer Prodct の略で、
  川重の他製品と異なり、末端ユーザーに直接届ける商品の二輪ジェットスキーを扱う事業本部ということで、
  高橋鐵郎本部長の命名だった。

 



 高橋鐵郎さんとは旧く、カワサキが単車事業をスタートした頃は
 製造部におられて私はレースを担当していたのだが、
 そのレース職場は当時は製造部所属で、
 私はライダー契約など担当していたので、そんな旧い時代から
 いろいろと一緒に仕事をしたのだが、
 1951年のカワサキのCKDの市場開発プロジェクト室以降は、
 ずっとコンビのような形で仕事を進めたし、
 1982年の二輪事業の危機的な状況の時には、
 私は企画部を担当するのだが、その時は川重TOPにお願いして
 高橋鐵郎さんをアメリカから戻って頂いたりしたのである。


★ 私のこの最後の国内担当の10年間は、
  私のマーケット分野の集大成のような期間で
  この講演会にはその具体的な内容を語っているので、
  『カワサキ単車の昔話』としてその内容がどんなことであったのか、
  ここで語られた内容を少し詳しくお伝えしてみたい。
  大げさに言えば、それはカワサキの二輪事業のコンセプトと言えなくもないと思っている。
 約2時間、本のページにして60ページと長いのだが、
 どんなことになるのか、『カワサキ単車の昔話』として
 連続してご紹介してみたいと思っている。

   ある意味、私の人生の生き方そのものだと言えなくもない。


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カワサキ単車の昔話   25    X11に関わった人たち

2023-10-16 04:53:54 | カワサキ単車の昔話
★カワサキのサーキット走行のスポーツ4輪X-11については、何度か取り上げてはいるのだが、
カワサキ単車の昔話』としてこのスポーツ4輪に色々と関わった方たちの話も纏めてみたいと思ている。


  
  

 このプロジェクトは技術本部の提案で『015計画』としてスタートした。
 当時の技術本部長は私と同期の藤川哲三さんで1990年4月23日にその報告会が高橋鐵郎本部長以下当時の幹部全員が出席して開催されたのである。
 私は当時は国内販社を担当していたのだが、新しい4輪販売をどうするかということでメインメンバーとして出席しているのである。
 これがこのプロジェクトのスタートだと思う。

 エンジン開発は約1年の月日を経てほぼ完成し、
 翌年の91年2月には、高橋本部長、藤川技術本部長ほか技術部担当メンバーと私を含めたメンバーで開催され、
 技術本部のレース関連部門と、当時のカワ販の関係会社 株)ケイ・スポーツ・システム(KSS)のレース関連部門とで具体的に推進することが決定されたのである。
 マシンに『KAZE X11』と表示があるのはそんな経緯からである。

 なぜ、販売部門の私が関わったのかというと、
 このマシンを走らせるサーキットが必要でSPA直入もKSSの管理下だったので、
 そこでも走らせたこともあったのだが、いかにも小さすぎて、実験にならなかったのだが、
 その当時カワ販は岡山に完成したばかりの会員制TIサーキット会員権を2枚も所有していたのである。

 そんな4輪の会員制サーキットの会員券をなぜ持っていたのかというと、 
 TIサーキットの初代社長の千々岩さん元ホンダ技研の常務さんだったのだが、千々岩さんに会員権を買ってくれと頼まれたので、
 約1000万円もしたのだが、2枚も買って立ち上がりのご協力をしたのである。
 人に頼まれるとなかなか断り切れない性格なのだが、
 このサーキットは会員制という当時日本でも初めてのシステムだったので、そんなことにも興味があったのである。
 これが結果的には『015の開発』に役立つことになったのである。
 
★当時カワサキの契約ライダーだった多田喜代一くんがFacebook にこんな写真を載せている。
 岡山TIサーキットでの走行風景である。
 
 
 

Kiyokazu Tada
90年初めにカワサキワークス.フォーミュラーマシンX -11。
エンジンはZZ -R 1100のフルチューンエンジン搭載、開発ドライバーは元トヨタ.ワークスドライバーの見崎清志
岡山国際サーキットを36秒台で走ります。僕も試乗させて貰いましたが、シートポジションもそのまま、ペダル位地もそのまま、なかなか走り辛い感じでした。
なれた頃には最終コーナーで大スピン!あわやピットウォールにクラッシュ寸前でした。でも楽しい走行が出来ました。

★ 当時の国内市場はZEPHYR時代で、めちゃ調子もよかったし、
 藤川さんに頼まれて、サーキット走行などいろんな面倒を見ていたのである。
 特に当時は未だ技術部のぺいぺいだったが、このエンジンを担当していた山田浩平くんがオモシロくて、
 そんなことも応援する気になったのである。
 このプロジェクトはKAZEやレースやサーキットなどを担当していたソフト会社  KSSでは、
 その発売を目指して、カタログまで創ったのだが・・・
 何故か販売までには至らなったのである。

 星野インパルの金子豊くんに『星野一義に乗せられないか?』と言ったリもしたのだが、
 星野はブリジストンとの契約があって、ダンロップのタイヤだからちょっと無理と言うことだったのである。

★それにしても、なぜ発売を止めてしまったのか?
 その経緯は、全然聞いていないし、アレだけ熱心に応援していたのに、解らないのが不思議である。
 1台だけ東京の藤木さんが持っていたのだが、FISCOでクラッシュしたと聞いていたのだが・・・・

 その時代カワサキの広告代理店にいたという貴島さん
 退職してから三木のサーキットで会ったりしたのだが、
 彼はFBにこんなことを書いてくれた。

 「かくして古谷さと約15年ぶりの再会とあいなりました。
 古谷さんのイメージは当時、社長室でスーツ姿ビシッと決めておられた姿でしたので、
 ON ANY SANDA当日お会いしたラフな格好の古谷さんは、
 メジャーリーグのウエアに帽子で、ワタシの緊張を解きほぐしてくれました。

 いま私がFBに使っているのは、カワサキの想い出そして未来の時の写真だが、 
 その写真の一番右に小さく写っているのが、確か貴島さんなのである。

 


★ ずっと後のことだが
  カワサキワールドに、KAZE X-11が展示されてるというので、これはぜひ見ておきたいと、登山道夫さんと、青木隆さんとの3人で出かけた。 
 このプロジェクトを当時担当した山田浩平くんから、
 その日の朝、こんなメッセージを頂いたのである。

 「プロジェクトX-11では大変お世話になりました。
 マグネのヘッドカバー がKファンに向けた私のメッセージです。
 現在の世界中のカーマニアが見ても何か感じるものがあると思います。
 開発当時はコストアップだとか執拗に上司からネチネチいわれましたが・・・
 カウルを外して展示されているようですから、
 マグネのヘッドカバーが目立ってよく見えると思います。是非ご覧ください。

