★私の約40年ちょっとの現役生活の中で、全体的にはちょっとハリのなかった2年間ほどがある。
1987年に単車と発動機が合併して、私は企画室から営業本部の方に異動した。
営業全体の統括なのでそんなに面白くない職務ではないのだが、経営次元の仕事ばかりをずっと担当していたので、何となく範囲が小さくなったなと思ってしまうのである。
営業の具体的なことなどは、担当の人たちで十分にこなせてしまうのである。私自身がやることは殆どない。これが普通の職制なのだろうが、そんなお神輿に乗ってってるような日本的な動きにはどうも性が合わなかったのである。
この2年間、私がやってたことは、『SPA 直入』 日本で初めてのユーザーのためのサーキット建設だったと言っていい。
カワサキの単車事業にとってもそれは画期的なことだったし、川崎重工業がサーキットを持つなど当然初めてのことだったのである。
SPA 直入物語
そんな2年間に亘るSPA直入物語は、こんな5つのブログに纏めてはいるのだが、
私の現役生活の中で、これは私と故岩崎茂樹でなかったら、他の方では絶対に実現しなかったプロジェクトであったと言い切っていい。
それだけに今でもなお SPA直入の懸ける想いはいっぱいなのである。
この一連のブログの最後 NO.5 ではこのように結んでいる。
SPA直入物語ー5
起工式から丁度1年後の1990年4月15日、SPA直入はオープンイベントで幕を開けた。
金谷、和田、清原、宗和などカワサキに関係したライダーたちが参加してくれてイベントを盛り上げてくれたが、主役は何といっても自分の愛車に乗って集まってくれたユーザーたちだった。
その数4000人。広いと思っていたパドックが埋まってしまった。
岩屋万一直入町長は開会セレモニーで、
「今日、有史以来一番大勢の人が直入町を訪れた。」と挨拶された。
愛車に乗って直入を訪れたユーザーたちが、その車でサーキットを体験走行したのである。
先導をつけたものではあったが、切れることなく続いた走行はまさに壮観であった。
これは日本で始めての試みであった。
これを機会に各地のサーキットでも一般ユーザーの走行会などが開催されるようになったのだが、その皮切りの役目をSPA直入は果たしたのである。
建設当初からレースだけでなく、
「一般の人たちも気軽に走れるサーキット」というコンセプトでイベント当日だけでなく、「インジョイライデング」などと称してその後も一般ライダーに開放する時間帯を設けたりしたのである。
地元直入町にもいろんな意味でお役に立てたと思う。
もともと、温泉で有名であったがSPA直入ができて若者も集まるようになり、温泉だけでなくモータースポーツのサーキットのある町というイメージも生まれた。
芹川ダムのジェットスキーもプラスになった。
特に、後年カワサキといろんなことで関わりのあった岩城滉一がジェットスキーで芹川ダムに、レーサーでSPA直入を好んで訪れるようになった。
今、人気の宿房「翡翠之荘」がスタートしたばかりの頃で,その主、首藤文彦さんとも仲良くなって岩城滉一の定宿となったのである。
SPA直入と時を同じくして建設されたオートポリスもご縁があって、今カワサキのサーキットになってKMJがマネージメントを担当している。
その責任者の渡部達也君は、直入とも深く関係があった。
機会があれば是非訪ねてみたい懐かしい思い出いっぱいの、今は竹田市直入町である。
渡部達也くん、今NPO The Good Times の副理事長で、且つKAWASAKI Z1 FAN CLUB の代表を務めてくれている渡部達也君なのである。
★ 大自然の囲まれて、日本で一番美しいサーキットだと思っている。
一般のライダーたちが安全に走れるように、そのコース設計には細心の注意を払った。スタート以来多分未だ一人の死者も出していない珍しいサーキットなのである。
これを創るきっかけはいろいろあったのだが、
私が一番強く思ったのは、当時レーサーレプリカ全盛で、メーカーは競って高性能の市販車を世に出すのだが、それを買ったユーザーたちが走る場所がないのである。
峠に集まったライダーたちは、『峠族』と呼ばれて、問題になったりした、当時のサーキットはレース仕様車以外の走行はどこも認めてはいなかった のである。
『一販のユーザーたちが自分の車で走れるサーキットを創ろう』 これが一番のコンセプトだったのである。
社内で、特にレースに関わっている人たちから反対があったりした。 タイヤの点検などレーサーまがいの厳しい基準を要求するのである。
今のまちを走ってる市販車はそんなに危険なモノなのか?
一方通行で、交差点もない、対向車もいない。
そんな環境を自分の車で走ることが危険だと言うならば、『バイクなど売るべきではない』などと、反対意見を半ば職位で押さえつけて、建設に掛ったのである。
故岩崎茂樹とたった二人で背丈ほどの草が生い茂るサーキットの候補地を1日がかりで歩きまわったのが思いだされる。
★川崎重工の中でこんなプロジェクトは初めてではあったが、
当時の大庭浩社長には、単車本部長時代の番頭役を務めて抜群の信頼があったので、経営会議でも直ぐ認可されたのである。
川重の財産課も、建設工事会社もサーキットなど初めての経験で、その仕様や勾配、カーブのアールなど皆目解らないサーキット素人集団を仕切ったのは、
故岩崎茂樹の独学の賜物なのである。
SPA直入の名付け親も岩崎茂樹である。
直入町は温泉町だから、SPAには温泉と言うことも当然含まれてはいるのだが、
ベルギーにある世界的なサーキット スパファランコルシャン の SPAと掛けて名づけられているのである。
そんなサーキットが出来て、もう25年が経とうとしている。
★そして、これは昨日Facebook にアップされた、10月27日の3時間耐久の案内サイトである。
懐かしくて、以下のようにシェアさせて頂いたのである。
私の想い出の地です。
当初のコンセプト通りの運営になっています。
みんなのサーキットです。
そんなことで、カワサキ単車物語50年 その21は SPA 直入のことを書いている。
ちょうど25年も前の話なのである。
故岩崎茂樹のことを書いたら、今ずっとお付き合いのある登山道夫さんに繋がった。
SPA直入の運営を担当する遊びの会社 ソフト会社 株)ケイ・スポーツ・システムを立ち上げた。
そして、ユーザークラブKAZEが出来た。
そして、現在のNPO The Good Times はその延長線上にある。
そんな原点になったのが SPA 直入なのである。
★★English Version です。
★NPO The Good Times のホ―ムページです。
★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。