日本らしいモチーフや、世界共通の題材を通して、
希望あるファンタジー長編アニメ映画作品を製作し続けてきた。
そぎ落とされた其々の作品のテーマやメッセージは、簡潔で、
ストレートなものだったと思う。
子どもたちに、「 この世は生きるに値する世界だ 」 と
伝えたかった ― という 宮崎監督の言葉が 耳から離れない。
今回の宮崎駿監督の長編アニメ作品に関する引退宣言 (9/6) は、
残念だけれど・・・ 「 本気らしい 」。
けれど、ご本人曰く 「 自由だ 」 という解放感の果てに、
時間が経つにつれて “ 具体的なもの ” と出会っていくだろう。
あれだけのクリエイタ―が、今後 何もしないわけがない。
また、作品を製作しなくても、あるいは 文化人にならなくても、
何らかのメッセージを発信して下されば有り難いとは思うが・・・
ご本人の 「気骨ある性質」 と、「繊細で頑固な芸術家資質」 が、
あらゆる可能性があることを想像させてくれる。
それだけ、アニメ界に与えた影響は計り知れなく、 また・・・
存在の大きさを 感じずにはいられない。
宮崎駿監督のマスコミ対応 : 質疑応答の言葉を、遅ればせながら
観たところ・・・ものすごく直截的な表現が 小気味よかった。
「やりません」
「言いません」
「○○ していません。
だから、○○ とは言いません」 などなど・・・・・。
現在は、過剰な尊敬語が幅をきかして、テレビのアナウンサーさえ
「 これから 放送させていただきます 」
という表現を使って、番組の進行をつとめる。
放送するのは分かりきっているのだから、「これから放送します」 で
(かつては)良かった表現が、今や「・・・させていただきます」 だ。
へりくだりすぎて、内容を まどろっこしくしている ― と 私は思う。
異質な謙譲語は 理解しづらく、間違った尊敬語が まかり通っている。
その点、宮崎監督の言葉の表現は、なんと簡潔で、自己責任に満ち、
現実に即したものだろう ー と、私は とても気持ちがよかった。
これは、年代の違いだ とは 決して思わない。
生きてきた己の人生が背景にあっての姿勢から 発生した表現だ。
だから、その人の生きた言葉だと思うし、表現はその人自身を表している。
自分の中に、柱があって、“ 自信がなければできない表現 ” だし、
心に めりめりと沁み入ってくる “ 説得力のある表現 ” だと思う。
強いパワーがある・・・。
宮崎監督の 「産みの苦しみ」 は、いかばかりだったかと想像するが・・・
それよりも 興味ある 「宮崎駿監督のこれから」 に、エールを送りたい。
10年・・・と言わず、後進にアドバイスできる限り、あるいは、
製作意欲がある限り、ご本人の心中に やりたいことがある限り・・・
宮崎駿さんは 活きつづけることだろう。
非常に楽しみなことだ。
活かされた世界で、「やりたいこと」 をやるだけで、良いのだ。
私たちに メッセージを伝えてほしい。
地球規模の環境破壊や、忘れかけられた“生きる力”の根幹にあるものは、
これからも宮崎駿さんの発進源となるかもしれない。
たとえ偏屈であったとしても、その価値観は 現代社会では貴重なものだ。
何はともあれ、日本のアニメーション界を、長く牽引して下さった活動に
心から御礼を申し上げたい気持ちでいっぱいだ。