 こちらが、山田浩平くんの仰る マグネシュームのヘッドカバーである。
 
    
 


 こんな現物のマシンが展示されていた。


 
 

  山田浩平くんは、Ninja H2R開発者としても有名である。
  私とは今でも毎日Facebook で繋がっている。
  
    

  
 
 
★ こんなKAZE Xー11 の当時のカタログがあったのは、驚きだった。
 これは当時の 株)ケイ・スポーツ・システム が作ったものである。

 

 そして、この『カタログ製作の担当』をしたというのが
 前述の貴島久裕さんなのである。
 
★ FJ1600よりは限りなくF3に近いサーキット走行専用車で、  ZX1100ccのエンジンをベースに160PS/105000rpm、車重409kg, 
 エンジンは当然カワサキの開発陣が関わったのだが、
 サポートしてくれた人たちがまた、かっこよかったのである。

 シャシーは、FJ1600の創始者で鈴鹿のウエストレーシングカーズ社長の神谷さんが直接担当してくれた本格的なものだった。
 このマシンに興味を持ったのは、前述の「TIサーキット」の千々岩さん(元ホンダ技研常務)や国井さん。
 そのテストと評価は、元F3チャンピオンの佐々木さんで、その評価も上々だったのである。
 レース界では名を知らぬ人は居ないほど有名だった、ダンロップの京極さんなどもタッチしてくれている。

 特に、二輪エンジン10,000回転を上回る独特のノイズが何とも言えぬいいムードであった。
 TIをベースにテストは続けられ、川重社内の経営会議決済でも承認され、
 当時の雑誌、カーグラフィックにも記事が掲載され、その評価も至って良く、
 カタログも作って1台800万円ぐらいで売り出すべく準備をしていたのだが、
 何故本格的な発売にならなかったのか、それが解らないのである。
なぜ、発売されなかったのか?だけは解らないのだが、ここに記載したことは間違いない事実なのである。

 いろいろと関係のあった『015計画』Xー11だったのだが、
 何故か陽の目を見なかったのである。
 それにしても2017年だったと思うが、
 何故、カワサキワールドに展示する気になったのだろう?


 

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カワサキ単車の昔話  24     大庭浩本部長

2023-10-06 06:18:28 | カワサキ単車の昔話

★ カワサキが二輪事業をスタートさせた時から現役引退の時まで
 カワサキの二輪事業とともに歩いた人生だったと言っていい。
 
 そんなカワサキの二輪事業にも事業撤退をしなければならないと
 その当時のTOPが思ったほどの危機的な時代があったのである。

 当時の川崎重工の副社長山田熙明さんから
 1982年7月1日の朝、突然自宅に電話があって
 『本社に来るように』という指示なのである。
 何事かと思ったら、当時毎年100億円もの赤字が続いていた
 アメリカのKMCの赤字が止まると思うか?
 というのがご質問なのである。
 『そんなのは直ぐ止まります』と答えたら
 『それならお前が企画に戻ってやれ』ということになったのである。


 これが、そのあと直ぐ頂いた山田熙明さんからの手紙
 9月1日付で企画に戻すから、それまでは他言せぬようにと
 書かれている。


  
  


★ そんなことで私は10月1日から事業本部の企画に戻ることになったのだが、
 山田さんにお願いした条件が一つあって、
 「高橋鐵郎さんをアメリカの社長から戻して欲しい
 とお願いしたのである。

 世界の販社の販売計画や黒字化は、
 本部で全体を考えたバランスの取れた計画を組めば、即達成されるのは間違いないのだが、
 そんな指示を世界の全軍に指揮するには新米部長の私には荷が重くて、 
 高橋鐵郎さんのお力をお借りしたかったのである。

 この時期の単車事業部の赤字は川崎重工にとっても大問題で、
 『単車再建』は当時の川重の第一優先課題だったのでもある。
 そんなことで翌年春ごろからは『再建屋』と言われていた大庭浩常務を本部長に送り込むと言われたりしていた。

 それが7月1日に実現するのだが、
 大庭さんにとっても初めての経験だから、若し大庭さんが最初からおやりになるとすると大変だったと思うのだが、
 幸いにして大庭さんが来られた7月1日には既に新事業計画も完成していて、それに従って順調に推移していた時期なのである。


★ 人には『ツキ』があると思うが
 大庭浩さんはそんないい「ツキや運」を持っておられたと思う。
 現在の神戸にある立派な川重本社は大庭浩社長の時に建てられたもので、ちょうどそんな時期の社長だったし、
 1996年の川崎重工創立100周年時の社長で、
 その年の10月14日には英国のサッチャー元首相の記念講演会が実施されるのだが、

  

 サッチャー首相との結び付は、大庭さんが単車事業本部長時代に
 ヨーロッパ出張時に始まっているのである。
 


       


大庭浩さんは、川重の中でも『怖い・うるさい』などのイメージが強いのだが、
 単車のメンバーはみんな上に強くて、
 大庭さんに対しても自らの意見をはっきりという人ばかりなのである。
そんな単車事業部の雰囲気を大庭さんは大いに気に入って頂いて、
私の進言など一番聞いて頂いたのは『大庭浩』さんで、
私にとっては信頼して頂いた最高の上司だったのである。

大庭さんの単車事業本部長はそんなに長くはなかったが
結果的には『単車再建』を達成されて、川重副社長で本社に戻られたのである。
 それまでの川重の中における単車事業は造船などの受注産業の中での異色の事業だったのだが、
 大庭さんの社長時代に川重の中でも中枢の事業本部に位置付けられるようになったのである。
 そんな大庭さんの社長時代に川重の全役員を集めた席上で、
 『単車事業についての説明』を私にするように依頼があり、1時間ほどお話したのだが、
 非常に好評で『よく解かった』と多数の方からお褒めを頂いたのである。

★そんな大庭浩さんの単車本部長時代に大庭さんの番頭役を務めたのが私で、
絶大の信頼を頂いて特に目を掛けて頂いたのである。
 
 私の最後の職務は国内販社の担当だったが、
 それは大庭さんが打ち上げられた国内7万台販売というとてつもない目標達成なのである。
 ZEPHYRという商品にも恵まれて、
 高橋鐵郎さんとのコンビで、
 7万台目標が達成されたことは大満足なのである。

  
 
 
 この記録は多分今後も破られることはないのだろう。


★ところで、私の川崎重工での最後の職位は『技監』なのだが、
 これは文字通り技術屋さんの博士号などを取られた方や
 国からの来られる技術屋さんなどに与えられる取締役待遇の職位なのである。
 その『技監』という職位を事務屋ではじめて頂いたのが私で、 
 それは大庭浩社長自らのご指名だったのである。

