山口県光市の母子殺害事件。
何か、とんでもない主張をしだしましたね。
殺意の否認や、ドラえもんを信じてたとか…あまりにも苦し紛れな主張過ぎて、「フンッ」と思わず笑ってしまいましたよ。
前回、差し戻しがあった時の旦那さんの会見。
ものすごく筋の通っている内容でした。
私は随分前から思っていたことがあります。
自殺しようとする人間を止める人がいますが──それが悪いとは言いませんよ、もちろん──その場だけの慰めっていうのはどうなんだろうって。
そりゃ、自分の言葉で死のうと思っていた人が思いとどまれば、止めた方は満足です。
でも、その時だけなんですよね?
思いとどまった人が、どうやって生きていこうとするのか、方法を教えるわけでもその人の今後を見届けるわけでもない。
家庭の事情も知らずに、「早く子供生まなきゃ…」とか「二人目まだなの?」なんて急かす人もいますが、生んだらあんたたち面倒見てくれるの? と突っ込みたくなる。
育児のお金を出してくれるわけでもなければ、いつだって面倒見てくれるわけでもないのに。
あまりにも無責任に言う人が多いですよ。
弁護士なんて、それの典型じゃん。
“最低限の人権を守る”
殺人犯で人の人権を無視しておきながら、その犯人の人権が守られるなんて…とは思いますが、それでも100歩譲ってそれを認めたとしよう。
その人権って、有り得ないくらいの事をこじつけて刑を軽くすることなの?
裁判の中身って結構シビアで、「そういう意味で言ったんじゃない」というような事でも、「言ったのか、言わなかったのか」という「イエス」「ノー」で答えさせられれば、「イエス」と答えるしかない。その「イエス」ということが、とても不利に判断されたりするんですよね。
その悔しさったらないですよ、ほんと。
死刑当然だと思うような被告を弁護すると、有り得ないくらいのこじつけで死刑を回避させる。
精神鑑定に持ち込めばなんとかなる…みたいな、あるいは、まだ更正の見込みがある…などというのが理由にさせられますが、それは誰が見届けるんでしょう?
専門医は当然ですが、本来なら、死刑を回避させた弁護人が最後まで見届ける必要があるんじゃないですかね?
身元引受人とか、保護者とか…その人の一生を見届ける覚悟がなければ、そう簡単に「更正の見込みが…」なんて言って欲しくない。
特に、被害者の立場なら尚更です。
専門医が「もう大丈夫です」と世の中に送り出しても、その後、再び犯罪を犯せば、弁護人だって責められなきゃだめですよ。
小さな頃、弁護士は正義の味方だと思っていたけど、実はそうじゃないんですよね。
弱者の味方でもない。
弁護士は“依頼者の味方”なんです。
その“依頼者”がどんな悪者でも、黒のものをグレーにも白にもしようとする。
だとすれば、弱者は誰が守ってくれるんですか?
正義って、どこにあるんでしょうね?