雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人生83年、今まで住んでたところ

2016-05-11 06:40:46 | 自分史

★ 『住めば都』と言うけれど、人は一生のうち、住む場所を幾つぐらい変わるのだろう。

83年生きてきて数えてみたら12ヶ所に住んだことになっている。

 

昨晩ふとんの中で、ふと思って数えてみたら12ヶ所だった。

忘れぬうちにその12ヶ所の記録とその感想をブログに残しておこうと、朝からチェックしたりしている。

12ヶ所は多いのかも知れぬが、人生の半分40代前半までに、10回も住所が変わったのは多分多いに違いない。そのあと40数年をこの三木緑が丘で過ごしている。

 

 

●1. 生まれたのは、兵庫県明石市上ノ丸2丁目720番地

今はそんな番地はない。 幾つもの住宅に分割されてそれぞれの番地になっている。

 

 この写真には私の知らない祖父も写っているし、戦時中の爆撃で亡くなった叔母も写っている祖父一家

伯父も父も早稲田の学生のころだから大正の終わり頃のことかも知れない。

ここで生まれたのだが、物心つかぬうちに朝鮮太田市に移っている。

 

 

●2. 朝鮮太田市

ここに祖父がつくった太田電力があってそこの社宅に6歳ぐらいまでいたと思う。

私の人生川の中から始まった?』というブログを書いたりしている。

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/0eb1fe9ca92e259185492739fdc97367

 

 

3. 朝鮮京城  桜ケ丘

 朝鮮の電力会社が国の方針で統合されて『南鮮合同電力』という会社になるのだが、その本社のある京城に移ったのだと思う。

城東区新堂町桜ケ丘というまちに新しく家を建てて住むことになった。

桜ケ丘の家に移ってすぐ小学校に入学し、終戦の昭和20年、12歳のころまでここで過ごした

当時の写真などは、みんな持って帰れずに1枚も残っていない。

 

 

これが少々変わってしまっているがその家である

 

ソウルオリンピック』の時に『オリンピック委員会』からハンガン(漢江)でジェットスキーのデモンストレーションを頼まれてカワサキのチームの責任者でソウルに行ったときに見つけてきたのである。

その時、JJSBAの会長をされていた苧野豊秋さんとご一緒している写真である。

 

             

 

 家を探すのにタクシーに乗って、最初は小学校を見つけて、そこから辿っていったのだが、その通っていた桜ケ丘国民学校である。

     

 

 

● .伊川谷の疎開の借家

終戦の年、昭和20年12月8日に引き揚げてきた

明石のまちも、上ノ丸の伯父の家も空襲で焼失していて、今は神戸市になっている昔の伊川谷』の疎開して借りていた家に伯父一家とそれから1年半ほど住んでいた。

そこから半年ほどは灘の神戸一中まで毎日通っていた。明石駅までも灘から学校までも勿論徒歩だった。今思うとよく通えたものである。

 

 

 5.上ノ丸

上ノ丸に伯父が家を建てて、そこに1年ほど一緒に住んだ。

戦後にしては京都の宮大工が来て、ホントに一人で建てた家だったが、使ってた材料や間取りも立派だった。

多分後に増築するつもりだったのだろう。 玄関がなかったりしたし、風呂は昔の儘を使ったので風呂場が8畳ほどあったりしたおかしな家だった。 松の1枚板の1間の廊下が伯父の自慢だったりした。

結局、増築など出来ないまま伯父はなくなってしまった。私の大学3回生のころである。

 

 

6.上ノ丸の敷地内

そのあとすぐ、上ノ丸の敷地内に父が家を建てて住むことになった

小さな一軒家だったが、その家で、中学、高校、大学時代そして勤めたのちも、結婚するまでそこで暮らしたのである

父は私の高校3年生の1月に亡くなってしまったので、治療費も要らなくなるからと、大学受験に踏み切ったのである。父は私のために1月2日に死んでしまったのかも知れない。もう少し生きていたら私はそのまま就職する筈だったのである。

