雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私 その36 昭和40年(1965)

2017-01-19 07:01:02 | 自分史

★昭和40年(1965)はカワサキの二輪事業にとって、本格的なスタートを切った年だと言い切っていいと思う。

その中心が当時の川崎航空機工業の岩城良三常務で、自ら単車事業本部長となりカワサキ自販の社長を兼務されたのである。時あたかも濱脇洋二さんが、アメリカ市場開拓をスタートされた年でもあった。

下の写真は、真ん中におられるのが岩城良三さん、その左が浜脇洋二さん、そしてマセック、一番左はアメリカ市場開拓に最初から参加された Fred Suginuma 杉沼浩さんである。(後年MFJの常務理事などされたし、Facebookもおやりだからトモダチの方もおられるかも知れない。)

  

    

 

 カワサキの二輪事業は、岩城本部長が国内並びに新しい市場アメリカでTOPとして旗を振る姿勢を明確に示されたのである。

隣国の兵は大なり、その武器は豊なり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず』で始まる岩城さんの訓示は迫力に満ち溢れたものだった。

単なる組織人事を行っただけではなくて、実質的な経営展開を川崎航空機が行う決意の表れとして、販売促進部門のメンバーのカワサキ自販への出向を決められて、私もカワサキ自販の広告宣伝課長を任命されることになったのである。 まだ川航では係長にもなっていないのに平社員から一挙に課長という職位を頂くことになったのである。

従来のカワサキ自動車販売という社名から『カワサキオートバイ販売』へ、岩城社長自らの提案で社名変更がなされたのである。

 

 ★40年会社勤めをして私は上司に怒られた経験が殆どない。

唯一怒られた方が岩城良三さんである。係長にもなっていない若手を子会社とはいえ『課長に抜擢』して頂いたが、非常に厳しかったのである。当時の億の単位の広告宣伝費は、間違いなく大きな額であったし、広告宣伝そのものが会社でも経験のない分野で大変だったのである。

広告宣伝費の報告はお前が直接俺のところに来い』ということになって毎回、岩城常務に直接報告をすることになったのである。

当時は、アメリカの浜脇さんがアメリカ市場をどんどん拡張していろんなことをどんどんおやりになるのである。そんなこともあってアメリカの予算がちょっと超過してしまうことがあったのだが、その報告に行ったときに突然雷が落ちたのである。

『今期の予算の決定は俺とお前の二人でコレでやると決めた。伊達や酔狂で古谷の印を押しているのか。輸出部がどうのとかの言い訳は俺は許さん。岩城に任されて開発費を見る以上、最後まで責任を持て!』『オコラレテ非常に気持ちがよかった。会社に入って怒られたのは初めてである。』

これはこの年の6月18日の日記にそう書いている。

 

   

 

  広告宣伝課のあと、岩城さん自らの東北出張で地元の代理店社長たちのの要請に応えて新しく『仙台事務所』を創ることになり私は赴任することになるのだが、その時岩城さんはわざわざ私の机のところまでこられて『ご苦労だが、頼むぞ』と仰ったのである。

会社の上司で、一番印象に残っている岩城良三さんである。

 

★この年のことを書くためにこの年の日記は全部読み直してみた。いろいろとあった年である。

● 2月には、川崎航空機として初めて新聞の全ページ広告を打っている。『実用車のカワサキ』時代で主力市場は東北や九州など、田舎ばかりで、東京・名古屋・大阪などは要らないというのである。普通は朝日・読売などに広告を打って地方紙の幾つかで補うのが通例なのだが、全国紙は止めて40紙もある地方紙ばかりに広告を打つという、広告業界ではあり得ないことをやったりしている。

● 3月にはその地方紙を含め新聞社50社を集めての明石工場見学をやっている。この時も岩城常務が先頭で纏めて頂いたのである。

● レース関係では2月に事件が起こった。山本隆・歳森康師の二人がBSに移籍すると仮契約を結んだと言うのである。この問題対策に引っ張り込まれて、初めてライダーと直接話をすることになり、神戸木の実の片山義美さんといろいろと話をしたのである。ライダーたちの言い分も尤もなことも多くて、今後『私が直接ライダー関係を見る』という条件で、山本・歳森には西海・片山さんのお二人が『カワサキに残れ』と言って頂いたのである。そんな事件が直接のレース関係を担当するきっかけなのである。

● そしてこの移籍問題の中でも、山本隆のロードレースへの参加希望があって、5月3日に行われた『鈴鹿ジュニアロードレース』への出場を決めて出場したのである。

詳しくは以前にアップした『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8356d318b5dc414c15dd1b7488a09f63 をご覧ください。 

そのレースで、山本隆はホンダに次いで3位に入賞し、カワサキ内に一気にロードレース熱が燃え上がるのである。

● そしてその1ヶ月後の6月に、カワサキで初めて『鈴鹿アマチュア6時間耐久レース』に3チームが出場することになるのである。この時カワサキで初めてレース監督なるものが登場し『大槻幸雄監督・田崎雅元副監督』でレースに臨んだのである。

山本隆くんが前月の『ジュニア・ロードレース』に出場して『アマチュア』の資格がないので、歳森康師がパートナーに連れてきたのが『金谷秀夫』なのである。金谷のカワサキでの初めてのレースは、契約など何もなくて、こんな形で始まったのである。

出場したライダーたちの殆どがモトクロスライダーで転倒が多く、3時間あたりでは『加藤・飯原』のテストライダー組がトップを走っていたのだが、これも転倒で結局誰も入賞もしなかったが、カワサキの正規のロードレース第1戦である。

● モトクロスで特筆すべきは、前年度末和歌山で初めて走った星野一義が『ノービス』として春からデビューし、MFJの日本グランプリではぶっちぎっていたのだが、パンクで優勝を逃したが、MCFAJの全日本では見事90ccで優勝を果たしている。

この年スズキの「吉村太一」もデビューして、星野・吉村はどのレースでもトップを競い合ったのである。星野一義18歳で『太一ちゃん』も確か、同い年でその当時から親しくさせて頂いているのである。

● 当時はレースの世界では、まだMCFAJが主流みたいなところもあって、その事務局長をしていた、西山秀一さんには、カワサキはホントにいろいろお世話になったのである。

 

 

 

カワサキ関係者も、レースなど素人ばかりで、『レース界』のことなどいろいろ教えて頂いたのである。

Facebook で繋がってる Toshiki Nishiyamaさんは、https://www.facebook.com/toshiki.nishiyama.355 その息子さんだが当時はまだ中学生か高校生でカワサキのB8Mなど乗っておられたのではなかったか?

兎に角、二輪に関しては、みんな素人ばかりで、そんなに詳しい人などホントに少なかった時代なのである。

 ● MFJも組織が立ち上がって運営委員会なども出来たのだが、ホンダ前川さん、スズキ岡野さん、ヤマハ内藤さんなどは部長クラスの方だったのだが、カワサキは私、BSはさらに若い西川さんという構成で運営されていたのである。

この年7月31日には鈴鹿サーキットで『24時間耐久レース』が開催され、私はMFJの運営委員として現場にいたのである。27台が出場したが、その殆どがホンダで、ホンダのお祭りのような大会だったのである。夕方5時にスタートして夜を徹して走り、翌日の5時までの24時間、開会式の時に『走る距離は、鈴鹿から香港ぐらいまでの距離を走ります』という紹介をびっくりしながら聞いていたのを思いだすのである。

 ●カワサキもレースでは、ようやくGPレーサーの開発にも着手し、当時の山田熙明技術部長の下、大槻・渡辺さんなどが担当され、鈴鹿で安良岡・三橋・などがテストランを繰り返していた。まだまだ開発初期で125ccレーサーが鈴鹿で2分50秒が切れなかったそんな時代なのである。 神戸木の実の総帥、片山義美さんなども個人的にいろいろ提言してくれていた時期であった。

 

★昭和40年は、そんな年だったが、特筆すべきはアメリカ市場進出なのである。

レースチームからは田崎雅元さんが8月からアメリカに行くことになった。その時点では浜脇洋二さんの下に日本人ではトーハツから来た杉沼さん、財務担当の私と同期の久保勝平さん、浜脇さんの企画にいた渡辺くんに 田崎さんが加わったぐらいだったのではなかろうか。 杉沼さんを除いては英語も喋れないし、素人軍団だがよく頑張ったものである。田崎さんは日本でもバイク通勤していて、『W1でアメリカのハイウエイを始めて走った日本人』というのが自慢なのである。

カワサキは、ホンダ・スズキ・ヤマハのような二輪のプロがいなかったので、アメリカ人の二輪に詳しい人を経営トップ陣に据えるという『現地主義』を浜脇さんが採られたので、二輪に詳しい優秀なアメリカ人が集まり、W1以降のA1・H1・さらにはZ1と続く商品開発でもその主流がアメリカ人であったことが、カワサキのユニークな当時のスタイリングなどに繋がったのだと思っている。

ただ、エンジンに関しては航空機のエンジンをやりたいという本格的な『エンジニア』がいっぱいいたので、当時のカワサキのエンジンに関しては『相当な水準』だったのだろうと私は思っているのである。

このアメリカ市場の成功が、『カワサキの二輪事業』の成功に繋がっていったのは間違いない事実であり、昭和40年はそのスタートの1年目だったのだと思っている。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 

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