 大庭さんは技術屋さんで何事もその根拠が必要なのだが、
 『お前はマーケッテング分野では博士号に値する』と言って頂いての『技監』だったので、大満足しているのである。
 
 大庭さんに一番づけづけとモノを言ったのは間違いなく私だと思う。
 そんな大好きな大庭浩さんだったのだが、早く逝ってしまわれたのである。

 

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カワサキ単車の昔話  23  日活映画 と 浜田光夫

2023-09-30 05:08:17 | カワサキ単車の昔話

★ 1965年(昭和40年)単車事業がスタートした頃の話だが、
 世の中はまだ映画が真っ盛りの時代で、
 カワサキの東京の広告宣伝課が日活といろいろと提携し、
 映画の中にカワサキを登場させていたので、
 日活映画の招待券なども沢山手に入っていたのである。

 そんな招待券で明石日活に『風と樹と空と』を観に行ったのは、
 この年の7月12日のことなのだが、
 7月14日にその明石日活に、この映画の主演俳優の浜田光夫舞台挨拶に来るという情報を課の女子社員が言うのである。

 全く突然の話で、何の約束もなかったのだが、
 私は『ダメ元で』と明石日活に出掛けて、
 浜田光夫のマネージャーに『カワサキの工場に見学に来ませんか』と言ったのだが、 
 何の問題もなく『伺います』というのである。


★『風と樹と空と』は、石坂洋次郎の小説で、
 1964年に映画化されたのである。

 その主演は、吉永小百合と浜田光夫の日活純愛路線で、
 多くのファンの支持を集め爆発的人気となっていたのである。


   



 そんな当代の大スターに突然「明石工場に来ませんか」と言ったら、
 びっくりするほど簡単に『伺います』ということになって
 浜田光夫と松原智恵子の二人がやって来たのである。
 そんな突然の話だったが、当時の塚本本部長に対応して頂いて、
 その録音を録ろうとしたのだが、録音器を持ち込むのがほんの少しだが遅れてしまって、既に始まっていたのだが、
 浜田光夫は、全く自然に『最初の挨拶』から『やり直して』くれたりしたのである。
 そんな対応が自然に出来るのは『流石だな』とその時そう思った。

 そんな話の後、『テストコースで単車に乗りませんか?』と言ったら、
乗ります』と言われて、テストコースにご案内したのだが、
浜田光夫が来るらしい』とは、いろんなところに伝わっていたらしく、
 テストコースはちょうど発動機工場の横だったのだが、
 発動機の女工さんたちがラインを離れて、群がって見に来たものだから、
 発動機のラインが止まってしまったのである。
 それくらいの人気スターだったのだが、
 当時の勤労部長に「突然、浜田光夫など連れてきて」と文句を言われたのだが、
 これは発動機の管理体制の問題で、私が文句を言われる筋合いはないと思ったりしたのである。


  
  

 然し、今思うと『よくやったな』と思うし
 浜田光夫も『よく単車に乗った』ものである。
 若し、怪我でもしていたら大変なことだったかも知れぬが、
 何の問題もなく上手くいって、
 浜田光夫もテストコースで単車に乘れて喜んでいたのである。

 どのように『お礼をしたらいいのか?』よく解らなかったが、
 3万円を謝礼に包んでいる。 
 当代のスターにこの金額が妥当だったかどうかはよく解らない。
 3万円か?と思われるかも知れぬが、
 その年の私のボーナスが6万円の時代なのである。

 そのあと、明石日活の劇場の壇上での本番では、
 浜田光夫は、カワサキのバイクの話を詳しく話してくれたし、
 広報担当の私としては大満足の出来事だったのである。


★ 私の行動は、このように突然、直感で動くことが多いのだが、
  その殆どの場合上手く行くのである。
  そんな中でも、この『浜田光夫の1件』は今思うとよくやったなと思う。 
  ただ突然のことだったし、何の約束事もない出来事だったので、
  この件の広報は一切やていない
  明石日活で浜田光夫が喋ってくれたのはよかったが、
  これをカワサキが広報に使うのはダメだなと判断したのである。

  外に広報したのは、このブログが初めてなのである。


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カワサキ単車の昔話  22     ナイジェリアの旅 

2023-09-25 05:09:28 | カワサキ単車の昔話

★世界のいろんな国に行ったが、
 一番ユニークな印象を持っている国と言えばナイジェリアかなと思う。

 人口は2億1000万人もいて、アフリカ州最大の規模である。
 19世紀以来の英国による植民地支配が続いていて、
 1960年に正式に独立したが、公用語は英語なのである。

 アフリカのほぼ中央部に位置している。

  


 1977年8月のことだが、
 カワサキが発展途上国へのCKDビジネスをスタートさせた頃で、
 ナイジェリアの現地調査に行くことになったのだが、
 ナイジェリアに行くにはマラニアの予防注射が必須事項な、
 そんな時代のことである。

 これが私の初めてのヨーロッパへの旅でもあったのだが、
 タイのバンコックからフランクフルト経由ロンドンに入ったのだが、
 日本ーバンコックーロンドン経由がおかしいと思われたのか、
 私の荷物検査はほぼ1時間ほどトランクの隅々までチェックされたのである。
 そして、先ずはマンチャスターにあるPZ本社を訪れ打ち合わせをしたのち、
 ナイジェリアの当時の首都ラゴスへ飛んだのである。

 とかっこよく言ってるが、ロンドン二つも空港があるとは解らなくて、
 1日目は、ヒースロー空港 に行ったが、ラゴス行の飛行機の便がないのである。
 アフリカにはもう一つの ガトウィック空港 から出ていて予定が1日遅れることから始まった。

★ 当時のナイジェリアは石油ブームで、その首都ラゴスは無茶苦茶な混雑ぶりで、
 街には車が溢れていて、それも1日ごとに奇数・偶数のナンバーしか走れないように規制をしているのだが、
 それでも車がいっぱいでなかなか思うように走れないというような状態だった。
 そんな現地にはカワサキから森田君が単身赴任していて、
 彼と一緒に行動したのだが、彼も奇数と偶数の2台の車番の車を持っていた。

  当時の首都ラゴスはこんな海岸に面した島の上にあり、

 


 こんなに立派なビルが立ち並んでいて、




  島の上に立派な街が出来ていて、ここではそこそこ走れたが、





  一般原住民の町はこんな混雑ぶりで
  どこに行っても人で埋まっているほど人もクルマも多いのである。





  
 原住民はこんな海の上に住んでいたり





 そのスラム街はこんな状態だから、
 ラゴス島との格差が大変なのである。
 
 




