ひめちゃんは1人散歩で、堀之内の西を歩いてきました。
降りそうで降らない、晴れそうで晴れない一日です。
ひめちゃんとタバサねーちゃんは、おうち犬でお留守番です。
夕方は、いつも通り南に下り、中学校の信号付近まで行ってきました。
最近、行き会う犬が少なくなったような
2019年11月、ひめちゃんと獅子丸は堀之内を北に出て、よく岩神沼へ行っていました。
沼面に、逆さ赤城も、きれいに映っていました。
今年は、逆さ赤城がどうもきれいに映りません。
15歳半の七海ママも、元気に末っ子たちとの昼散歩をしていました。
ちょっと見には全く似ていない3名ですけど、子供たちはママと似ている部分を持ってます
成重逝去、付けたり、葬送の事
去る程に、由良成重公同六月上旬より、病の床に伏し給う。
同六月二十九日、御年六十一歳にて終に卒去し給う。
上下愁いななめならず、去れば閑心院は未地の僧なれば、金竜寺和尚導師にて、閑心院に葬(とむ)らい給う。
去れば此の君、厚く万民をあわれみ給いし故、御在世六年の間、上下悦こびも誠に御領地静謐、終に収まる事、是名将の徳なり。諸人名残おしく思うこそ、ことわりなり。
あらすじです。
そうしているうちに、由良成重公は天正6年6月上旬から、病の床に伏した。
6月29日、61歳で死去した。
菩提寺の閑心院(鳳仙寺)は、まだ世に知られていなかったので、金竜寺の和尚が首座として、葬儀を執り行った。
この人は万民をあわれんだので、治世6年の間、領地は平穏に治まった。
それは、ひとえに彼が名将だったからである。
みんなが別れを惜しんだのは、もっともなことである。
ウィキペディアによると、由良成重(成繁)は、永正3年(1506)の生まれ、天正6年(1578)6月30日死去とあります。
享年72歳です。
約10年違います
由良成繁は、内通してくれた関心院(鳳仙寺)を菩提寺にしたのでした。
でも、由良の殿様の葬儀を取り仕切るには、ちょっと無理がありました
「未地」は「未知」で、「まだ知られていない・有名でない」でしょう。
金竜寺は新田(太田市)にあります。
桐生にも、金龍寺を桐生氏の菩提寺西方寺のすぐ近くに建立したといいます。
「金竜台」の地名が残るそうです。
由良成繁は、関心院(鳳仙寺)に葬られました。
鳳仙寺の山門です。
鳳仙寺の文化財説明板と境内の案内図です。
由良成重の墓は、本堂裏の小高い所にあります。
本堂です。
由良成繁の墓です。
作者は、由良成繁をすばらしい名将だと評価しています
江戸時代の桐生は、由良氏の時代をよかったと懐かしむ空気に満ちていたのでしょう
( 成重逝去、付けたり、葬送の事 終 )
初稿 2019.12.01 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.11.06