黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

里見系図の事付けたり落城のこと・その8 (是れぞ両家の騒動の本としれり)

2024-08-18 21:58:02 | 桐生老談記の世界

暑すぎる一日です。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、晴れの日はお昼前後にお風呂場でシャワーです。

その後、ゆでたサツマイモでお昼ご飯です

 

元記事の頃、2019年6月のひめちゃんと七海ママです。

7年ぶりに実家に帰った獅子丸、遠慮なく自己主張して暮らしています。

獅子丸とタバサねーちゃんの共通点は、ぬいぐるみを解体新書しないことでした。

タバサねーちゃんのこの熊さん、まだお外のサークルに生存中です

 

 

 

里見系図の事付けたり落城のこと・その8 (是れぞ両家の騒動の本としれり)

紀伊守おとなしやかにせいすれば、

高橋短気の者なれば、なおなお、狼藉の振舞いかな、荒巻手の者に下知をなし、ふせがんとしけれども、はやりきつたる敵なれば、石をなげ、つぶてをうちて、番の者十四、五人、やにわに川へ打ち込み、番頭をも踏み込み勢い懸ければ、

荒巻も手向かいして犬死にせんも計り難く、後日に遺恨をはらし、「いかに高橋、よく性根に覚えよ」と断りすててぞ退ぞけり。

ここに荒巻式部は、源藏といとこにて、殊に月番の老中にて、関の水論のさい後をつぶさに申し、甚だ残念の様子を申しければ、「貴殿遺恨に思し召され候段尤もなり。去りながら露顕に及び候には、両家の騒動ともなるべき所、貴殿の了見をもってそれがしに語段神妙なり。」某し御前の首尾、宜しく申し直し、一先ず乱をしづめことわりをつくして申されければ、新蔵も聞き入れて少し機嫌も直り、高橋狼藉は疋夫の振るまいと、諸人あざけるなり。荒巻こそ誠の仁、軍者の勇所なりと諸人ほめぬ人こそなかりけり。此度びの水論喧嘩、是れぞ両家の騒動の本としれり。

 


あらすじです。

使者のトップ藤生紀伊守は制しましたけど、高橋丹波守は短気のものだったので、関を壊し続けてます。

関の番人荒巻新蔵は手下の者たちに指示して防ごうとしました。

でも戦闘モード全開の敵は番人たち14、5人さらには番人の頭までを川へ投げ込みました。
関のトップ荒巻は、ここで討ち死にするよりは後日に遺恨をはらそうと決め、「高橋、覚えておけo(`ω´ )o」と退却します。

桐生に帰って、いとこの月番の老中・荒巻式部に、ことの子細を話します。

荒巻式部は「両家のに騒動になる所だった。よく退却して、報告してくれた。」となだめます。

世間の人々は高橋狼藉は疋夫の振るまい、荒巻こそ誠の仁、軍者の勇所なりとほめました。この水論喧嘩これが桐生家由良家の騒動の本だったのです。




高橋丹波守は、前回は「高橋丹波短気の若者なれば」、今回は「高橋短気の者なれば」と繰り返されています

2019年6月、高橋丹波守の開基という祥雲寺(桐生市境野町)に行ってきました。

 

由良四天王高橋丹波守開基・瑞龍山祥雲寺


 

 

 

残念ながら高橋丹波守の面影はありませんでした。
でも、しっかり現代まで生き残ったお寺です


 

初稿  2019.06.28  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.18

 

(つづく)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里見系図の事付けたり落城のこと・その7 (高橋丹波短気の者なれば)

2024-08-16 08:48:45 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは赤柴の超老犬・プーちゃんの前を通って、堀之内を北に出て、岩神沼に行ってきました

沼には誰もいませんでした

 

帰り道もプーちゃんの前を通ります。

良かった

プーちゃんの姿が見えます

小屋の前には、深い深い穴が掘られていました。

猛暑を生き延びるために、一生懸命掘っているのでしょう

 

4年前(2021年)の8月は、獅子丸とよく行っていました。

そしてその上の岩神さま・高縄の磨崖仏までよく足を伸ばしました。

 