 ナイジェリアの人達は色は黒いが、
 常にニコニコ誰もみんなフレンドリーで
 流暢な英語を話すので良かったのだが、
 どこに行っても『子供がいっぱい』なのである。

 「子どもが多いな」と言うと『あなたは何人か?』と聞くので
 「二人だ」と答えたら『なぜ?』と不思議がるのである。
  どうやら『避妊』などは全く関係がないのだと思った。






★そんなナイジェリアのラゴスだったが、
 ちょっと郊外の販売店なども訪ねたりした。
 一歩ラゴスを出ると、人は殆どいないと言っていいほど
 閑散としていて、ホントに一局集中なのである。

 その時代、ラゴスにもすでにホンダさんは来ていたし、
 川崎重工の出先事務所もあった。
 このプロジェクトは結局陽の目をみなかったので、
 カワサキの二輪部門でナイジェリアを知ってるのは森田君と私だけかも知れない。

 日曜日に森田君がテニスをしようと言うので付き合ったのだが、
 私はテニスをしたのはこの時だけである。
 ミスってばかりだったのだが、ボールを拾う子供たちがいて、
 ボールボーイ付きの贅沢なテニスを楽しんだのである。

 8月16日(火)から8月25日(木)までの10日間のナイジェリアだったが、
 世界にはいろんな国があるのだと実感させて貰ったナイジェリアのだった。

 もう50年近くも前の話だが、
 いまはどうなっているのだろう?


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カワサキ単車の昔話  21  カワサキのデグナーのこと

2023-09-20 05:13:33 | カワサキ単車の昔話

 鈴鹿サーキットには幾つものカーブがあって
 それぞれいろんな名前が付けられているのだが、
 その8番目と9番目は『デグナーカーブ』と名付けられている。

 
 


 その命名の由来は、
 1962年11月に竣工したばかりの鈴鹿サーキットで行われた
 全日本選手権ロードレースで、
 トップを走っていたスズキの契約ライダー・エルンスト・デグナーが転倒したことから
 「デグナーカーブ」と名付けられたのである。

 1962年シーズンには、デグナーはこの年から始まった50ccクラスで、
 スズキにグランプリ初タイトルをもたらした名ライダーなのである。



  



カワサキが初めてGPレースに参入したのは1966年のことで、
 その年の日本GPには藤井敏雄・安良岡健・シモンズ等のライダーでの参加を目論んでいたのだが、
 マン島のプラクテイスで藤井敏雄が事故死したため、
 急遽、デグナーとの契約を行うことになったのである。

 契約交渉は当時の技術部長の山田熙明さんが行われたが、
 その契約書を私に作れという指示が出たのが9月の初めであった。

 日本人ライダーとの契約は何度も行ってきたのだが、
 外人契約は初めてで、具体的にどのような契約内容にするのかもう一つよく解らない。
 こんなレースライダーの契約などについて社内には聞く人もいないので、
 9月10日のことだが、ホンダのレース担当の前川さんに電話して『教えて欲しい』と頼んだのである。
 前川さんとはMFJのレース運営委員会でご一緒しているだけの関係だったのだが、
 電話をしたら快く引き受けて頂いたのである。
 
その日の2時に鈴鹿までお伺いして、具体的に教えてもらったのだが、 
契約書の最後の『疑義を生じた場合は甲乙円満に話し合い・・』という日本式はダメだよ、
疑義を生じた場合は甲の判断による』などと教えて貰ったのである。
 
契約書は当然英文なのだが、私が作ったのは日本文で、
その英訳は山田熙明さんに引き受けて頂いた。
山田熙明さんは神戸一中の私の先輩なのだが、
一中・一高・東大航空機の秀才は英訳などは至極簡単なようだった。
 

★そんなことで契約したエルンスト・デグナーだが、
 彼がサーキットでカワサキに乗って走る姿は見られなかったのである。
 
 9月29日のFISCOでの練習走行で転倒し頭部を打って、
 御殿場の中央病院に入院するのだが、すぐに意識は回復して、
 10月1日には明石市民病院に移して、完全回復することになったのだが、
 それが突然意識がおかしくなってしまうのである。

 それまでは英語を喋っていたのだが、そこからは突然ドイツ語になってしまって明石病院のお医者さんも困ってしまうのだが、
 その通訳をされたのが、ドイツ留学を終えたばかりの大槻幸雄さんで、
 明石病院のお医者さんもドイツ語を喋る大槻さんにビックリしてしまうのである。

 当時は『脳外科のお医者さん』は非常に少なくて明石病院でも専門医はいなかったので、
 急遽、神戸医大に移送したのが10月4日で、この1週間はデグナーのことで大変だったのだが、
 神戸医大に移ってからは順調に回復して10月21日に無事退院するのである。


★この年の日本GPは初めて10月14日FISUCOで開催され
 カワサキはまだグリーンではないこんな赤タンクの時代だが、
 GP125は安良岡健が7位に入るのである。
  

  
  


カワサキのデグナー』はこんなことで見ることは出来なかったのである。
 デグナーとは約2か月間いろいろとあったのだが、
 彼はサーキットで、赤タンクのGPマシンに乗ることはなかったのである。
 そんことでカワサキのデグナーは実現しなかったし、
 カワサキがデグナーと契約したことなど、
 殆どの方はご存じないのである。
 
 
★デグナーとの契約では、さらに後日談があって
契約金を日本円で渡したので、デグナーが海外に持ち出すことが出来ないというのである。
当時はまだそんな時代で、その後処理にも私は走り回ったのである。
 いずれにしてもこの2か月間は私にとっては忘れられない大変な2ヶ月だったのである。
 
 若し、カワサキのデグナーが実現していたら
 ひょとして、もう少しいい線まで行ってたかも知れない。
 
 そんなカワサキ単車の昔話である。



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カワサキ単車の昔話  20   松尾勇さんのこと     

2023-09-14 04:45:01 | カワサキ単車の昔話

川崎航空機が単車事業に本格的に進出したのは
 1960年(昭和35年)のことで、
 私は昭和32年入社で昭和36年末、初めて出来た単車営業課に異動したのだが、単車のことなど何にも解っていなかった。
 
 私だけでなく、周囲の人達も、上司も、
 技術屋さんも、事務屋も、
 単車のことが解っている人はいなかったと言って過言ではない。
 技術屋さんもエンジンの専門家はいっぱいいたが、
 なんとか単車のことが解っていたのは、
 B7のレースにも関係した井出哲也さんぐらいではなかったのか?