 

 

7. 上ノ丸の新築のアパート 

結婚して、すぐ近くの 上ノ丸の新築のアパート を借りて住んだ

所謂、戦後のアパートだが、その家主さんはかっての伯父の土地の小作さんで、農地解放で得た土地にアパートを建てたりしていたのである。 そんなアパートで2年ほどの新婚生活だった。その間に、長男、長女続いて生まれた。

 

 

● 8.会社の社宅

安月給で生活が苦しくて、申し込んでいた会社の社宅が借りられることになって、当時の川崎航空機のすぐ東側にあった鉄筋3階建ての社宅に移った。

ちょうどカワサキが二輪事業を始めて、私は広告宣伝やレースを担当していた時期である。

この歳までは住む家が、歳とともにだんだん小さくなる、そんな状況だったのだが・・・

 

 

9.仙台旭町

昭和42年(1967年)に、突如 仙台事務所を創れ という指示で、初めての仙台転勤となったのである。

仙台事務所など名前はあったが、事務所も、従業員も全く何もない まさに単身赴任で、仙台ということで家賃は安かったので、一軒家の新築を借りたのである。3部屋と台所があったりして、突如、庭付きの、自分で運転だが社用車付きの生活になったのである。

今は町名も変わってしまったが、当時の町名は旭町、仙台球場のすぐ近くである

ここで4年間過ごした。 

 

 

 

10.高槻の芥川

昭和45年(1970)大阪万博の年、ようやく実用車のカワサキから中大型車スポーツのカワサキに変わるころで、その年末に大阪の所長として2度目の異動、住所を高槻の芥川のすぐ横に移ったのである。

ここで昭和48年1月(1973)今の三木市緑が丘に転入するまでの3年間過ごしたことになる。長男は小学生、長女は幼稚園の頃である。

 

 

11.三木緑が丘

そして 三木緑が丘の住人になるのだが、ここに住むようになる経緯がまた普通ではないのである

仙台時代、明石に出張で戻ったときに、かって印刷屋で、広告宣伝時代に付き合ってた田中さんという人がダイワハウスの営業になっていて、『三木緑が丘に新しく土地を造成するので買ってくれ』と突如仰るのである。

そんな金などないと言ったら当時の総務部長の西さんが会社で貸してやるというので、出張中に観に行ったが、まだ造成中でよく解らなかったが騙したりはしないだろう』と土地だけは買うことに決めたのである。

そんな事情もあって、会社側も東京、名古屋、大阪を管轄する直営部を創ってくれて、明石勤務とし家を建てることが出来る様に計らって頂いたようなところがあったのである。

 

12. 札幌

それから約40数年、三木緑が丘にいるのだが、会社での最後の2年間を北海道札幌の関係会社の北海道川重建機の社長を頼まれて、2年間だけ札幌で単身赴任をしたのだが、この時は流石札幌で、めちゃくちゃ立派な食事つきの支店長や社長さんばかりが単身赴任しているホテルのような立派な設備の単身寮に住まわせて頂いたのである。

北海道の各地に10以上もの支店があってそこを回るだけでも、北海道旅行をしているような環境で、お蔭様で北海道は殆ど知っていると言っていい。

 

 

★振り返ってみると、いい経験もさせて貰ったし、いろんなところに住むことが出来てよかったと思っている。

そして一番気に入っているのは、いま住んでいる 三木市緑が丘の家である。

 

  

 

  

 

  

 

 三木と言う環境もいいし、庭の広さも一人で庭いじりをするにはちょうどいい。

40年住むと、40年付き合ってくれている庭木もあるが、半分ぐらいは枯らしてしまって、そのあとを勝手にバラや苗木を買ってきて育てているのである。

5月は、一番忙しいが一番ハリのある季節なのである。

もう緑が丘から動くことはないと思っているのだが13番目が出てくるのかどうか?

神のみぞ知るなのである。

コメント
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