黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

足利の栗崎という所に(越後勢着来、養命夜討ち、付けたり、石原足利落ちの事・その2)

2024-11-04 21:12:18 | 桐生老談記の世界

秋晴れの一日でした

ひめちゃんの夕方のお散歩は、南のコースです。

ほぼ毎日、中学校の信号付近を廻ってきます

30分強かかります。

最初は駆け足でどんどん進みます。

おかあさんも駆け足です。

すれ違った近所のお散歩おじさん、「走れるんかい 若いね

「ありがとうございます

前半は、結構走りながらのお散歩です。

後半は、ゆっくり歩きます。

 

2019年11月の黒柴家族です。

獅子丸は実家に帰って5ヶ月です。

ひめちゃんと獅子丸、小次郎パパとタバサねーちゃんとののこねーちゃんの2組でお散歩が多かったのかな

昼間は、七海ママのちい散歩に、末っ子のひめちゃんと獅子丸が付き合ってました

まさか、ひめちゃんが1人散歩になるなんて考えられませんでした

 

 

 

越後勢着来、養命夜討ち、付けたり、石原足利落ちの事・その2(足利の栗崎という所に)

 

里見兄弟、門をば踏み破り乱れ入りしが、逃げ失せ敵一人なし。

家来どもに尋ねければ、今夜夜討ちの沙汰を聞き、夕暮れに何方へか落ち給う故、行方は知れ申さずと候。

とえば宅にはいいかいもなきものどもばかり、兄弟は手持ちを失い帰られける。

その後、石原は住む所にたまりかね家人ばかり差し置き、その身は妻子を連れて、足利の栗崎という所に石原石見(いしはらいわみ)が四男の所に暫く忍びけると。

扨て扨て、あったら知行を捨て、臆病者に名をけがさん事、世常のあざけけりも誠にはづかしき事どもなり。



あらすじです。

里見兄弟は、石原石見の屋敷の門を蹴破って乱入したけれど、石原の家族は逃亡した後だった。
残って居た家来に尋ねると、「今夜の夜討ちの事を聞き、夕方にどこかに落ち延びて行かれました。どこへ行ったかはぞんじません。」という。
石原石見の屋敷には、取るに足りない者ばかりが残っていた。
その後石原は妻子を連れて、足利の栗崎にいる四男の所に、しばらく忍んでいたという。
さてさて、せっかくの知行を捨てて、臆病者とあざけりをうけたのは、まことに恥ずかしいことである。



石原石見は、里見兄弟の父を自害に追い込みました
そして、「石原兄弟は桐生家人となり、養命の出城在城せしめおのが栄花撰びしはにくまぬものこそなかりけり。」、その功績によって桐生家中になって、用命の出城を任されていたのです

あれ、でも、もう桐生家は滅びています
「この日はいかなる日ぞや、天正元年(癸酉みずのととり、1573年)三月十二日に桐生七代繁栄一時に亡ぶるなり。」とありました。

兄弟の討ち入りのこの日は、天正六年(1578)五月二日です。

石原石見は、桐生家から由良家にうまく乗り換えたのでしょうか?
由良家に所領安堵してもらえるような、何か功績があったのでしょうか?

深く考えると矛盾がいっぱい出てきそうです

石原石見の屋敷があったとされる用命の砦は、桐生市川内町の永明寺(ようめいじ)の辺りだといわれます。
小高い丘の上に立っている感じです。


石原石見が落ちていった、足利の栗崎はどこだか分かりません。
ただ、両崖山(りょうがいさん)城は、ウィキペディアによれば、栗崎城の別名があるということです。

両崖山城(あしかがじょう)は、戦国時代には、足利長尾氏の居城ですね。
織姫神社の裏手の山になります。

両崖山城はまだ登れてません。

でも先日(2024年11月1日)、西側の長尾氏累代の墓のある長林寺に行ってきました。

長尾顕長の墓もありました。

詳しくは、後日「続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ」で

長尾顕長は由良氏からの養子でした。
石原石見が由良家中にうまく転身していれば、ありうる話ですけど

 

初稿  2019.11.27

改稿  2024.11.04

 


( 越後勢着来、養命夜討ち、付けたり、石原足利落ちの事    終 )

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