Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

なくなるということ Marion,s の場合

2024-04-18 | Weblog

自分が十年間住んでいた都営住宅が建物の棟ごとなくなったことを記したが、

最近何かがなくなってショックを受けた別な出来事といえば、

昨年春ニューヨークに行って、アスタープレイスを歩いていて、

私の愛する店、Marion,s がなくなっていたことを事前に知らず、

今まさに目の前で店舗の解体工事をしているところに出くわしたときのことだ。

おかしい、 Marion,s がない、私は土地勘をなくしてしまったのかと動揺し、何ブロックか回って戻り、やはりこの場所であった、そして、店の痕跡が何もかもなくされようしていることに、気づいたのだ。

その日の作業は一段落したのか、表で解体のために働いているらしい人以外は、中に人の気配はなかったが。

建物がなくなるのではなく、無店舗が別なものに変わるのであろう。

 

ニューヨークで一番、好きな店だった。

じつは私は、ほとんど一人で飲みに行ったりすることはない。

例外の一つが、ここだった。

入口そば、曲面のガラスの向こうに、そう大きくはないカウンターがあったのだ、ちょっとしたダイナーふうの、ピンクというか赤いカウンターテーブルの。

その辺りの壁には、百年余りの歴史を誇るこの店の、昔の写真が、ニ、三、飾ってあった。

奥はけっこう広く、その気になれば百人近くは入れたはずだ。

店内に、別な出口もある地下の別な店に降りていく階段もあって、なんだか不思議だった。

 

四半世紀前、ACCのグラントとして、ニューヨークで三ヶ月過ごした。

ワールド・トレード・センターがまだあった時代で、チェルシーのアパートの窓から身を乗り出せば、遠くに見えたはずだ。

そのとき、ラ・ママ劇場で拙作『くじらの墓標』の英語版の、アメリカでは初めてのリーディング上演が行われた。

出演者・スタッフの打ち上げも、ここだった。

ニューヨークの劇団・SITIカンパニーの全面協力を受けた公演で、彼らも常連である、この店で飲むことになった。

みんな素敵な人たちだった。

後に『アイ・アム・マイ・オウンワイフ』でトニー賞を獲得することになるジェファーソン・メイズも来てくれていた。

 

店は、何曜日かは、女性が半額デー。

食事が半額の日もあった。

平日だと、時間帯によっては、客が極端に少ない日もあって、カウンターの向こうに店の人ひとりと、本を読む私と、たまたま居合わせた女子学生の、三人だけで二時間くらいの時間が過ぎていったという日もあって、三人でなんとなくだらだらと話したのだった。

以来、何度か来て、『屋根裏』ニューヨーク公演の時は、劇団員の一部を連れて行ったが、やつらは定食みたいなのを、わしわしと食べた。

 

店名を冠した、Marion,s という名前のカクテルは、ペコロスというのか、小さい玉葱が浮かんでいて、ものすごくドライで、最初は驚いたが、味わい深かったし、なにより、量が多かった。

カクテルは、ギムレットもやたらと量があった、通常の2・5倍くらい、そして、うまかった。

 

店が亡くなりつつある瞬間に遭遇して、驚いたし、ただ、茫然とその様子を見るのみだった。

過去と現在の時間が混じる店という印象だったが、その「時間の隙間」みたいなものじたいが、どこかに消えてしまった。

私が勝手に思っていたニューヨークが、姿を変えていった、一つの事例である。

 

 

追記

後日、ニューヨークの知り合いに聞くと、「ニューヨークに住む身としても街のgentrification (中低流階級の浄化?)には心が痛みます」とのことでした。

そうか、やはりあの店は「庶民の店」だったのだなあ。

ジェントリフィケーションとは、都市の居住地域を再開発して高級化することを意味するようであるが、元の言葉は「gen・tri・fy」のようで、〈人〉を紳士的にするという意味でもあるらしいが、「gentle」とは「L」と「R」の違いがあるので、関連はあるように思えるけれどもちょっと違うのかな。英語は難しい。

 

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ミャンマーのたたかう魂 映画 『夜明けへの道』

2024-04-18 | Weblog
ミャンマーのドキュメンタリー映画『夜明けへの道』を観た。
ここに、たたかう魂がある。
アーティストという名の生活者が、国家の暴力と対峙させられたとき、どのような選択が有り得るのか。
 
