おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

続 敦賀紀行

2015年08月30日 | その他

 敦賀紀行 02

    色が浜と水島

〇 敦賀コミュニチィバス、敦賀駅12時50分発、「立石」行きに乗り込む。
  「立石」はの字になった敦賀の右側陸地の先端にある。
  原子力発電所で有名だ。

  敦賀駅と立石の中間ほどに目的地の「色の浜」はある。バス所要時間32分。
  バスが通れるような道路は原発建設を期に作られたのではなかろうかと思う。
  地名があり集落があるのだから通行できる道は昔からあったものとは思うが、
  車が行きかう舗装道路ができたのは古くはないことのはずだ。

〇 西行に「色の浜」の地名入りの歌がある。


 しほそむるますをのこ貝ひろふとて色の濱とはいふにやあるらむ
            (岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1194番・
           西行上人集追而加書・夫木抄)

 
 後年、芭蕉が「色の浜」に行ったことが「おくのほそ道」にも記されている


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16日、空晴れたれば、ますほの小貝拾はんと、種(いろ)の浜に
舟を走す。海上七里あり。
天屋何某といふ者、破籠・さざえなどこまやかにしたためさせ、僕あまた舟に
とり乗せて、追ひ風、時の間に吹き着きぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、
侘しき法華寺あり。
ここに茶を飲み、酒を暖めて、夕暮れの寂しさ、感に堪えたり。

寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋

波の間や小貝にまじる萩の塵

その日のあらまし、等裁に筆をとらせて寺に残す。

             (おくのほそ道)から抜粋。

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西行は「色の浜」に行ったかどうかは分からない。私の感じでは行ってはいないと思う。
芭蕉は記述しているように行っているはずだ。「おくのほそ道」はかなり創作を交えているのだが、
上記の具体的な記述からも真実であろうと思う。
「海上七里」は遠いかと思うが、感覚的にはそんなものだろう。
「侘しき法華寺」は「本隆寺」として現在も残っていて、芭蕉関連の古書があるようだ。

「色の浜」は民家数30軒に満たないほどの集落。山が落ちて、そのまま海に通じている
地形で、浜と呼べるほどのものは現在もなく、以前にもなかっただろうと思わせる。
尚、句碑の「桃青」は芭蕉の別号。















〇 ほぼ定刻にバスは「色の浜」着。帰りのバスが18時20分「色の浜」発。
  それまで時間が有り余るので、沖合の「水島」に渡船で渡る。
  約5分ほどの時間。往復で1200円。

〇 水島は海水浴場として有名らしく、他府県ナンバーの車を見かける。
  島では海水浴客も100人近くはいたかも知れない。娘さんたちも多くて、
  カメラを持っているのが何だか罪なような気がしてレンズを人物には向けない。

〇 センニンソウ・スナビキソウ・トベラ・浜千鳥などの写真を撮り、小貝を拾う。















〇 18時20分発のバスで敦賀駅に戻る。19時15分発のサンダーバード乗車。途中、雨のため徐行運転。
  30分の延着。帰宅は21時前。

〇 金ケ崎・気比神宮・色の浜が目的の敦賀行きだったが、まずまずか・・・。
  「気比の松原」に行けなかったのが残念ではあるが、これで良しとしょう。2015/08/30記

  

敦賀紀行 

2015年08月30日 | その他

敦賀紀行 01

 金崎宮と気比神宮

2015年08月28日(金)

 京都駅→敦賀駅→金崎宮→気比神宮→敦賀駅→色の浜→水島→敦賀駅→京都

〇 8月30日を予定していたのだが、ネットの天気予報を見ると、
  30日は「雷雨」とある。そこで急遽予定を変更して28日に行く。

〇 京都駅8時41分発の「サンダーバード」乗車。9時36分着。
  駅の観光案内所でレンタサイクルを借りる。4時間600円。

〇 まず初めに敦賀湾に行く。潮の匂いが良い。天気が良くて海の青と空の青が
  きれいだ。敦賀湾は左右の陸地も長く、意外と大きい湾である。
  数人の釣り人が釣りをしているのを見たり、写真を撮ったりして20分ほどを費やす。









〇 次に近くの金崎宮と金崎古戦場跡に行く。
  金崎宮は敦賀湾の海に向かって右手の100メートルほどの高さの山の麓にある。
  参拝者は私だけである。
  金崎宮から、金ケ崎古戦場跡に登る。登りきると敦賀湾が一望のもとに見渡せる。

  かつて、ここに「金ケ崎城」があった。
  1336年、南北朝時代が始まる。後に奈良県吉野に移る後醍醐帝の南朝に与していた
  新田義貞は後醍醐帝の尊良親王・恒良親王とともにこの城にあった。
  1337年3月、北朝足利勢の攻撃を受けて奮戦するも落城。兵糧攻めにあって、
  悲惨な状況であったらしい。義貞は援軍を乞うべく城を出た隙に総攻撃を
  受けたようである。義貞の嫡男義顕・尊良親王自刃。
  恒良親王は捉えられて後に毒殺されたという。享年14歳。
  それが、金ケ崎の戦いのあらましである。
  義貞も次の年の1337年7月、あっけなく死亡する。38歳ともいう。

  山も低く防御には適していなかったものだろうと思わせる。山頂付近に大規模な建物を
  立てるだけの土地も乏しい。だから城というよりは簡単な出城、陣地というほどの規模で
  あったものと思う。
  金崎宮には今もヤマブキが咲いていた。  












  尊氏と名声を二分していた義貞も40歳にも満たない年に落命。後醍醐の皇子たちの多くも薄命。
  乱世の世は悲惨な話に満ち充ちている。

〇 金ケ崎から「気比神宮」に行く。朱塗りの鳥居が美しい。しかし残念ながら一部が剥落
  しかかっていて、鮮やかさに欠ける。
  この神宮も古事記に記載があるほどの古い神宮。義貞とも関係が深いらしい。






〇 12時50分のバスに乗る時間が迫っていて、気比神宮はざっと見て回っただけである。
  「気比の松原」にも行く時間がない。敦賀駅に戻って自転車を返却し、バスに乗り込む。

  次に続きます。