黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

中世仁田山鄕

2024-08-04 21:57:01 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんの夕方のお散歩の時に、東の空の遠くの方に稲妻が見えました

帰り道、パラパラと降り出しますが、さほどの降りではありません。

ひめちゃんはお外のサークルで、晩ご飯の予定でした。

まもなく、三度目の「アタチはさまってまふ」です

6面サークルのパーツのつなぎ目から脱走しようとして、手が挟まってしまったのです。

やむなくポールの1本を抜いて救出です。

ひめちゃんは、めでたく室内犬です

まもなく、北東方向にすさまじく大きな雷鳴と光です

もしかして、ひめちゃんには雷の足音が聞こえていたのかな

 

昨日あたりから、ひめちゃんちの近くでは、案山子(かかし)が出現しています。

ひめちゃんは、「不審者じゃあ

 

5年前、2019年の8月の映像でも、案山子が出演しています。

稲穂が頭(こうべ)をたれるのも、もうじきです。

 

 

 

『桐生老談記』には、里見兄弟の父・里見入道勝広は仁田山城主だったとされています。
仁田山とは、聞き慣れない地名です
けれども、中世には「仁田山郷」がありました


『角川地名大辞典(旧地名編)』に、仁田山郷がありますので、確認です


仁田山郷(中世)

戦国期に見える郷名山田郡のうち地名は,沼沢地を意味するアイヌ語のニタに由来するともいう。天正元年と推定される年未詳12月27日の藤生紀伊守宛由良成繁書状(東京大学文学部所蔵由良文書/県史資料編7)には,由良氏の要害普請に用いる用材について「以前仁田山衆之剪候木とも,馬を云付必可差越候」とあり,当地周辺から伐採されたことがわかる。天正2年2月朔日の由良成繁宛行状(広沢前原氏文書/群馬県古城塁址の研究)では「仁田山郷之内後東寺三貫文地,充置候処,不可相違有候」と見え,当郷内所領が山同主税介に宛行われており,当地が由良氏の勢力下に置かれていたことがわかる。天正2年と推定される年未詳10月18日の由良国繁宛足利義氏書状写(集古文書/埼玉県史資料編6)によると,同年当地方に進出した上杉謙信と由良氏との合戦について「谷山落居之由,一段無心元候,併楯籠人数無恙之由,簡要候」と見え,谷山における合戦の由良方の不利を気遣い,北条氏照の援軍が下総栗橋に在城している旨を告げている。谷山における合戦については足利氏側と上杉氏側との認識に混乱があり,同年と推定される年未詳10月19日の上杉謙信書状写(太田文書/同前)では「自沼田抱候向仁田山・横瀬……従十三取詰,十五即時ニ攻覃,彼城ニ籠者共,一駄一人不残,男女共ニ悉なてきりニ成之候」と見え,仁田山城を攻略したとある。谷山城は桐生市川内町5丁目の字麦生小路の北方にあり,遺構は現存している。また仁田山城はその北東方の石尊山頂にあり,谷山城とともに一体を成していたものである。大正8年3月9日の武田勝頼定書(北条文書/県史資料編7)に「為金井新右衛門尉分改替,仁田山一跡被下置畢」と見え,当地が北条長門守に宛行われており,当地は一時的に武田氏の支配下に置かれたと推定される。天正12年5月28日の阿久沢彦次郎宛て北条家朱印状(京都大学所蔵阿久沢文書/同前)には「仁田山之内」として塩原・あさ原・小平・塩沢・高津戸などの地を,五覧田攻略の戦功により宛行っている。天正13年12月7日の極楽院鎮良判物写(極楽院文書/同前)では,本山派の修験宗で上野国年行事職を持つ極楽院が了大寺に対して桐生の総年行事職を預け置くとともに「広沢・仁田山之儀」に相違なきよう命じている。室町期に上仁田村・中仁田村・下仁田村に分かれたという(山田郡誌)。現在桐生市川内町に仁田山の字名が残っており,郷域は渡良瀬川が大間々町から桐生市にかけて湾曲して流れる内側左岸の地域で,現在の桐生市川内1~5丁目から大間々町東部を含む地域と考えられる。             
  「角川日本地名大辞典(旧地名編)」


現在の桐生市川内1~5丁目から大間々町東部、つまり塩原・あさ原・小平・塩沢・高津戸などが仁田山郷だったということになります


要害山城(高津戸城)、阿弥陀堂、自音寺はみんな仁田山郷だったのです

間に山はありますが、山を越えて一つの鄕だったのです。

川内の延命寺を自音寺が兼務しているのも納得です。

 

円空仏がある成満院や楠正成の愛馬をまつったという岩穴観音がある小平(おだいら)も、仁田山鄕だったのです。

 

里見入道が落ちていった谷山(やつやま)城もけっこう出ています
でも、桐生氏の影はありません

 

 

初稿  2019.05.17   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.03

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里見系図の事、付けたり落城の事・その3

2024-08-02 17:53:40 | 桐生老談記の世界

今日も、暑い暑い一日です。

夕方のお散歩は、6時半過ぎかな

ひめちゃんは、夕方は南の方にしっかりお散歩します。

途中で引き返すことなく、中学校の信号付近まで行きます。

この時間に出ると、日没との関係で、ギリギリライトなしで帰れます

 

