グローバル時代における 「 様々な分野のグローバル化 」 は、
「 情報 」 と 「 メディア 」 によっても 加速している。
僻地に住む “ 一般人 ” であったとしても、環境さえ整っていれば、
自己の 「 自由な発想 」 と 「 創造作品 」 を、web-net サイトを使って、
自由に発信できるようになった。
その先に、『 どのようなことが起こったか 』 というと ・・・
「 個人 」 と 「 世界 」 が、つながったということだ。
ダイレクトにつながり、ダイレクトに交信が できるようになった。
私のメールには、時々、フェイスブックのお誘いメールが届くが、
ミクシィの頃と一緒で、全く興味がない私は、いつも削除扱いをしている。
送って下さった友人・知人の方々には、本当に申し訳ないが、
現代のネット社会の状況下で、私は 個人情報を公表する意志はない。
私個人の傾向として、「 生きたコミュニケーション 」 を優先するため、
フェイスブックやツイッタ―に 好奇心が掻き立てられない現実もある。
情報を交換して、交流することで拓かれる社会は、他のツールで 充分に
満たすことが可能だと思っているからだろう。
常時、スマホを触っているか、ゲームをしている電車の中の人々を、
明らかに “不健康な現象” として観察する私は、古き体質の人かもしれない。
ただ電磁波を受けるだけでも、リスキーな日常生活だからこそ、時間を大切に、
あるいは生活の質をコントロールして、「 ゆったりと 息をしたい 」 と思う。
しかし、もっと広い観点で 厳密なことを指摘すれば ・・・
情報環境は 「 混沌としてきている 」 ように 感じる。
テレビ放送をはじめ、“メディアの 「 信頼性 」 ” が揺らいできており、
人々は情報の選択に戸惑い、社会の分断化が進んでいるのではないだろうか。
物質だけではなく、情報さえも、大量生産・大量消費をされて、
近未来のメディアの在り方が見えなくなりつつあるのが、今の私の感覚だ。
薄っぺらな情報があふれている現代情報化社会だからこそ ・・・
個人の “ 「 メディア・リテラシー 」 の必要性 ” を 強く 感じる。
これからの “ グローバル時代 ” を生き抜くためには、
メディアを上手に活用することが 何よりも 必要かもしれないが ・・・
「 情報収集力 」 や 「 判断力を高めること 」 が、これからの個人レベルでは
大きな課題となるのではないかと思う。
新しいメディアへの革新を図るべきなのか・・・という論議の前に、
情報形態や ツールは、新しいものが 常に現出してくるだろう。
それが人々の暮らしに、どのような影響を与えるのか ―― 、それが 問題だ。
情報発信の役割と、その効果を考察しつつ ・・・
( どのような合意形成がありうるのか )
「個人」 と 「メディア」 との関わり合い方 は、
まさに 様々な選択肢があるように感じる。