獅子くんは満面の笑みです

 

小次郎パパとタバサねーちゃんも、岩神沼コースを歩いていました。

パパの舌斑は、子供たちには遺伝しませんでした

 

 

 

 

里見系図の事付けたり落城のこと・その7 (高橋丹波短気の者なれば)

当然、里見兄弟の桐生氏への仇討ちになるはずですけど、何故か、桐生と新田の水争いの記事になってます

実は、里見兄弟の悲劇は由良氏との戦いによってもたらされるのです

その伏線です。



去れば桐生殿渡良瀬川にて、新田殿論(あらそい)数年に及び、桐生より是を御そえとて荒巻新蔵という者と知行の地下人を添えて、彼のせき番に差し置きけり。

しかる所に新田の御使者参着して、水ご所望の由、番頭申し達しけるには、荒巻是を承まわり、「自分愚案にて計り難く候、上へ訴え内談して後日にご返事致すべし」と、その宗りゆうちょう致し、仍って既に人々帰らせんとせし所に、

高橋丹波短気の若者なれば、緩々(ゆるゆる)との返事もどかしく思い、荒巻に向かって申しけるは、「是れ程の大河を此の要害の為計りに流し給うが、新田殿数年御こん望なられ、また此の度び神妙の使いを以て、御所望の所に違い成に及び給うこそ奇怪なり。なんぞ事に及べば誰に訴う所もなく、桐生殿あまりの我が侭のなされ方なり。向後此の関を閉じる事あるべからず」という侭に、手の者二十人計川に入て矢にわに関を切り流す。

 

 

難解語句です。

♥去れば・・・・・・そんなわけで


♥地下人・・・・・・官位を持たない名主・庶民など
         戦国期においては郷の有力者を指すことも


♥奇怪なり・・・・・・常識では考えられないことである



あらすじです。

そんなわけで、桐生氏と新田氏の間の水争いは数年に及びました。

桐生氏は、荒巻新蔵に添えて知行地の有力農民を一緒に、あの関所の番人として置きました。

そこに新田の使者がやってきて、水がほしいということを伝えました。

荒巻は受けたけれども、「自分では処理ができないので、上司に相談して後日返事をします」と言った。

高橋丹波は短気の者だったので、荒巻に向かって「これほどの大河を桐生の要害ばかりに流していらっしゃるけれど、新田どのは数年にわたって水を所望していて、今回正式の使者を立てて、水を流してほしいと申し入れたのに、この対応は常識では考えられません。何か事が起こったら、桐生殿のあまりのなされようが原因だ。今後この関を閉じてはいけません。」というと、手勢20人程で川に入って関を壊し、水を新田側に流しました

 


高橋丹波は、後に由良四天王の一人になります
そして、戦国の世が終わった後、桐生市境野にて帰農したそうです
そしてそして、境野にある祥雲寺の開基にもなりました

2019年6月に訪問しています。

由良四天王高橋丹波守開基・瑞龍山祥雲寺



 

初稿  2019.06.25  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.16

 

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里見系図の事付けたり落城の事・その6(突然水争いの記事に)

2024-08-13 23:27:29 | 桐生老談記の世界

午後から突然大雨になりました

土砂降りの雨でしたけど、ちょっと小降りになったときに、ひめちゃんとタバサねーちゃんは貧乏カッパでお散歩です。

2人の貧乏カッパ姿を探しました。

案外見つからないものです

 

2019年夏、獅子丸が実家に帰って初めて、三四郎の形見のレインコートを来た写真が出てきました

おそらく初めてレインコートなるものを着せられたのでしょう。

でも、かみつきもせず着てくれました

 

2020年7月、ひめちゃんと小次郎パパの貧乏カッパ姿です

小次郎パパのは、桐生市指定のゴミ袋を四角に風呂敷大に切ったものです。

まだレインコートに悪戦苦闘していたかな?