昨年8月のある朝の、ひめちゃんとタバサねーちゃんです。

諏訪神社の向こうの高台まで、タバサねーちゃんも、お散歩できました

タバサねーちゃん、16歳と1ヶ月です。

目は見えないけれど、体力はまだまだあります

長生きしてね

 

 

 

里見系図の事、付けたり落城の事・その3

 

さる程に桐生出陣の由、里見入道大いに驚き、その日の早旦に家の子を集め、軍(いくさ)評定まちまちなり。

石原兄弟申しけるは、「此れらの城に無勢にて籠もりて、大敵を引き請けん事余りなり。危きを恐れざるは軍師の教えに多からず所なり。且は大将家に至る迄、軍慮兵書の不足に似る。一先づ谷山御開き重ねてよろしく、御思案を廻らし、せつに望みて死をのがれ、二度義兵を揚ぐること、是れ名将の教えなり。早く早く」といさめける。

大貫兄弟気色をかいて、「いかに石原その方は、里見の家の両臣、今日迄も方をならべし口惜しさよ。左程命惜しくば入道の御首を取りて、敵陣へ下り降参せよ。御名残多きは越後に御座あるご兄弟なり。此の節有り合うは御運の末、思えば無念の有様なり。」

いかる眼に涙を浮かべて言いければ、上下の感心限りなく如くして、入道、石原兄弟を召し連れて、城を已に落ち玉う。


(意味の取りにくいところが多いので、大意でいきます

元亀元年(1570)3月20日早朝、桐生勢は仁田山に向けて出陣します。

そのことを知った里見入道は大いに驚いて、朝早くに家臣達を集めて軍議を開いた。

意見はまとまらなかった。

石原兄弟が言うことには、「この城に籠もって大勢の軍と戦うなんて無理な事です。危うき期を恐れないのは、軍師の教えに多いです。でも、それは軍事的知識の不足が問題です。いったん谷山(やつやま)に退いて思案を廻らして、なんとか生き抜いて、再び正義の兵を挙げることが、名将の教えです。はやくはやく。」と諫めた。


大貫兄弟は血相を変えて、「石原よ其の方は里見家の重臣だろう。今までそう思って肩を並べてきたのが口惜しい。それほど命が惜しいのなら、入道殿の首を取って敵陣へ降参せよ。越後においでのご兄弟が名残惜しいことだ。今こういう事態になったのは、そうなる御運だったのだろう。思えば無念の有様である。」と。

怒る眼に涙を浮かべて言ったので、みんま深く感心したようだったけれど、入道は石原兄弟を連れて、城を落ちていってしまわれた。

 



桐生勢は仁田山城に向けて出陣しました。

『新田老談記』では、赤萩の館に出陣ですけど、『桐生老談記』では仁田山城に向けて出陣です。
仁田山城は、現在の桐生市川内町の奥にあった山城です



数年前、麓まで行きました。
登り口が分からず準備不足で断念しました

 

先日、近くまで行く機会がありました



ここを左折して見ましたが駐車もできないし、なんとかUターンして帰りました

それにしてもこの後ろの山の上では、生活は不便でしょう。
戦いの時に籠もると言っても・・・・・・?

城主の普段の生活の場は、この交差点の反対側だそうです
反対側は地域の集会所になってました

小さなお堂と石造物がいっぱいあります。

一番右の新しい石造物によって、ここにはかつてお寺が存在したことがわかります。

「十輪山重蔵院蓮慶寺」、1世から12世までの住職の名が刻まれています。
「東方山?延命寺末」


近くの地図を見ると、川内5丁目に延命寺があります

延命寺は、『ぐんまのお寺 真言宗Ⅰ』(平成13 上毛新聞社)によれば、

川内町5丁目は、古い時代に仁田山鄕と呼ばれていた。慶長三年(1598)には下仁田山村、中仁田山村、上仁田山村、名久木村の四村が成立している。明治9年四村は合併して山田村となった。

当寺はこの旧山田村のほぼ中央にあり、山田郡の閑静な場所にある。天正18年(1590)の記録を元にしているという『山田郡修験旦那分割控帳』に「仁田山・延命寺」と記されて居るので、当寺は修験の院房であったが、すでに寺鄕を称していたことがわかる。

しかし『山田郡村誌』(明治13年刊)に は、「東西18間 南北23間 面積339坪 村ノ中央ニアリ 真言宗紀伊国高野山無量寺末 開基創建年度詳ナラズ。」と記されている。

 

そして現在は高津戸の自音寺が兼務しているとも記されています。

奇遇なことに、里見兄弟の墓といわれる五輪塔郡のある阿弥陀堂を管理しているのも自音寺です

延命寺は、旧山田郡山田村の中央にあるのです。

旧山田郡山田村、とても気になります。

そういえば、延命寺、まだ訪問していません

是非、訪問しなくてはいけませんね

 

初稿 2019.05.13        FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿 2024.08.02

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする