ひめちゃんとタバサねーちゃんは、昼間はお外のお部屋(サークル)でひなたぼっこです
暖かい日差しで、ひめちゃんはお昼が配られても気がつかないほど、熟睡していました
2020年1月の黒柴家族です。
獅子丸は実家に帰って半年です
実のママ・七海と再び暮らせたことは、獅子丸にとっても楽しかった事でしょう
『桐生老談記』、新しい章です。
久留川城主系図の事、付けたり、武田に随見の事
去る程に、其の頃上州勢多郡久留川の城主、阿部頼時の次男栗谷川次郎貞任末孫、阿部能登守平正住と申しける。
同鳥海弥三郎宗住が末孫、松嶋式部少輔と申しける。
此の両家は先年より桐生の旗下なりしが、新田領分となりしより出仕不参いたし、諸役も務めずして、武田の代官沼田城主真田弾正方へ隨身して、今勝頼の代まで武役を務めかしづき給いけり。
あらすじです。
そのころ、上州勢田郡久留川の城主は、阿部頼時の次男栗谷川次郎貞任の子孫、阿部能登守平正住と申しました。
また、一方の城主は、鳥海弥三郎宗住の子孫、松嶋式部少輔と申しました。
この両家は、かつては桐生の旗下でしたが、新田領分となりてからも出仕しないで、諸役も務めないで、武田の代官沼田城主真田弾正方へ隨身して、今の勝頼の代まで武役を務め随っていました。
久留川(くるかわ)は黒川(くろかわ)です。
渡良瀬川上流、現在のみどり市東町・桐生氏黒保根町には、黒川衆とよばれる人々がいました
小さいながらも独立した勢力でした
彼らは、
源義家に投降した阿部宗任が京都に送られるとき、旧主を慕って蝦夷数百人がここまで着いてきた。
義家は阿久沢・松嶋ら90人だけを京都と奥羽の連絡のためという名目で黒川山中に残し、他は帰国させた。
そんな伝承を持っていました。
ところが、それは創作であったようです
彼らが独立した勢力であり続ける為に、他の勢力に対するために創作されたとか。
確かに何百人もの蝦夷の移動なんて許されるはずもなく、なぜここに京都と奥羽の連絡役を置くのかもよくわかりません。
でも、最近までというか今でも多くの人が信じています
『桐生老談記』の作者も、もちろん信じていたのでしょう。
戦国時代、黒川谷にはいくつかの城があり、その中の代表格が阿久沢氏と松嶋氏でした
ここでは、阿久沢氏は阿部貞任(あべのさだとう)の子孫、松嶋氏は鳥海弥三郎の子孫と書かれています
ここでは、鳥海弥三郎とは阿部宗任(あべのむねとう)という解釈のようです。
鳥海弥三郎と阿部宗任は別人ともいいます。
黒川谷には、阿部宗任を祀った鳥海(ちょうかい)神社があります。
黒川谷の鳥海神社
隣には大蒼院があります。
獅子丸が7年間養子に行っていた元獅子丸家が開基という常広寺の実質的開山・常広院殿が、若き日に開山した寺です。
黒川谷は、上杉謙信の越山の通り道になります。
厩橋(前橋)を通らずに、関東平野にでられるのです
さまざまに関わりをもったのは、武田ではなく上杉です
( 久留川城主系図の事、付けたり、武田に随見の事 終 )
初稿 2020.01.02 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村」
改稿 2024.11.27