でも、背中だけでも雨に濡れないのは、犬たちにとってもいいことだったと思います

 

 

 

里見系図の事付けたり落城のこと・その6(突然水争いの記事に)

前回仁田山城が落城し、里見入道も自死させられました
石原兄弟は桐生氏の直臣になり、養命の出城を任されました

作者は、
石原兄弟は桐生家人となり、養命の出城在城せしめおのが栄花撰びしはにくまぬものこそなかりけり。
「石原兄弟にみんながブーイングしている」といいました。

さて、そうなると里見兄弟の登場となるはずです。
ところが、次に出てくるのは「桐生の城取立ての由来」という言葉です
「取立て」とは、無理矢理取る事でしょうか
確かに桐生城(柄杓山城ひしゃくやまじょう)は、由良氏に無理矢理取られたようですけど。
突然、桐生氏が柄杓山城を退去したいきさつが語られ始めます



桐生の城取立ての由来、

先年桐生在城これなき時、居館村と云う所、堀一重の平城を構え、代々の居住の所に国綱入道の時、頃は観応元辛寅(かのととら1350年)、同所柄杓山と云う所に少しの在城を取り立て、同二年春要害の為に登りて、荒戸村という所に、渡良瀬川を掘り、末は桐生川にひとしくて、実もゆゆ敷構えなり。
年月を積もりて、元亀二年迄、年霜二百十三年、これに依り新田領数年渭水にて、民家此の事を城主へなげきけるに、殊に其の年の夏、天下一同悉くかんばつに及び新田領渭水にて、城主御難儀に思しめし此度び水御所望成られ、御使者に藤生紀伊守、高橋丹波を添えて仰せつけられけり。



あらすじです

桐生氏が柄杓山城を退去させられたいきさつです。

桐生氏は最初は居館村と云う所に堀一重の平城を構え代々の居住の所にしていました。国綱入道の時、頃は観応元辛寅(かのととら1350年)、同所柄杓山と云う所に城を築き、観応2年に要害の地・柄杓山城に移りました。荒戸村という所に、渡良瀬川から掘りを彫って水を引いて、末は桐生川とつなげました。実にゆゆしいこと(あとで問題になりそうなこと)でした。

元亀二年(1571)まで213年間、此の事により新田領は数年間渇水(水不足)で、人民は領主の由良氏に水不足の解消を訴えました。

殊にこの年元亀二年の新田領の干ばつは深刻でした。

新田領主は桐生氏に水を分けてほしいということで、使者として藤生紀伊守、さらに高橋丹波を添えて遣わしました。


「桐生氏は最初は居館村と云う所に堀一重の平城を構え代々の居住の所にして」とは、柄杓山の南にある謂雲寺(いうんじ)のあたりです。



右奥の山が柄杓山(ひしゃくやま)です
桐生市の北部・梅田町にあります

「荒戸村という所に、渡良瀬川を掘り、末は桐生川にひとしくて」とは、新川(しんかわ)のことです。
こちらは、桐生駅の南の方になります

新川は、渡良瀬川と桐生川の間に掘られたといいます。
現在はほとんど埋められ、わずかに新川球場(しんかわきゅうじょう)とか、新川公園(しんかわこうえん)という名残しかないようです
桐生氏が渡良瀬川の水を引いてしまったので、下流の新田領は水不足になってしまったのです

 

 

初稿  2019.06.21  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.13

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里見系図の事付けたり落城の事・その5

2024-08-11 17:04:26 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、赤柴の超老犬・プーちゃんの前を通って、沼下のヒマワリ畑を通って、岩神沼に到着です。

沼には、大きなアオサギさんがいました

彼は、まもなく弾丸のように横に飛び去っていきました。

 

2021年8月、ひめちゃんと獅子丸の岩神沼の写真を探しました

カモの姿があります。

残念ながら、アオサギとの遭遇はなかったみたいです。

今朝も、アオサギが飛び去った後、小ぶりのカモ(?)が数名出現しました

 

 

 

里見系図の事付けたり落城の事・その5

去る程に山越は里見の臣、懐かしむ者日頃の素懐を達しつつ、甚だ喜び限りなし。

御前へ参上仕り、合戦の物語、委細を言上仕れば、親綱聞こし召し、入道その心底ならば、和睦の筋もあるものをよしなき兵乱に及び諸人の夥しく、また水沼清水が討ち死にも不憫なり、

