今朝、ひめちゃんは久しぶりに山上城まで行ってきました。
帯郭のモミジは、まだ紅葉していませんでした。
2019年12月、ひめちゃんと獅子丸は、落ち葉がいっぱいの山上城に行きました
帯郭のモミジがきれいに色づいていました
隣にある常広寺の銀杏も鮮やかな黄金色でした。
残念ながら、この銀杏の木はもうありません。
里見兄弟の物語総集編・その 1
里見兄弟は、父の仇を討つことなく、無念の死を迎えました
何故か、釈然としない終わり方でした
でも、桐生近辺ではつい最近まで史実と考えられていました
ストーリー(あらすじ)をもう一度しておきましょう
里見兄弟の物語総集編・その 1
仁田山城主である新田大炊之介(新田義重)の三男・里見太郎義俊の26代目の子孫里見義広は、もとは甲州山梨郡の人であった。
武田信玄にもとの領地を取られ、天文3年(1534)、浪人して桐生にやって来て、桐生殿とねんごろになり、桐生殿は、新田の家系に連なる人であるのを頼もしく思って、里見勝弘を桐生搦手の押さえのために、赤萩へ在城させて、仁田山・八木原を知行させた。
赤萩に住んで間もなく、随見勝平、平四郎勝安という2人の子供にも恵まれ、息子達は文武に勝れた人となり、里見家の家臣には大貫一族、石原兄弟、これらは譜代の人々であった。
この頃里見勝広は、又次郎殿(親綱)の非道の御政道に諫言状を認めて再三意見した。
けれども、親綱は勝広の諫言をまったく聞かなくて、勝広も此の人はだめだと見限って、越後の上杉謙信と日頃懇ろなので、息子二人を託す事とし元亀元年(1570)3月13日、桐生城主に挨拶もなく、越後に派遣したのは、里見家の運が尽きる発端であった。
子供達を越後にやったことは隠しようもなく、3月15日津布子、山越登城して、「勝広入道が当家に知らせないで息子達を越後にやったことは何を考えているのかわからない。謙信に頼って当家への謀反を企てているのかもしれません。」と、もってのほかの讒言をした。
親綱も、里見入道のしたことを不快に思っていうことには、「石原兄弟はよくこちらのお供をしているので、彼らに内通して、里見入道を見届けよう。」とおっしゃった。
それで16日に石原へ内通した。
石原兄弟は里見入道を亡き者にして桐生氏の直臣となって大きな禄をもらおうと思っていたので、「おっ察しの通り里見入道は謀反の心を持ってます。」と速やかに反応した。
この両人津布子、山越は里見入道謀反の報告を親綱にし、親綱は大いに怒り、「軍勢を差し向けて入道を打ち滅ぼすぞ。」と山越出羽を大将として、荒巻式部、同刑部、森下作弥、津久井和泉、斉藤丹後、上下八十九人で3月20日に早朝に、仁田山の城へと攻め寄せた。
元亀元年(1570)3月20日早朝、桐生勢は仁田山に向けて出陣。
そのことを知った里見入道は大いに驚いて、朝早くに家臣達を集めて軍議を開いた。
意見はまとまらなかった。
石原兄弟が言うことには、「この城に籠もって大勢の軍と戦うなんて無理な事です。危うき期を恐れないのは、軍師の教えに多いです。でも、それは軍事的知識の不足が問題です。いったん谷山(やつやま)に退いて思案を廻らして、なんとか生き抜いて、再び正義の兵を挙げることが、名将の教えです。はやくはやく。」と諫めた。
大貫兄弟は血相を変えて、「石原よ其の方は里見家の重臣だろう。今までそう思って肩を並べてきたのが口惜しい。それほど命が惜しいのなら、入道殿の首を取って敵陣へ降参せよ。越後においでのご兄弟が名残惜しいことだ。今こういう事態になったのは、そうなる御運だったのだろう。思えば無念の有様である。」と。怒る眼に涙を浮かべて言ったので、みんな深く感心したようだったけれど、入道は石原兄弟を連れて、城を落ちていってしまった。
出だしから不自然です
甲州からなぜ桐生にやって来たのでしょう
桐生殿と昵懇(じっこん)にになったのは、桐生に来てからです
なのに、越後の上杉謙信とは日頃懇ろ(ねんごろ)なのです。
桐生にやって来てまもなく二人の息子に恵まれたというと、越後行きのころ、息子達は30前後になっていなくてはなりません
この話は、里見勝広が桐生にやって来てから35年後の話です
「桐生殿は、新田の家系に連なる人であるのを頼もしく思って」というけれど、桐生氏は水争いで新田とはうまくいってません。
作者が「新田の家系に連なる人であるのを頼もしく思っている」のでしょう。
初稿 2019.12.19 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.11.22
(つづく)