駿河紀行 03
10月12日 由比駅から清水駅まで 天気 晴れ
「東田子の浦駅」でJRに乗車して、下車は「由比駅」。
これから東海道を歩いて清水駅に近いホテルに戻ります。
「由比駅」を出ると、すぐ前が東海道。でも東海道は標識が少ないのか
コースに不安を覚えます。案の定、あとで道を間違えました。
数年前に中山道を「関が原」から彦根を少し超えた「高宮宿」まで歩きましたが、
随所に中山道の標識があって助かりました。それから見たら東海道は、旅人に
不親切のようにも思います。
ともあれ、由井宿では由井正雪の生家である「正雪紺屋」にも行かないで、
進路を西に取り、薩埵峠に向かいます。
薩埵峠は鈴鹿、箱根と並ぶ東海道の難所。でもゆるやかな登りです。
峠を登りきった所に休憩所などが作られていますが、そこまでは難所らしい
難所はありません。海に落ち込む山を無理やりに切り開いて道を通したものでしょう。
平安期にできた「延喜式」では東海道などの道路幅は決められていますが、
道は車がすれ違えないほどの隘路。規則通りの幅の道は作られなかったものでしょう。
山の中のこんな細い道を、よくも軍勢を通したものだと思います。
これまでに勾配を緩くするなどの工事は行われたかも知れません。
でも農業用道路として使われていて一般車道としての役割はありませんから、
道幅を拡幅する必要はなかったものと思います。
画像は由井駅を出た所。薩た峠の登り口。薩埵峠標識。
登りきって休憩所で小休止。眼を南に転じれば駿河湾。青い海。そして海の上の
高速道路。東を見れば東海道の名所を描いた安藤広重の「由井薩埵峠」に近い
光景が広がっています。冠雪量も違いはしますが、良く似ています。
不思議と、この峠を詠みこんだ西行歌はない。
峠から進路を西に取り「興津」の街に向かいます。峠からのこの道が難所らしい道で勾配は急です。
東に向かう時には厳しいものだったでしょう。
小夜の中山の峠から金谷宿に向かう勾配の強さと匹敵します。なるほど・・・と思いました。
坂を下りきって興津川を渡り街に入りましたが順路が分からず、仕方ないのでひたすらに
西方向を目指して歩く。
画像は興津川。
しばらく歩くと「清見寺」にたどり着く。昔、この地に関があった時に建てられたお寺で、
由緒ある古刹中の古刹だ。680年頃の創建である。
「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海まで釘貫したり。
けぶり合ふにやあらむ、清見が関の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし」
(更級日記から抜粋」
1 清見潟おきの岩こすしら波に光をかはす秋の夜の月
(岩波文庫山家集秋歌・新潮版・西行上人集・山家心中集・宮河歌合他)
2 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
(岩波文庫山家集秋歌・新潮版・続拾遺集・玄玉集)
藤原孝標女ももちろんのこと、西行もこの清見寺を見て東海道を通り過ぎました。
堂々としたお寺のように思います。そのたたずまいに好ましいものを感じました。
なんと、総門の内側にJRの線路が敷かれています。
この清見寺の沖合から西にかけてが月の名所として知られる「清見潟」。
でも現在は埋め立てもされ、構造物ばかりで「潟」とは呼べず、往古の
自然の姿をただ想像するばかりです。清見寺と五百羅漢像。
清見寺から海に出て、さまざまなことを思いながらしばらく海を眺めていました。
下は「清見潟」が広がっていたあたり、最後は清水港です。
この日だけで3万歩近く歩きました。多少の疲れを覚えました。
翌日は久能山。04に続きます。
10月12日 由比駅から清水駅まで 天気 晴れ
「東田子の浦駅」でJRに乗車して、下車は「由比駅」。
これから東海道を歩いて清水駅に近いホテルに戻ります。
「由比駅」を出ると、すぐ前が東海道。でも東海道は標識が少ないのか
コースに不安を覚えます。案の定、あとで道を間違えました。
数年前に中山道を「関が原」から彦根を少し超えた「高宮宿」まで歩きましたが、
随所に中山道の標識があって助かりました。それから見たら東海道は、旅人に
不親切のようにも思います。
ともあれ、由井宿では由井正雪の生家である「正雪紺屋」にも行かないで、
進路を西に取り、薩埵峠に向かいます。
薩埵峠は鈴鹿、箱根と並ぶ東海道の難所。でもゆるやかな登りです。
峠を登りきった所に休憩所などが作られていますが、そこまでは難所らしい
難所はありません。海に落ち込む山を無理やりに切り開いて道を通したものでしょう。
平安期にできた「延喜式」では東海道などの道路幅は決められていますが、
道は車がすれ違えないほどの隘路。規則通りの幅の道は作られなかったものでしょう。
山の中のこんな細い道を、よくも軍勢を通したものだと思います。
これまでに勾配を緩くするなどの工事は行われたかも知れません。
でも農業用道路として使われていて一般車道としての役割はありませんから、
道幅を拡幅する必要はなかったものと思います。
画像は由井駅を出た所。薩た峠の登り口。薩埵峠標識。
登りきって休憩所で小休止。眼を南に転じれば駿河湾。青い海。そして海の上の
高速道路。東を見れば東海道の名所を描いた安藤広重の「由井薩埵峠」に近い
光景が広がっています。冠雪量も違いはしますが、良く似ています。
不思議と、この峠を詠みこんだ西行歌はない。
峠から進路を西に取り「興津」の街に向かいます。峠からのこの道が難所らしい道で勾配は急です。
東に向かう時には厳しいものだったでしょう。
小夜の中山の峠から金谷宿に向かう勾配の強さと匹敵します。なるほど・・・と思いました。
坂を下りきって興津川を渡り街に入りましたが順路が分からず、仕方ないのでひたすらに
西方向を目指して歩く。
画像は興津川。
しばらく歩くと「清見寺」にたどり着く。昔、この地に関があった時に建てられたお寺で、
由緒ある古刹中の古刹だ。680年頃の創建である。
「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海まで釘貫したり。
けぶり合ふにやあらむ、清見が関の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし」
(更級日記から抜粋」
1 清見潟おきの岩こすしら波に光をかはす秋の夜の月
(岩波文庫山家集秋歌・新潮版・西行上人集・山家心中集・宮河歌合他)
2 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
(岩波文庫山家集秋歌・新潮版・続拾遺集・玄玉集)
藤原孝標女ももちろんのこと、西行もこの清見寺を見て東海道を通り過ぎました。
堂々としたお寺のように思います。そのたたずまいに好ましいものを感じました。
なんと、総門の内側にJRの線路が敷かれています。
この清見寺の沖合から西にかけてが月の名所として知られる「清見潟」。
でも現在は埋め立てもされ、構造物ばかりで「潟」とは呼べず、往古の
自然の姿をただ想像するばかりです。清見寺と五百羅漢像。
清見寺から海に出て、さまざまなことを思いながらしばらく海を眺めていました。
下は「清見潟」が広がっていたあたり、最後は清水港です。
この日だけで3万歩近く歩きました。多少の疲れを覚えました。
翌日は久能山。04に続きます。
きれいな景が続いていて、楽しませていただきました。
年よりの冷や水ではあるのですが、思い立った時にやらないとできなくなりますから、行ってきました。
まずまず納得できる旅でした。