Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

安倍首相の日本語破壊力は、「責任」という言葉を消失させる

2020-04-29 | Weblog
安倍総理の日本語破壊力は相当なもので、口癖である「いわば」「まさに」といった言葉についていえば、「いずれ本来の意味は失われてしまうだろう」と、以前に書いた。(※1 ※2)

そして、今、気になっているのは、「責任」という言葉である。安倍首相の日本語破壊力は、「責任」という言葉の存在さえも、消失させようとしているのだ。

一昨日付の共同通信によれば、

安倍首相は「私はこれまでも政治は結果責任であると申し上げてきた。全ての責任は首相である私にある。その大きな責任を先頭に立って果たしていく決意に変わりはない」と述べたという。

これを共同通信は、「新型コロナ対応、全責任は自身にあると首相」という見出しで紹介した。

そういう意味なのでしょうか。

これ、もともとの文面は、何も言っていないに等しい。どこで誰に言ったかも書かれていない。こんなの記事といえるの?

「政治は結果責任」というのは、安倍首相自身にはそんなつもりはなかったが、結果的に酷い状況を招いた。だから自分には「結果責任」がある、ということであろう。なので「全ての責任は首相である私にある」というのだけど、この人が口にする「結果責任」というのは、どうしても、「自分の思惑違い、不可抗力でそうなってしまった、今の悪い状況は自分の本意ではない」、という意味に響いてしまい、逆に「責任」とは遠ざかっていく気がするのだ。
そもそも、彼は「責任」をとったことなんて、一度もないでしょう。何があろうと、出すべき証拠も示していないし、嘘ついても辞めてないし。

そして、「その大きな責任を先頭に立って果たしていく決意に変わりはない」という場合の、「責任」という言葉の意味が、不明である。ポーズだけはとり続け、「なんとかしたいと思ってはいる」とだけ、言っているに等しい。

つまりこれは、またうまくいかなかったときに、「もちろん私には結果責任がある。でもこれは私の思っている通りにならなかったために起きたことなので、だから私には本当は責任がないんだけど、政治家の常套句だし、総理大臣でもあることだし、責任は自分にあるっていうことにしますね」とだけ、言っていることになる。

つまり安倍首相は、永久に自分自身には「責任」がない、と言っている。そのことを証明するための意図的な矛盾のロジックとして「結果責任」と言っている。
永久の繰り返しである。

考えすぎ? いえいえ、そんなことありません。
じっさい、彼は責任とったことなんて、一度もないのだから。

だいたいこの文脈で「責任を先頭に立って果たしていく」というのは、日本語として矛盾だらけである。「結果責任しかとらない」と告白している者が先頭に立ったって、あてにできるわけがないだろう。
もともと先頭に立っているくらいだからわかっていてやっていたことに決まっているはずであり、それが首尾よくいかなかったら、「結果責任」ではなく、もともときちんと責任があるはずではないか。

かわいそうなのは、「責任」という言葉である。
本来の意味が骨抜きにされて、安倍首相の言語の中では、「責任回避のため繰り返し置き換え使用するための受け皿」にしか、なっていないからである。

正しい日本語を推進したい方々は、安倍総理が使う日本語は私たちの知っているそれとは違う用いられ方をしているという点について、迅速かつ明確に批判し、後世の人達が誤った用法を受け継がぬよう注意、銘記しておくべきだと、真剣に思う。

(※1)
過去の、「まさに」についての記事
https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/9cc90cf7f0b4a9a7663bb4e5e787fba9
(※2)
過去の、「いわば」についての記事
https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/51a42daee51cb1645fd681daa234dfde

この文、首相の発言にいちいち反応しているのも癪なので一昨日書いたまま放置していたが、山崎雅弘さんがFBに報道批判文脈で書き込まれていたので、私も日本語文脈でアップすることにした。

在宅ワークの合間にこんなことを書いていては時間がもったいないのであるが、昨日今日は懸念の事案を幾つかこなし、あるいは、やっつけつつあるので、まあ、いいことにする。
コメント (1)
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ゴミ袋に悪戯しちゃダメなんだよ

2020-04-29 | Weblog

小泉進次郎環境相は本日、閣議後の記者会見で、新型コロナウイルスの感染リスクが高い状況下で働くごみ収集作業員のため、「激励と感謝の気持ちを伝えるメッセージや絵をごみ袋に描くこと」を提案したという。

小泉氏は「感謝の輪に加わっていただけたらありがたい。作業員の方々に大いに励みになる」というが、励みになるより、邪魔になる。

「いつもありがとう」とかメッセージが書いてあったとして、何かの注意書きかと思ってそれを読む、目に入れて確かめる手間を、考えて下さい。無視してどんどん捨てたほうが効率はいいですよ。

さて、小泉氏の言葉の続きでは、「休校や外出自粛で家にいる時間を使って、ごみ袋にメッセージを。SNSでも発信を」と訴えたそうだが、いったいどこに発信するのだ? そもそも気づかぬうちに感染していた者が何か書くために袋をいじってしまったら、かえって危険ではないか。

小泉氏は、外出自粛に伴い家庭からのごみが増えていることにも言及し、「できるだけ片付けごみを出すのを控えめに。または少しずつ出すような工夫をお願いしたい」と述べたというが、控えめにと言ったって、出さざるを得ないものである。きちんと閉じる、危なくないように詰める、それは合理性であり、たんに常識である。少しずつと言ったって、大きすや重すぎもいけないだろうが、袋一つが小さすぎても、労力は増す。

というか、この状況で大臣が言うことがこれか?!

 

関係ないけど、もう三十年前に初演した私の劇『ブレスレス ゴミ袋を呼吸する夜の物語』は、ゴミを巡る劇だ。収集作業員の青年は、ピンク色のリボンが巻いてある、当時は真っ黒だったゴミ袋を捨てようとして、手を切ってしまい、憎悪に燃える。初演ではその青年を、猪熊恒和が演じた。

初演とその後の全国ツアーには私も出ていて、冒頭ではゴミ袋に入ったまま暴れ、やがて出てきて1ページの長台詞を喋る。アングラである。

「パパ」と呼ばれる教祖に自分のゴミ袋を差し出して中身を見せる血縁のない娘たちがいるという展開で、「リア王」の変奏曲であり、千石イエスのことも意識している。

もともとは廣木隆一監督の映画のシナリオとしてスタートした企画だった。

2001年の再演では「パパ」を柄本明さんが演じ、ヨーロッパツアーも敢行した。ベルリン、ライプチヒ、ワルシャワ等を巡った。

当時のことは最近もライプチヒに触れたブログに書いた ↓

https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/ab2a666ef5572931e363c20f15571164

いろいろ思い出深い。

而立書房から出ている戯曲集は現在、在庫切れである。重版の相談をしているところに、コロナ禍が来た。困った巡り合わせである。

 

 

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