ひめちゃんたちのお散歩コースにも、時たまヘメリカリスが咲いています。
放っておくと、大きな株になるようです。
ひめちゃんは、昨日の朝、久しぶりにラッキーくんと逢いました。
獅子丸が一緒でしたけど、しっかりご挨拶しました
獅子丸も一応は「俺の妹に手を出すな」というポーズはとりますけど、ひめちゃんの意思を尊重しました。
ラッキーくんのおとうさんは、「ひめちゃんだよね。かわいいね」といってくれました
先週のある日、総社付近に所用があってでかけました。
ついでだから、山王廃寺跡を確認しようと、足をのばしました。
ナビでででず、地図を頼りにやっとたどりつきました。
道の反対側に、駐輪場があります。
駐車も可能ですというか、置くしかありません。
説明板があります。
「全国的にもまれに見る華麗な寺院があった」とあります。
そして、その寺院とは、放光寺であったということです。
上野三碑の一つ、山ノ上碑は、放光寺の僧長利が母黒売刀自のために建てた墓誌です。
辛己歳集月三日記 佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此 新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児 長利僧母為記定文也 放光寺僧
群馬県によれば、「碑の建立者である長利は、健守命の子孫の黒売刀自が、赤城山南麓の豪族と推定される新川臣の子孫の大児臣と結婚して生まれた子です。長利が務めた放光寺は「放光寺」の文字瓦を出土した前橋市総社町の山王廃寺だったと推定されています。」とあります。
僧長利は新川の臣の子孫でもあることになります。
一般的には新川は「にっかわ」と読んで、旧勢多郡新里村新川だといいます。
でも、こんなに古代に「にいかわ」ならまだしも、「にっかわ」と促音で発音したかなあ?
覆い屋の中に石製の鴟尾がみえます
ハスの花の様に並んだ根巻き石です。
説明板があります。
覆い屋の後ろ側からです。
もう一つ覆い屋があって、塔心礎(五重塔の基礎部分)があります。
その昔は、華麗なる五重塔が建っていたのです
社殿でお参りし、周囲を一周します。
けっこうりっぱな近世の石造物があります。
朱の残る生々しい不動明王です。
淡島大明神、聞いたことがない神様です。
ふと左下を見ると、「新田源道純拝書」とあります
岩松さんです
江戸時代に新田の嫡流として生き残ったものの、経済的に苦しかった岩松氏は、猫絵を描いたりしていました。
そして、額等の文字も書いていました。
ここにもありました
けっこう広い範囲に提供していたのです
今太田市では、新田猫というクリアファイルを販売しています。
それによると、岩松道純(いわまつみちずみ)は、猫絵の殿様の3代目(寛政9年1798~嘉永7年1854)です。
桐生川左岸・塩宮神社(しおのみやじんじゃ)の額を描いた猫絵の殿様は、2代目岩松徳純(よしずみ)です。
新川の臣の子孫僧長利の務めていた放光寺跡で、我がふるさと新田の猫絵の殿様の書に出会いました
行きはいろいろ迷いましたけど、ナビを自宅に設定して帰り始めると見たことある交差点に出ました。
御霊神社を尋ねるとき駐車したコンビニもあります。
左折してひたすら東に向かいます。
なんと、山上までほぼ一本道なのです
古代においても、ほぼ一本道で行き来できたと思われます
山上は国府と密接なつながりがあったかも知れません