Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

合唱曲『じらいくじら』が横浜で演奏されます

2019-12-21 | Weblog
合唱曲『じらいくじら』は、私のモノローグ劇をもとに、こんにゃく座の萩京子さんが、曲を作られたものです。
 
あす、横浜市立大学混声合唱団 第52回 定期演奏会で、「合唱によるものがたり『じらいくじら』」として、演奏されます。
2019年12月22日(日)
戸塚区民文化センター さくらプラザ ホール 
18時開演です。
はじめに別の曲をやるので、「じらいくじら」が始まるのは18時半過ぎになるらしいです。 
全席自由 1,000円/高校生以下 無料
お問い合わせ=横浜市立大学混声合唱団 080-6503-7697(小石川)
 
 
もとの短篇戯曲『じらいくじら』は、2002年、シンガポールでの〈ランドマイン・プロジェクト〉合宿中に、書き上げました。クォ・パオクン、プトゥ・ウィジャヤ、ジョン・ローメルら、アジア各国のリーダーが参加した企画で、地雷についての世界合作です。『じらいくじら』は、そのエピローグになるはずでした。
日本からは、今は亡き斎藤憐、志磨真実のお二人と、参加しました。
ところがその後、企画自体が頓挫。地雷についての劇は、燐光群で、2004年、『だるまさんがころんだ』として別な形に結実しました。
『じらいくじら』初演は、2012年、フランスの〈水のフェスティバル〉で、当地のスタッフ・キャストによる仏語版がフェスティバル主催制作で初演された後、同フェスティバルで繰り返し上演されていました。残念ながら私は観ていません。
 
『じらいくじら』は、戦時の浜に打ち上げられたクジラに地雷が植え付けられるという、基本はモノローグドラマです。
複数の俳優によって上演するバージョンが作られ、燐光群でも『宇宙みそ汁』と同時上演しました。
その後『内海のクジラ』の一部として、瀬戸内海・犬島で、じっさいの海で、野外での上演もしました。
 
十七年前に斎藤憐、志磨真実のお二人とシンガポールに行った日々が、遠い彼方のように感じられるのは、その後にお二人が亡くなられたからでもあります。得がたく幸福な三人の思い出が、今は私のところだけに、残されているのです。
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トルストイとの対話

2019-12-21 | Weblog

オペラ『イワンのばか』の準備。

原作がある作品の劇化というより、けっきょく、作者トルストイとの対話を重ねている、という気がする。

作者トルストイもまた、主人公イワンそのものである。イワンがトルストイを体現し、また、トルストイこそ、イワンとして生きようとしていたのだ。

憲法くんから、トルストイさん、なのだ。

 

こんにゃく座 『イワンのばか』

2020年2月6日(木)~11日(火 祝)

あうるすぽっと

http://www.konnyakuza.com/syusai.html

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演劇版『憲法くん』本年度全公演終了。皆様、ありがとうございました。

2019-12-21 | Weblog

演劇版『憲法くん』、本年度全公演終了。

皆様、ありがとうございました。

いま、すべきことをした、というすがすがしさと、晴れることのない現実の濁りと闇の深さへの持続する困惑、その両者の中で、次にどうしてゆくべきなのかということを、真剣に考えています。

そして、この時代を生きていくのは、この時代の人間です。そして、未来の人間たちに、何か必要なものがあるのではないかと想像するのであれば、それを確実に、受け渡さなければならないのです。

昨今、ほんとうに、ガッカリすることばかりです。それでも私はあきらめません。私たちは、絶望などしません。私たちの仕事は、過去の方たちとの対話であり、未来の方たちとの想像上のやりとりであり、なにより、同時代を生きる者たちどうしの、信頼関係に立脚する、より強い理解と信頼への、模索です。

昨年秋、ある人に言われました。「坂手さんは、人間と人間がわかりあえると、ほんとうに思っているのですか?」と。そして、「人間と人間は、決してわかりあえたりはしないのですよ」と。キリスト教をやっているという方の、言葉でした。

私は別段、「人間と人間がわかりあえると、ほんとうに思っている」と、言ったわけではありません。ただ、どうやらその人にはそう見えるのでしょう、そして、それは不可能だと、その人は思っているのでしょう。

その人が何を言いたいのか、私は、結局、わかっていないのだと思います。

ただ、私は、自分が一人では生きていないことを、知っています。同時に、私なりに、「孤独」というものを理解しています。その上で、幸い私には、最高の仲間たちがいるのだという現実に、他のどんなことよりも、感謝しています。

 

 

この公演の、当日パンフレット用の文章を、以下に、あらためて掲載します。
 
 ↓
 

本日はご来場ありがとうございます。

 

松元ヒロさんの『憲法くん』を演劇にするという、自分でもびっくりする試みにご参加いただけることに、感謝します。

あまりにもしっかりと屹立し存在する松元ヒロさんの原作から、どこまで「演劇」としての成立に持ち込めるか。日々、悶々としながら、やって来ました。

悶々とするのは、今の世の中が、あんまりといえばあんまりな出来事が続いてしまい、「憲法」がないがしろにされている、と思うことが多々あるからでもあります。

 

演劇版『憲法くん』は、一九四七年五月三日、憲法が施行された日に生まれた子どもが「憲法(かずのり)」と名づけられたことを紹介して始まります。その姪っ子姉妹は、「憲子(かずこ)」「法子(のりこ)」です。

この「憲法ファミリー」の、サザエさん一家の向こうを張るホヨヨな戦後史を描くという構想でスタートしましたが、やはり、「今の世の中の、あんまりな出来事」と憲法陣営が対峙していく、ということになってゆきます。

私が思い描いた憲法最良のパートナーは、マルクスです。マルクスは「憲法」にこだわっていました。普遍的な意味での憲法です。そして彼は、その可能性が一つの共同体に留まらないことを、直観的に知っていたはずです。

 

憲法は、徹底して個人を守るためのものです。現実として、今、ここにいる、「一人一人の人間」を尊重するために、言葉が尽くされているのです。その個人が「社会」に出会うさいの諸問題に対応するために、憲法が必要なのです。今回の作業を通じて、私はあらためてそのことを認識し、感銘を新たにしました。

よく、元憲法学者で弁護士の馬奈木厳太郎さんに冷やかされるのですが、私が憲法前文で一番好きなのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」の、「「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という部分です。今の総理大臣が「みっともない憲法」と言った箇所です。あの人には何もわかっていないのです。

憲法前文は、次に「われらは」という主語で、三つの文が続きます。この「われらは」の連鎖は、すごいです。

この「われら」は、決して「一つの国の私たち」という単位におさまるものではありません。「われら」は、まさしく、「平和を愛する諸国民」なのです。

相手の公正と信義を信頼しなければ、「われら」の安全と生存は保持できない。「われら」を「みんな」に広げる奇跡が、ここにあります。

私の憲法理解は、そこから始まっています。

 

「『憲法くん』は、みんなのものですから」。

演劇化を承諾して下さったときの、松元ヒロさんの言葉です。

「われら」と「みんな」の「憲法くん」を、あたたかく見守って下さい。

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