★ そんな状態の中での事業のスタートだったのだが、
 直ぐにファクトリーレースチームが出来て、
 ここには『単車のことしか解らない』と言った方がいいようなライダーたちが集まっていたのである。

 それにこのカワサキのレースをスタートさせた張本人は先にも書いたように、
 兵庫メグロの西海義治社長で、この方は元プロのオートレーサーだったからバイクには当然詳しかったのだが、
 その西海さんがカワサキの単車事業部に子飼いの松尾勇さんを送りり込んで、
 そのレース職場は製造部に属していて、そこにいた松尾勇さんのノウハウで運営されたと言ってもいい。


★ この写真はカワサキファクトリー結成25周年記念として、1988年に実は私が企画して実施したものだが、
  ここに集まったメンバーがカワサキの創成期のレースを支えたと言って間違いない。
  何故か安藤佶郎・百合草三佐雄のお二人がいないのだが、多分お二人は当時アメリカ勤務だったのだと思う。 
 この写真の最前列に並んでいる方たちが、レースの創始者と言ってもいいだろう。
 左から糠谷省三・松尾勇・山田熙明・西海義治・高橋鐵郎・苧野豊秋・中村治道・大槻幸雄である。


  
  

 糠谷省三さんは大槻・安藤に次いで3代目のレース監督でメグロの出身、
 山田熙明さんは事業スタート時の技術部長で西海さんと懇意でレースに熱心だったが、この当時は川重副社長を退任されてすでにOBだった。
 高橋鐵郎さんは当時の川重副社長中村治道さんと一緒に青野ヶ原モトクロスの主導者だった。
 苧野豊秋さんは営業関連のレース責任者で私の直接の上司だった。
 そして大槻幸雄さんは初代のカワサキレースチームの監督で、Zの開発総責任者で、後川重常務ある。
 
 こんな錚々たるメンバーに伍して、
 会社の職位では掛長にもなっていない松尾勇さん最前列にお座りなのは、
 こと創生期カワサキのレースでは如何に重要な地位にいたかと言うことなのである。

  2列目には岡部・金谷・安良岡・和田・山本・清原もいるし。
  平井稔男・田崎雅元(後川重社長)さんも私もいる。
  星野一義は最後尾の一番右である。

  後ろの方と左側は当時のレース現役諸君で宗和多田の顔も見える。
  

★ そんな松尾勇さんは、兎に角バイクには詳しかったし、エンジンも車体も、何でもこいだった。
 青野ヶ原の最初のレースでB8をモトクロッサーに仕上げたのも松尾さんだし、
 その後のレース職場でも、技術部が担当したのはエンジンだけで、
 それをマシンに仕上げたのはみんな松尾勇さんなのである。

 そんな松尾さんの最高傑作はあのF21Mだと言っていい。
 当時スズキがRH2台を造って、ヨーロッパ市場にも遠征したりしていたのだが、
 カワサキもそんな本格的なファクトリーマシンを創ろうと、
 エンジンは当時の監督の安藤佶郎さんが238ccのエンジンを新たに提供されたのだが、
 それをマシンに仕上げたのは松尾勇さんである。

 当時のヘリコプター部門からクロモリのパイプを貰ってきて、
 図面など全くなしに、べニア板にフレームの形の釘を打って創り上げたのである。
 パイプを曲げるのにそこに詰める砂を海岸で取ってきたりしたので、よく覚えている。

 スズキの2台などとは違って、契約ライダー分すべての台数を造って
 青森県嶽岳で開催された全日本にデビューし、ヤマハがDT1を開発するまでは、まさに連戦連勝だったのである。

 このF21Mをベースに技術部が車体の図面を正式に造って、
 正規に生産をしたのが市販車のF21Mだが、

 
  



  ファクトリーライダーたちが最初に乘ったF21Mは、
  すべ松尾さんが創り上げたもので、
  ひょっとしたら F21Mと言うネーミングは技術部が後に名付けたのかも知れない。


  


 
★ カワサキがレースを技術部ではなく製造部の管轄レース職場でやっていた時代は、
  すべて設計図などはなく、松尾勇さんの手作りだったのである。
  その辺の町工場のような感じだったのである。
  そのレース職場にはライダー諸君も出入りしていたので、
  場所も製造部とは別の場所でちょっと変わった特異な職制だったのである。

  当時のレース運営は、前述の主要メンバーで構成された「レース運営委員会」がベースでその事務局を私が担当していたのである。
  そんなことで先の『カワサキファクトリー結成25周年記念』の会合も私が主宰したりして、
  集まったメンバーは当時のレース関係者とライダーたちなのである。

  レースマシンのモトクロッサーが正規に技術部に移ったのは、
  マシンの名称KXがつく時代からである。
  レース監督で言えば4代目の百合草三佐雄さんの時代からである。

  それまではレース職場の松尾勇さん時代が続いたのである。
  私が幾らかでもマシンとか技術とかに興味を持ったのは、
  『松尾勇さん時代』で、
  カワサキ創生期に、そんな時代があったとはなかなか信じられないかも知れないが、
  こんな感じで、航空機メーカーが、二輪専門メーカーに成長していったのである。
  松尾勇さんはそんな「橋渡しをした人」と言ってもいい。


★実は今年はそのKX50周年に当たるのである。

 これは10年前のKX40周年の時の写真だが、
 その時は私はアメリカに行っていて出席できなかったので、
 アメリカから祝意のメッセージをお送りしたのだが、

 


 今年は12月2日に明石のグリーンホテルで
 『kX50周年を祝う有志の会』が開催の予定なので、
 今回は私も出席して、ご挨拶をすることになっている。
 カワサキのKXモトクロッサーも、50年の歳月が流れている。
 私が直接レースに関与したのはそれ以前のことで、
 松尾勇さんと同じ『レース職場の時代』なのである。


  
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カワサキ単車の昔話  19     山本隆のこと 3

2023-09-10 07:24:09 | カワサキ単車の昔話

★ カワサキ一筋に長くレース界に貢献された山本隆だが、
 そんな功績をたたえて
 久保和夫・鈴木忠雄・吉村太一と並んで
 『MFJ モーターサイクルスポーツ殿堂』入りをされている。
 
 私がレースの世界に入った時、
 久保和夫はすでにモトクロス界の第一人者だったが、
 山本隆鈴木忠男も新人だったし、吉村太一星野と同期で、
 まだノービスだったのである。



 


 山本隆は最盛期には3年連続全日本チャンピオンにも輝いて、
 その褒章でヨーロッパの二輪市場見学旅行などにも行っているので、
 この殿堂入りも当然だと思う。

 二輪のライデングにかけては独特の理論派
 現役時代『講釈師・山本』と言われたのだが、
 確かにそのライデイングは理に適っていて
 いつどんなところで写真を撮っても様になるのである。


 この写真はタンクが「グリーン」だから
 晩年の山本隆だと思うが、
 綺麗な逆ハンでカーブを周っているが、
 力がどこにも入っていなくて、綺麗なライデングである。

  
 


