目黒区で5歳の女の子が、食事も満足に与えられず虐待を受け、死亡した事件。
あまりの残酷さに言葉が出ない。
虐待した両親がどのように考えていたのか知る由もないが、ただ、少なくともこの社会で生きていたのだから、この社会がもう少しまともであれば、自分たちのしていることがおかしいと気がついたのではないかと思ってしまう。
だってそうだろう。
正しいことが行われなくてもそれで通ってしまう、間違っているとわかっていてもただすことをしないでいて平気な社会。
嘘をついても罰されない社会。自分の都合で事実を隠し、誤魔化し、それが露見しても誰もきちんと責任を取らないですむ社会。
そして何より、自分より弱い立場の者に責任を押しつけて逃れられると思う輩に溢れ、事実が明るみに出てさえその連中が罰されていない現実。
そんな諸々が、間接的に事件を後押ししてしまったのではないか。「どうせそういう世の中なんだ」、と。
ならば世の中を変えねばなるまい。
犠牲者を、せめて死後は孤立させまい。
財務省の改竄問題で、「よく言う空気っていうやつがそうだったのかもと言えばそれまでなんでしょうけど」と、麻生財務大臣は言う。改竄に手を出し、自責の念から死を遂げた職員もいるのに、何を言うのか。その職員は空気に殺されたというのか。
麻生氏は「関与を嫌だと断った人たちもいる。断らなかった、断れなかった、そこにいくつかの差が出てきたことは確か。何となく、軽いつもりで罪の意識もなくやったのか、やばいんじゃないかなと思ってやったのかも人によって違う」と、同じことを死者の前で言えるのか。首相夫妻の関与は、もう明らかになっているのだ。
そして、福島第1原発で、協力企業の50代男性作業員が作業後に敷地外で倒れ、搬送先の病院で死亡した。
明らかに不自然な死を「原因はわからない」とスルーし、一方で、積みきれぬ量のフレコンバックに重ねられた「汚染土」を全国の工事現場に、そして農地に(!)使うことを決めてしまう国家権力の横暴が罷り通ろうとしている。社会的弱者は絶望的な状況を受け入れるしかないということなのか。
たった一人の死。
亡くなったその存在が、死後もまた、孤立を余儀なくされるような、そんな状況が、許されていいのか。
あまりの残酷さに言葉が出ない。
虐待した両親がどのように考えていたのか知る由もないが、ただ、少なくともこの社会で生きていたのだから、この社会がもう少しまともであれば、自分たちのしていることがおかしいと気がついたのではないかと思ってしまう。
だってそうだろう。
正しいことが行われなくてもそれで通ってしまう、間違っているとわかっていてもただすことをしないでいて平気な社会。
嘘をついても罰されない社会。自分の都合で事実を隠し、誤魔化し、それが露見しても誰もきちんと責任を取らないですむ社会。
そして何より、自分より弱い立場の者に責任を押しつけて逃れられると思う輩に溢れ、事実が明るみに出てさえその連中が罰されていない現実。
そんな諸々が、間接的に事件を後押ししてしまったのではないか。「どうせそういう世の中なんだ」、と。
ならば世の中を変えねばなるまい。
犠牲者を、せめて死後は孤立させまい。
財務省の改竄問題で、「よく言う空気っていうやつがそうだったのかもと言えばそれまでなんでしょうけど」と、麻生財務大臣は言う。改竄に手を出し、自責の念から死を遂げた職員もいるのに、何を言うのか。その職員は空気に殺されたというのか。
麻生氏は「関与を嫌だと断った人たちもいる。断らなかった、断れなかった、そこにいくつかの差が出てきたことは確か。何となく、軽いつもりで罪の意識もなくやったのか、やばいんじゃないかなと思ってやったのかも人によって違う」と、同じことを死者の前で言えるのか。首相夫妻の関与は、もう明らかになっているのだ。
そして、福島第1原発で、協力企業の50代男性作業員が作業後に敷地外で倒れ、搬送先の病院で死亡した。
明らかに不自然な死を「原因はわからない」とスルーし、一方で、積みきれぬ量のフレコンバックに重ねられた「汚染土」を全国の工事現場に、そして農地に(!)使うことを決めてしまう国家権力の横暴が罷り通ろうとしている。社会的弱者は絶望的な状況を受け入れるしかないということなのか。
たった一人の死。
亡くなったその存在が、死後もまた、孤立を余儀なくされるような、そんな状況が、許されていいのか。