感想は、追って、また。 
 
4月27日 全国公開。
 
 
解説

かつてビルマと呼ばれたミャンマーで、2021年2月1日早朝、国軍によるクーデターが発生。ミャンマーの現代史においては3回目となるクーデターだ。1回目は初めての軍政時代を導入した1962年3月、2回目は第二軍政期のきっかけとなった1988年9月である。そして2011年、長きにわたる軍事政権から民主化に大きく舵を切った。その後の10年、市民は自由と民主主義への希望を抱き始めていた。しかし今回のクーデターにより、一夜にして世界は転覆した。軍は前年の総選挙での不正を口実に、アウンサンスーチー国家顧問ら民主派政権の幹部を拘束、非常事態を宣言して全権を掌握。反発した市民の抗議デモは武力闘争に発展し、人々の自由と平穏な暮らしは崩れていった。3年が経つ現在でも一部少数民族と連携し、国軍との戦闘が激化している。地元人権団体によるとクーデター後、4500人近い市民が国軍に殺害され、計約2万6000人が拘束、避難民は約230万人にのぼる。

ミャンマーでは半世紀にわたる軍事政権が終わりを迎えた2011年以降、言論の自由が拡大。映画監督コ・パウは自由な時代の映画製作に勤しむ一方、COVID-19により外出が困難になると、家族で製作したコメディ動画をSNSへ投稿。総フォロワー数は100万人を越え、厳しいロックダウンに苦しむ市民を元気づけた。そんな中、軍事クーデターが勃発。コ・パウら芸能人は街に出て抗議デモを先導したことで指名手配される。国軍の残虐行為は次第にエスカレートしていき、デモ隊を機関銃で一掃するなど容赦ない弾圧に乗り出す。国軍から追われる身となったコ・パウは、民主派勢力の支配地域に逃亡し、ジャングルでの潜伏中に短編映画『歩まなかった道』(2022)を製作。そして現在も潜伏生活を続ける中で、自らのリアルな姿を撮影したセルフドキュメンタリー映画『夜明けへの道』を製作した。
人間としての尊厳を失った市民が、常に監視され、自己表現が制限される社会。現在でもミャンマーの人々は毎日、人道に対する罪を目撃し続けている。増え続ける死者数と高まり続ける拘留者率は、まさにディストピアである。軍に都合が悪い情報を発信するものはすべて処罰の対象となるため、国内外に情勢を伝えることは困難だ。それでも、ミャンマーに目を向けてほしい、そして民主化の時計の針を巻き戻すまいと、命がけで公開する本作はコ・パウ監督の今なお続く闘いと決意の実録映画だ。

作の興行収入より映画館への配分と配給・宣伝経費を差し引いた配給収益の一部は支援金とし、
コ・パウ監督らを通じてミャンマー支援にあてられます。
[配給: 太秦株式会社]

 

コ・パウ(監督)

1975年1月5日、ミャンマー中部マグウェ生まれ。
ミャンマーを代表する俳優・映画監督。1998年に脚本家として映画界に入り、その後俳優としても活躍。悪役などを演じて有名になる。2007年にはビデオドラマの監督でデビュー。俳優としては400本近くに出演したほか、多くのビデオ映画を監督し、15本の長編映画を製作している。コメディ映画からアクションのほか、社会問題に切り込む作品も製作しており、作風は広い。僻地の小学校に赴任した熱血教師の奮闘をコミカルに描く『涙は山を流れる』(2019)で2019年のミャンマーアカデミー賞(監督賞)に選ばれ、主演俳優のミンミャッはこの映画でアカデミー賞を受賞した。2021年2月1日ミャンマーで軍事クーデターが勃発すると、仲間の芸能人とともに抗議デモに参加。2月17日には国軍から追われる身となり、民主派勢力の支配地域に逃亡。潜伏中のジャングルで短編映画『歩まなかった道』(2022)を制作、今回セルフドキュメンタリー映画『夜明けへの道』を制作した。現在も軍への抵抗活動を続けている。

「この映画の制作の動機は、私たちアーティストも独裁者の革命の中で、自らの人生、成功、家族全員の生活を代償に払ってきたことを知っていただきたいのです。
この革命は大きな成果を上げています。最後まで進むべきだと感じています。もう後戻りはできないということを理解していただきたい。」

 

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