★ 私とは長いお付き合いなのだが、
 私が初めて4輪の免許を取った時には、いろいろと運転技術を教えてくれたので、
 そう言う意味では、私のライデイングのお師匠さんである。
 私は二輪は持ったことはないのだが、会社のマシンで山本譲りのライデイングを結構練習したので、何となく『逆はん』も切れたりするのである。

 レースでは、二輪も4輪もレースは早く走るのだが、
 ひっくり返っては元も子もないので基本は安全運転なのである。
 ブレーキを踏むときはバックミラーを
 カーブではスローイン・ファーストアウトなどは
 レーステクニックだけではなくて、安全運転の基本だと思っている。
 二輪でも四輪でもアクセルを踏んでいる時が一番車は安定しているので、
 カーブでもアクセルが開けれるミッション選択が肝要だと言って、
 4輪の「ヒール・アンド・トウ」などのテクニックも教えてくれて出来るようになったので、
 東北6県の砂利道や雪道の走行では大いに役に立ったのである。
 
 お陰様で事故は一回も経験がない。


★ これはもう20年も前になるのだが、
 山本隆、60歳の頃に『60おじさん』と自ら称して
 ゼッケンも「60番」を付けて頑張ってた時代があったのだが、











 マシンに乗せると、その辺の若い人たちでは
 彼の敵ではないのである。
 こんな感じでずっとTOPが彼の定位置だったのである。






  これはまだ1周目だが、
  そのうちに60おじさん一人旅になってしまうのである。









★カワサキのライダーたちとは
 現役を卒業してからも長いお付き合いが続いて、
 これは私がシャッターを切ったのだが、
 私と山本が東京に行ったときに星野岡部と金子を連れてやってきたのである。
  これに金谷秀夫がいたら、私が一番関係のあったライダーたちだと言える。

  



 最近でもいろんなところで、山本隆や昔の仲間たちと会うのだが
 これも昨年11月 明石であった『Z40周年記念』の時の写真である。





  
 こうしてみると、現役時代は兎も角、
 みんな立派に成長されたものだと思う。


 今は、山本隆さん、私が立ち上げたNPO 法人・The Good Times の2代目理事長を務めてくれている。
 これはその事務局での私との2ショットなのだが、
 彼は私よりちょど10歳若いので
 最近、80歳を迎えられたようである。
 
 
    



  そんなこんなで、山本隆さん、私とは何となく約60年も密接に繋がっている。
  ひょっとしたら、私の人生でも山本隆が一番長いお付き合いかも知れない。
  
  彼、何歳の時に結婚したのだったかな?
  突然、やって来て『私に仲人を』と言うのである。
  私も結婚したばかりの頃で、30歳ちょっとだったと思うのだが、
  『どうしても』と仰るので、仲人を引き受けたのだが、
  多分、世の中にこんなに若い仲人などいないと思っている。

  そんな、ご縁があって
  山本隆さんとは特別な仲なのである。


 
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カワサキ単車の昔話  18     山本隆のこと 2

2023-09-09 07:43:19 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのレースチームに最初に契約をしたのは歳森康師なのだが、
 そのあとすぐに契約を結んだのが山本隆で、 それは1963年のことだと思う。
 当時の契約ライダーはカワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木の実クラブ歳森康師・山本隆の5人で
 主として地方の草レースに出場していたので、どこでも連戦連勝だった。
 私は当時広告宣伝課担当だったのでそのニュースを全国の販売店に流していたのだが、
 『兎に角、強いのだ』と思っていたのである。
 
 ところがMFJの第1回モトクロス日本グランプリ相馬が原で開催されたのは、
 その翌年の1964年の春だったのだが、他メーカーのファクトリーチームが集まる全日本では確か山本隆だったと思うが7位ぐらいに入ったのが最高で、最初の全日本は歯が立たなかったのである。

★カワサキが初めて全日本で優勝したのは、
 同じ年の春だが富士の裾野でMCFAJの全日本が開催されて、その時初めて山本隆がオープンで優勝したのである。
 当時のスズキの城北ライダースの久保和夫やヤマハのスポーツライダースの荒井市次など当時の第一人者の実力は群を抜いていて、
 なかなかそれに勝つことはムツカシカッタのである。

 その年の秋、東京オリンピックの開催された年だが、同じ時期に
 伊豆の丸の山高原で行なわれたMCFAJの全日本
 カワサキは4種目中3種目90cc三橋実オープンが梅津次郎
 そして日本選手権の250㏄に山本隆久保・荒井の両雄を抑えて
 見事優勝を飾ったのである

 その時の表彰式の写真だが
 TOPが山本隆、2位荒井市次、3位が久保和夫で、
 この表彰台の写真はなかなかカッコいい。
 山本隆も20歳ちょっとの頃である。



  

 
 一番右は梅津次郎で、この大会でカワサキのモトクロスの地位が確固たるものとなったのである。


★ 明けて1965年は年初から『山本・歳森のBS仮契約』問題から幕を開けるのだが、
 この年の5月に開催された鈴鹿サーキットのジュニア・ロードレース
 山本隆がどうしても出たいというのである。

 まだ会社ではモトクロスは認められていたが、ロードレースはまだ許可されていない頃だったのだが、
 山本隆は「自費で車を買ってでも出たい」と言うものだから。
 モトクロス職場の松尾勇さんに『ロードレーサーを造れるか』と聞いたら、
 「大丈夫」と言う返事なので、出てみるかと言うことになったのである。
 車は当時製造部にいた田崎雅元さん(後・川重社長)が都合してくれて、
 レースの費用は『鈴鹿のモトクロスに行った』ことにしようと言うことでスタートしたのである。
 順位などは誰も期待などしていなかったのである。

★ 当時北陸カワサキにいた内田道雄さんが山本はロードは初めてだからと、北陸のロードに経験のある塩本を貸してくれたので、
 2台のロードレーサーを準備して、
 松尾勇さん以下数人のメカニックを付けての出場だった。
 現場から来た連絡でもなかなかタイムが出ないというので、誰も期待などしていなかったのだが、
 レース当日は鈴鹿は雨になったのである。
 
 5月の連休で休んでいた自宅に現場の川合さんから
ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
 喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。
 その時代、電話もなくて、電報の時代なのである。

 それもホンダの神谷・鈴木が1,2位だったのだが、
 ずっと3位を走っていたBSの滋野の後を『スリップ・ストリーム』でついていって
 最終コーナーの下り坂のところで滋野をかわしての3位入賞だったのである。
 そのゴール寸前の写真でTOPを走っているのが山本隆である。


  



★ この話は『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』と言う題目で
 2009年11月にブログをアップしているが、
 カワサキが初めて鈴鹿を走ったのはこの日だったのである。

 会社には内緒で出たレースだったのだが、
 思わぬ3位入賞、それもホンダに次いでカワサキと言うことで、
 社内も盛り上がって、モトクロスだけでなくロードレースもやろうという機運になったのである。