扨て(さて) 大貫一族は大剛のものなれば、源左衛門をも首をはね、一族ともに獄門にかけべし、不憫なれども入道をも生害申しつくべし」との御定なり。

人々罷りたち、源左衛門は荒戸村鷺沼の岸にて首をはね、親子兄弟の首、桐生峠にて獄門にかけられけり。

其の日の酉の刻ばかり、清水喜太郎を御使者、森下森下作弥御見使にて、入道に生害を仰せつけらる。

即ち首は石原申し請け、御老養を問い給う。

実に入道、仁田山の城にて自害してこそ、武士の本意たるべきと、谷山に逃げ下り、詰腹に及ぶ事、世上の口に懸かり、恥ずかしき事どもなる如し。

石原兄弟は桐生家人となり、養命の出城在城せしめおのが栄花撰びしはにくまぬものこそなかりけり。

 


あらすじでまとめます

総大将の山越は勝利を喜んで、桐生親綱の御前に参上し合戦の様子を報告します。
親綱は「和睦の道もあったのに戦を死戦死者が出たのは残念だ大貫一族は大剛のものなので、生け捕った源左衛門は首をはね、一族みんな獄門に懸けよ。里見入道には自害を申しつけよ」と指示します。
家臣たちは指示に従い、源左衛門は荒戸村鷺沼の岸で首をはね、親子兄弟の首は桐生峠にて獄門にかられました
その日の夕方(酉の刻)に、清水喜太郎を御使者、森下作弥を御見使として、里見入道に自害が申し付けられました
首は石原兄弟がもらい受けて供養ということに
入道は仁田山の城にて自害してこそ、武士の本意たるべきであったのに、谷山に逃げ下り、詰腹に及ぶ事は世間でいわれても恥ずかしきことでありました
石原兄弟は桐生家の直臣になり、養命の出城をまかされました。



「山越は里見の臣、懐かしむ者日頃の素懐を達しつつ」の部分は、よく分かりません
山越は親綱に、佐野から付いてきたのでした
里見家の家臣ではありませんね

親綱の「和睦の筋もあるものを」という発言も、唐突な感じを受けます
だったら、戦いにしないで呼びつけて問い詰めればいいのに

「大貫一族は大剛のものなれば」とは、確かに大貫一族は大軍にもひるまずに雄々しく戦いました
でも、源左衛門ていたっけ
生け捕られたのは、孫左衛門のはずです
書き写す時のミスか、はたまた最初からのミスか


処刑場の荒戸村鷺沼は詳しくはわかりません
けれど、荒戸村は後に桐生新町つまり現在の桐生の本町通りですね

「実に入道、仁田山の城にて自害してこそ、武士の本意たるべきと、谷山に逃げ下り、詰腹に及ぶ事、世上の口に懸かり、恥ずかしき事どもなる如し。」は、作者の強い主張です。

そもそも里見入道は親綱に諫言を繰り返すほどの人物だから、もっと太っ腹にお利口に行動ができたはずです
里見入道のキャラクターが、ちょっというかかなり弱すぎです

石原兄弟はご褒美に、養命の砦(出城)をまかされたのです。
養命の砦は、川内町3丁目の瑠璃光山永明寺(るりこうざんようめいじ)だということです。

渡良瀬川ぞいの小高い要害の地です


 

初稿  2019.06.15 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.11

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里見系図の事付けたり落城の事・その4

2024-08-07 17:16:09 | 桐生老談記の世界

夕方5時前、遠くで雷鳴がしています

ひめちゃんは、そわそわ始めました

また「アタチ挟まってまふ」になりそう

とりあえずそこらをお散歩して通り過ぎるのを待ちます。

 

5年前(2019)の9月、お芋ご飯を頬張る獅子丸がいました

ご飯を炊くときに、細いサツマイモを一緒に入れると、ちょうど良く火が通ります。

よく、みんなでお昼に食べました。

みんな大好きでした

今でも、時折、お芋ご飯がお昼に出ます

 

 

 

 

