今日はお日様も出て、昨日よりかなり暖かくなりました
昼間は、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、ひなたぼっこをしながら、お外のお部屋(サークル)で過ごしました。
2022年の2月、タバサねーちゃんと、里見兄弟の墓がある高津戸の阿弥陀堂に行きました。
そのころのお出かけ大好きで元気なタバサねーちゃんです
丸々としたタバサねーちゃんの密生していた毛は、酷暑と加齢で大分抜けてしまいました
筋肉も落ちて、痩せてしまいました
でも、自己回復能力がまだあったのです。
秋風が吹いて、いつの間にか白柴に戻ってます
筋肉も戻ってくれるといいのですけど
タバちゃん、三四郎おじちゃんの17歳と1ヶ月より長生きしようね
『桐生老談記』 新しい章です。
里見兄弟最期の事、付けたり、越後勢帰国の事、同落城の事
去る程に、兄弟は思いのままに働き、城内へ引き退きみれば、味方の三十人ばかり討たれ、殊に弟兵四郎勝安深手負い、十八日のあけぼのに終に相果てけり。
随見大きに力を落とし、弟を先に立て、いつの時にか期すべきと思い、正木大蔵を以て紀伊守へ使者を立てられ、その向上にいう、某兄弟ただいま自害仕り候、依って随い来る越後勢早速に道を開き、御返し給うべき旨申し越しければ、
紀伊守早速に了承あるによって、随見喜び、遺状を認め、越後勢に謙信公の御方へ届け給うべき旨を頼む。
さてまた諸軍勢に向って、最後の盃くだされ、事終わる。またこの度の厚心、生々世々の御高恩、受けし謙信公の御前へ宜敷頼み存じける。早速に礼儀をなし、最後の規式を整え、其の日の巳の上刻に切腹なされけり。平山伊之助御介錯申し、大貫長順丸と平山は続き腹をぞ切にけり。正木大蔵御首を給わりて、御孝養を問い給い、扨て蔵を開き財宝を諸勢に配分して、午の刻に各々城を出られて暇乞、越後表を催し愁い給うはことわりなり。
かくて寄せ手は城に火をかけ、勝ち鬨を作りて帰陣なられけり。
そもそも随見勝平は天文二十年辛亥(1550)三月二十九日、仁田山の城に出生して、天文六年戌寅九月十八日、二十八歳にて卒す。舎弟平四郎勝安天文二十三年甲寅秋出生日知れず。天文六今まで二十五歳にて卒す。寔(まことに)惜しき武者かなと、諸人袖をしぼりけり。
あらすじです。
養命の城に攻め込んで、思いっきり戦って、里見兄弟は高津戸城に引き上げました。
帰ってみると、味方の内30人ばかりが討たれ、特に弟兵四郎勝安が重傷で、翌朝18日の明け方死亡しました。
兄の随見は落胆して、正木大蔵を使者にして藤生紀伊守に伝えました。
「私はこれから自害します。応援に来てくれた越後勢早速に道を開き、越後に御返しください。」と。
藤生紀伊守は了承したので、随見は越後勢に謙信への報告を頼みます。
外の人々とも別れの盃をかわします。
そして、準備を整えその日の巳の上刻(御前10時ごろ)切腹します。
平山伊之助が介錯し、大貫長順丸と平山は続き腹を切りました。
正木大蔵は首をもらって供養を担当し、蔵を開いて財宝を諸勢に配分し、午の刻(お昼頃)には、みんな城を出ました。
寄せ手の由良勢は高津戸城を焼き払い、勝ち鬨を上げながら帰りました。
里見随見勝平は28歳、弟兵四郎勝安は25歳でした。
「まことに惜しい武士であった」と人々は涙を流しました。
あっけない里見兄弟の最期です
無茶をして、空振りの仇討ちでした
父の敵・石原石見とは、一戦も交えていません
最近まで、この話は本当にあった事と、人々は信じていました。
でも、現在はおおいに疑問符のつく話とされます
大間々町の「大間々博物館(コノドント館)」でも、以前は里見兄弟の仇討ちのビデオを見せていました
現在では見せていません。
高津戸城の南、阿弥陀堂に、里見兄弟の墓があります
説明板には、老談記とは違う事が書かれています
『桐生老談記』の里見兄弟の話を、整理しておく必要がありそうです
( 里見兄弟最期の事、付けたり、越後勢帰国の事、同落城の事 終 )
初稿 2019.12.20 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.12.21