 その翌月の6月に鈴鹿サーキットで初めての
 『アマチュア6時間耐久レース』が行われたのだが、
 このレースに3台のマシンを用意し 
 カワサキコンバット・神戸木の実社内のテストライダーチーム
が出場することになったのだが、
 山本隆は『ジュニア・ロードレース』に出場したので出場できないので、
 歳森康師が相棒として急遽呼んできたのがあの金谷秀夫なのである。

 
★ カワサキも山本も、なかなかの幸運を持っていると思う。
 モトクロスの青野ヶ原では走ったライダーはテストライダーなど素人ばかりだったのだが、
 結果の1位から6位まで独占の完全優勝も、
 当日は雨でいたるところに水溜りが出来て、みんなマシンが止まってしまった結果なのである。
 当日山本隆も自分のヤマハで出ていたらしいが、マシンが止まってしまったのだという。
 その山本隆が初めて走った鈴鹿だが、若し天候が良かったら
 多分3位入賞など考えられなかったと思う。
 いずれのレースも。雨がカワサキを援けてくれたのである。

 そんな結果なのだが、
 この山本隆の鈴鹿での入賞で、カワサキもレースに本格的に取り組むことになり、
 1か月後のアマチュア6時間耐久レースで初めてレース監督なるものが実現したのである。
 レース監督は後あのZの開発責任者となった大槻幸雄さん、
 助監督田崎雅元さん、レースマネージメントだったのである。

 そんなことで山本隆は『私がカワサキのロードレースの道を拓い』と大威張りなのだが、確かに間違いないのである。
 後、『ミスターカワサキ』と言われる山本隆だが
 若いころからそんな華を持っていたような気がする。


 
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カワサキ単車の昔話  17     山本隆のこと 1

2023-09-08 04:58:17 | カワサキ単車の昔話

★ 私がレースに関係したきっかけを作ってくれたのは実は山本隆なのである。
 なぜそんなことになったのかと言う経緯を『山本隆のこと』を書く第1弾としてお話してみたい。

 話は飛ぶが、日本で一番最初に本格的なロードレースが行われたのは、
 鈴鹿サーキットが出来た1962年11月なのだが、
 このレースの優勝者は250ccが三橋実・350ccが片山義美で、
 当時はいずれもヤマハの所属なのだが、
 後二人は三橋実がカワサキコンバット片山義美は神戸木の実クラブというレーシングチームを主宰したので、
 お二人ともカワサキとは密接な関係が出来たのである。

 その鈴鹿の第1回ロードレースをカワサキの製造部のメンバーが観に行って、モーターレースの素晴らしさに感動して
 翌年6月兵庫県の青野ヶ原で行われたモトクロスに出場したのだが、
 初出場ながら1位から6位までを独占するという完全優勝で、
 これがカワサキの二輪事業を本格的にスタートさせ、
 カワサキもレースチームを創るきっかけになったのである。

 この5人が一番最初にカワサキが契約したライダーなのだが、
 三橋実・岡部能夫・梅津次郎カワサキコンバットで、
 山本隆・歳森康師神戸木の実クラブ所属だったのである。


  




★ 私はその頃、新しく出来た広告宣伝課の担当で、
 青野ヶ原モトクロスも、その後のレース関係も担当分野ではあったのだが、
 直接の担当者は青野ヶ原モトクロスのチームマネージャーをやった川合寿一さんが担当していて、
 彼にすべてを任していたのでレースのことなど全く知らなかったのである。

 ところが1965年2月に突然山本隆と歳森康師の二人から辞表が出て、
 BSと仮契約をしたというのである。
 それがどのくらい重大なのかもよく解らなかったが、
 川合さんは『これは大変なこと』だから『止めねばならない』と言うのである。
 どうすればいいのかと聞くと、
 神戸木の実クラブ の片山義美に会って、二人がBSに行くのを止めるように頼んで欲しいというので、
 私はレースのことなど全く解らず、神戸木の実片山義美も全く知らなかったのだが、
 言われるままに片山義美に会って『山本・歳森のBS行き』を止めて欲しいと頼んだのである。
 こんなことだから、私がレース関係者と話したのは片山義美が初めてだったのである。
 片山義美がどれくらいの有名人なのかも全く知らぬままにお会いしたのである。

   
   
    

★それは1965年2月13日のことだった。
 片山義美に会って『山本・歳森のBS行き』を止めて欲しいと単純に頼んだのだが、
 片山義美カワサキのそれまでのレース運営についての問題点をいろいろと鋭く指摘して、
 こんなことを直さない限り、ライダーたちはカワサキに留まらないだろうと言うのである。
 言われてみると『尤もなこと』ばかりなのである。
 そんなことで『今後は私が直接担当して、ご指摘の点を直しましょう』と言ったら、
 それなら『山本・歳森』を呼んで直接言ってあげると言うことになって、


 2月20日に片山義美・兵庫メグロの西海義治 社長 山本隆・歳森康師と私の5人で会って、
 片山から「カワサキに残れ」と言う一言でこの問題は解決したのである。


★初めてレース界の方と話をしたのは片山義美さんなのだが、
 そんなこともあってその後片山さんとは何度もいろんなところでお会いをしたり、
彼の現役引退パーテーでも一番最初にご挨拶をしたのは
スズキでもマツダでもなくカワサキの私だったのである。

 こんな神戸木の実クラブの集まりにも、
 私を招待して頂いたりしたのである。

  
 


 カワサキのレースのOB会にも片山義美さんは来てくれて、
 真ん中に座っての記念撮影なのである。





 そんな片山義美を偲ぶ会に集まったメンバー、
 勿論、山本隆も星野一義もいる。







  ★そんなことから、私はその後レースの世界に関係することになったのだが、
 これは私にとっても『レース界に関係』したことが一生の財産となったのである。

 そういう意味では2月20日の会合が本当に大きかったのだが、
 この席には兵庫メグロの西海義治社長も同席されたのである。
 カワサキの製造部に鈴鹿のロードレース観戦のバスを仕立てたのも
 青野ヶ原のモトクロスを主催されたのも実は西海さんで、
 カワサキにレースをスタートさせた張本人は西海さんなのである。

 西海さんは元プロのオートレースのライダーで、
 この日西海さんをお呼びしたのは私ではなくて、
 片山義美さんがレース界の先輩として呼ばれたのだと思う。


   


 これはずっと後、兵庫県で開催された全日本モトクロスでの
 本田宗一郎さんと西海義治さんとのツーショットなのだが、
 本田宗一郎が「鈴鹿サーキット」をあの時造らなかったら、
 あのレースをカワサキの製造部が観戦しなかったら
 カワサキの二輪事業は今のようにはなっていなかったと思う。

 そう言う意味でカワサキの二輪事業にとってはこのお二人は恩人と言えると思う。


 カワサキのその後のレースには私も直接関わることになるのだが、
 そのきっかけを創ってくれたのは山本隆なのである。

  
  
   
山本隆のこと」の第1回はこんなことで、山本隆のことは少なかったが、
 これから何回かに分けて書いてみたい。
 私は今でも山本隆とは親交があるのでもう70年近いお付き合いなのである。

 因みに山本隆・星野一義・片山義美などと敬称抜きにしているのは有名人は通常敬称抜きで語られるもので、
 そう言う意味では山本隆・星野一義は有名人なのである。



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カワサキ単車の昔話  15     アメリカ視察団

2023-08-29 05:31:12 | カワサキ単車の昔話

★昭和47年(1972)1月のことだからもう50年も前の話だが、
 当時の日本の二輪市場はまだモペット全盛期で、
 ひとりカワサキだけが中大型車中心で『二輪専門の販売店』を創ろうとしていた時代である。
 そんなことで、カワサキは当時の販売店約100店に、
 まさに中大型市場であるアメリカの市場視察を行ったのである。
 
 私は大阪母店長時代であったが、視察団の団長役を仰せつかったのだが、
 まだ海外旅行など殆どない時代で、私も初めての海外だったし
 視察団全員が初めての海外旅行だったと思う。

 1月7日から1月15日までの9日間の日程だが、
 その当時の日記帳にどのように書いているのかその一部を紹介してみたい。

 
  
 


1月8日(土)
 愈々アメリカ視察団の出発日である。
 日付変更線を通過する関係で8日は実に長い。
 午後伊丹をたち羽田・東急ホテルで結団式、ジャンボジェットでシヤトルへ。
 シヤトル着は8日の朝、飛行機を乗り換えてロスへ。
 そしてショウを観に行き、夜はKMC主催の歓迎レセプションに出席、そのあとKMC浜脇社長とホテルのバーで懇談。
 宿舎はグランドホテル、
 長い1日がやっと終わった。

1月9日 (日)
 ロス近郊のサウンドバックパークと言うトレールランドを見学
 スケール大、素晴らしい自然の中にオートバイが一家のレジャーとして完全に沁みついている。
 6~7歳の子どもがコースを逆ハンで駆けているのには驚いた。
 親は殆ど子供に構わずに自由にさせている。
 午後デズニ―ランド見学、ユーモアたっぷり規模は大。

1月10日 (月)
 KMCを訪問。美しく広い。
 浜脇さん以下各マネージャーの部屋は日本の重役室並みの広さと美しさである。
 サービス工場の管理の良さは抜群。
 昼、KMCとの懇談会をグランドホテルで開催、午後市内のでーらー2軒を見学する。
 日本の販売店と規模が全然違う。ショールームの広さ、部品の豊富さ、ロス1000万人の市内にはバイク屋は約700店と言う。
 すべてが羨ましい。夜ナイトツアー。

1月11日 (火)
 ロスは1年で雨の日は10日ほどしかないという。毎朝霧が出るが10時ごろには綺麗な青空が広がる。
 市内観光でヨットハーバーを見学。街は非常に美しい。
 高級住宅は如何にもアメリカ的で開放的である。緑の芝生が手入れされて広々としている。
 街にはいたるところに星条旗が上がっている。国旗に対する敬意、アメリカの国家に対する帰属意識をそこに見た。
 夜サヨナラパーテイー。アメリカのデーラーを読んで開催。

1月12日 (水)
 飛行機でサンフランシスコに移動する。どこまでも続く大陸、実に広大である。
 サンフランシスコは第一印象は土地の狭さ。狭いと言ってもそれは比較の問題でロスに比べてのことである。
 2階建てが多く、家と家との間が狭いのはロスでは見られなかったことである。
 時間が遅れて、デーラーの正式訪問は1軒だけにして、6時ごろから希望者だけで2軒目を訪問する。
 東京組が大挙押しかける。この旅行で東京の販売店の質はまさに最高であった。

 この旅行には全国から約100店が参加したのだが、東京が50店その他全国から50店ということだったが、
 東京だけはすでに二輪専門店ばかりで各店とも遊覧気分が少なく、知識習得に熱心だった。
 他地区の店は多分に遊覧旅行気分だったように思う。
 私の担当してた大阪地区は丁度カワサキ協栄会を創った時期で、東京に次いで非常にまじめに新しいものを身に付けようとしていた。

1月13日 (木)
 サンフランシスコ2日目、1軒のデーラー訪問。
 そのあとは市内観光。ゴールデンブリッジ、美しい眺めである。
 その背景にある街とか民家が自然た絵になっている。
 アメリカ本土最後の夜、ナイトツアーに出掛ける。
 いま日本で流行語になっているポルノ。米国では映画も写真も本も公然と販売され上映されている。
 ものすごい世の中になったものである。

     

1月14日 (金)
 ホノルルに飛行機で飛ぶ。太平洋の真ん中に浮かぶ島ハワイ。
 空港から市内観光での印象は大したことはなかったが、ワイキキのホテル街と浜辺に来てみて
 流石に観光地の面目躍如たるものがある。
 景観も素晴らしいがそれ以上に雰囲気がいい。二人で遊び来るなら最高の場所だろう。
 お土産に清美に260ドルのオパールを買い、夜は本場ハワイのフラダンスを観に行く。

   
    
1月15日 (土)
 午前中、ハワイ買物などして午後の飛行機で羽田に向かう。
 ジャンボは我々の借り切りのようで他の客はほとんどいない
 僅か10日間のアメリカ旅行であったがいろいろなものを観たし、いろんな経験をした。
 それは今後の生活態度にそして考え方の中に生かされてゆくのだろう。
 東京に着いたらホッとした。そしてもう一度乗り換えて伊丹へ。
家へ帰る。本当にほっとした。落ち着くと言うのはこういうことを言うのだろう。

★ざっとこんな9日間のアメリカ市場見学視察団の旅程であった。
 まだこの時期に海外に出かける日本人など殆どいなかった時代で、
 ハワイのワイキキの浜辺も日本人など殆どいなかったし、
 そんなことで帰り飛行機も誰も日本人は乗っていないそんな時代の旅行だったのである。

 日記を読み返してみて、勿論覚えていることも多いのだが、
 完全に記憶に残っていない部分もある。
 この視察旅行で、カワサキの二輪販売店の意識は、相当に変わったと言っていい。
 当時大阪では全国に先駆けての『特約店制度の導入』を目論んでいたのだが、
 この視察旅行が後押しして、この年10月に正式スタートを切ることが出来たのである。
 そう言う意味でカワサキにとっても販売店にとっても私個人にも、
 大きな転機となった素晴らしいものだったと思っている。 


 


 


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