里見兄弟の事付けたり落城の事・その4

籠城の人々には大貫佐兵衛、舎弟孫左衛門、嫡子彦七郎、同彦八郎、下頭には篠田與市、同六郎治を始めとして二十人に過ぎず、各心を一つとして、かかる大敵を引き請け、いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめんと、勇みすすんで打ち盾、物の具にかこめ馬に乗りて門戸を指し堅め、敵を遅しと待ちかけたる心の程ぞ頼母敷く、去る程に桐生勢、辰の刻斗に仁田山の城を取り巻き、攻め太鼓を打ち、時の声を発す。


城にても同じく、時を合わせ、寄手の大将山越は、白糸の腹巻に兜を嫡子、二十四刺したる白羽の矢負い、月毛なる馬に黒鞍置きて、一瞬に進み、扨も入道、逆心の思し召しある由、謙信を頼み兄弟を越後へ遣す事、親綱是を奇怪に思し召し、忽ちに打ち亡ぼすべしとの上意にて、山越出羽が討手たりとて高声によばわれば、

城内より大貫佐兵衛、黒革落し鎧着して、五十刺すしたる黒羽の矢負い、鹿毛なる馬に乗り出し、仰せの如く入道は先規の如く降参いたし、身にに誤りなき道利申し開くべしと、石原を御供にて城を退き候、是に背かず、大貫一家、爰に踏みとどまり、御出陣の磨きにさびたりとも、ご馳走申すべし、請け留め給え。」と弓矢をならし、矢をあわせ差しつめ引き詰め、互に矢軍夥舗(おびただしく)、矢種もつきれば、両陣互に、鉾先を揃えて戦いしが城兵大方討たれ、佐兵衛も漸くに木戸口に引き退き、城に火をかけ煙をあげ、敵陣に切って出て誠に人馬の嫌なり。

死に物狂いに切って廻る所に、清水、水沼上下十五人にて大貫を取り巻き、討ち取らんとしたりしが、大貫無双の早業にて、清水、水沼を長刀にて懸けたおし、終に首を討ち取る所に、また寄せ手より荒巻兄弟かけつけ、佐兵衛親子を矢ずくめにして、注意に討ち落としけり。

舎弟孫右衛門は風間伊之助くんで生けどられけり。

大貫一家討たれければ、軍は忽ち破れ、さながらに寄せ手は勝時を作り、喜び帰陣致したりける。

 



あらすじというか、大意です。

(里見兄弟の父・里見入道は、石原兄弟を連れて、仁田山の城を落ちました。)


「大貫佐兵衛、舎弟孫左衛門、嫡子彦七郎、同彦八郎」など、大貫さんを中心に、約20名が籠城しました。
「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめん」と、待ち構えます
桐生勢が辰の刻(午前8時前後)に打ち寄せます
里見入道が攻められる理由は、「謙信を頼み兄弟を越後へ遣す事、親綱是を奇怪に思し召し、忽ちに打ち亡ぼすべしとの上意」です
死もの狂いで戦っても勝ち目はなく、大貫一家が討たれて敗戦が決定してしまいます



「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめん」とは、桐生老談記の書かれた時代の美学でしょう
「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめんと、勇みすすんで打ち盾、物の具にかこめ馬に乗りて門戸を指し堅め、敵を遅しと待ちかけたる心の程ぞ頼母敷く(こころのほどぞたのもしく)」と、この時代の美学に酔いしれたように作者が顔を出します

里見入道が攻められる理由は、もっぱら「謙信を頼み兄弟を越後へ遣す事」ですね

里見入道はなぜ桐生親綱に諫言を繰り返したり、息子たちを謙信の許にやったのでしょう?

この仁田山の城攻めは元亀元年3月のこととされています。
上杉輝虎が法名の不識庵謙信を名乗るのは、元亀元年12月のことです

まだ謙信はいないのですけど

 

桐生勢はどこからやってくるのか?

桐生氏の居城は柄杓山城と言われています。

けれども、普段は麓の謂雲寺(いうんじ)の辺りに居住していたと言います。

この案内図の日枝神社の近くです。

後ろに柄杓山が見えます。

 

 

初稿  2019.06.10  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.07

 

 

(つづく)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする