長岡京大極殿跡・石塔寺・乙訓寺
長岡京は第50代桓武天皇によって作られた都です。桓武天皇は仏教勢力が
強くなったことや、旧弊に縛られていることを嫌って、奈良の平城京から
長岡京に遷都しました。784年のことです。
これには桓武帝の母である高野新笠の出自も関係してのものでしょう。
桓武帝の母は半島の百済からこの国に亡命してきた人の末裔です。長岡に勢力を
扶植していたようで、母方の力を頼みにもしたものでしょう。
ところが新京では様々な苦難がありました。新京を造営する監督官とも言うべき
藤原種継も島坂「今の石塔寺沿いの坂道」で暗殺されました。
まがりなりにも親政が成功した桓武ですが、しかし皇太子の安殿親王の病気、
母の高野新笠や皇后の死、疫病の流行などが続いて、桓武はまたしても遷都します。
結局、長岡京は10年間という短い期間だけの都でした。
新しい都は平安京と名付けられました。
「長岡京大極殿跡」
中山修一先生を中心とした昭和29年からの発掘調査によって、長岡京の
ほぼ全容が解明されました。大極殿跡は向日神社から東に200メートルほどの
ところにあり、現在は公園となっています。
「石塔寺」
向日神社から100メートルほど南寄り(長岡京市寄り)に石塔寺があります。
石塔寺の前の緩やかな坂を「島坂」といい、この付近で藤原種継は暗殺されました。
犯人は不明ということでしたが、皇太子の早良親王が疑われ、親王は乙訓寺に
幽閉されました。当時はまだ石塔寺はここにはありませんでした。
乙訓寺も私にはなじんでいたお寺だったと思います。ただ、光明寺や向日神社の
ように遊び場であったとはいえません。
かすかな記憶を手繰り寄せれば、乙訓寺は40年から45年前は随分と
荒れていたお寺だったと思います。この間に本堂の修理、瓦の葺き替えを
したものでしょう。ボタンで有名なお寺ですが、
当時は何もなかったはずです。
ここに幽閉された早良親王は絶食して無実を主張したようですが、結局は
淡路島に配流となります。しかし体力の衰えていた親王は山崎の港から
淡路島に護送される途中に死亡しました。毒殺説があります。
以後、長岡京では疫病の流行などがあり、次第に早良親王のたたりという
ことが言われるようになりました。
早良親王の霊を鎮めるために、朝廷は800年に「崇道天皇」の諡号を
贈りました。
長岡京は第50代桓武天皇によって作られた都です。桓武天皇は仏教勢力が
強くなったことや、旧弊に縛られていることを嫌って、奈良の平城京から
長岡京に遷都しました。784年のことです。
これには桓武帝の母である高野新笠の出自も関係してのものでしょう。
桓武帝の母は半島の百済からこの国に亡命してきた人の末裔です。長岡に勢力を
扶植していたようで、母方の力を頼みにもしたものでしょう。
ところが新京では様々な苦難がありました。新京を造営する監督官とも言うべき
藤原種継も島坂「今の石塔寺沿いの坂道」で暗殺されました。
まがりなりにも親政が成功した桓武ですが、しかし皇太子の安殿親王の病気、
母の高野新笠や皇后の死、疫病の流行などが続いて、桓武はまたしても遷都します。
結局、長岡京は10年間という短い期間だけの都でした。
新しい都は平安京と名付けられました。
「長岡京大極殿跡」
中山修一先生を中心とした昭和29年からの発掘調査によって、長岡京の
ほぼ全容が解明されました。大極殿跡は向日神社から東に200メートルほどの
ところにあり、現在は公園となっています。
「石塔寺」
向日神社から100メートルほど南寄り(長岡京市寄り)に石塔寺があります。
石塔寺の前の緩やかな坂を「島坂」といい、この付近で藤原種継は暗殺されました。
犯人は不明ということでしたが、皇太子の早良親王が疑われ、親王は乙訓寺に
幽閉されました。当時はまだ石塔寺はここにはありませんでした。
乙訓寺も私にはなじんでいたお寺だったと思います。ただ、光明寺や向日神社の
ように遊び場であったとはいえません。
かすかな記憶を手繰り寄せれば、乙訓寺は40年から45年前は随分と
荒れていたお寺だったと思います。この間に本堂の修理、瓦の葺き替えを
したものでしょう。ボタンで有名なお寺ですが、
当時は何もなかったはずです。
ここに幽閉された早良親王は絶食して無実を主張したようですが、結局は
淡路島に配流となります。しかし体力の衰えていた親王は山崎の港から
淡路島に護送される途中に死亡しました。毒殺説があります。
以後、長岡京では疫病の流行などがあり、次第に早良親王のたたりという
ことが言われるようになりました。
早良親王の霊を鎮めるために、朝廷は800年に「崇道天皇」の諡号を
贈りました。
このようにしてみせてもらえるのはありがたいですね。
長岡京の記事のことをテレビでやっていました。
綺麗な都作りにはげまれたそうですね。
当時としては珍しい下水道が完備されたそうです。
それにはびっくりしました。
そしていかに都作りにこだわったかというこのの一端を見る思いでした。
最後のは供養塔でしょうか。