
明治維新後ある人物が帝都を秋田に移すべしと唱えていました。その人物とは佐賀藩主だった鍋島直正です。

鍋島直正が北進論を唱え、帝都を秋田に移すべきと論じた背景には、当時の国際情勢と国内情勢が複雑に絡み合っています。
1. ロシアの南下政策への危機感
19世紀後半、ロシアは南下政策を積極的に進めており、日本を含む東アジア諸国にとって脅威となっていました。
鍋島直正は、ロシアの南下政策を警戒し、日本の防衛体制を強化する必要性を強く感じていました。
特に、ロシアが蝦夷地(北海道)や樺太に進出する可能性を危惧し、北方防衛の重要性を訴えました。
2. 秋田の地理的優位性
鍋島直正は、秋田が北方防衛の拠点として地理的に優位であると考えました。
秋田は、蝦夷地や樺太に近く、ロシアの南下を阻止するための防衛拠点として適していました。
また、秋田は比較的安全な場所であり、万が一の場合でも帝都を移転することで国家の中枢機能を維持できると考えました。
3. 国内政治の混乱
幕末の国内政治は混乱しており、尊王攘夷運動や倒幕運動が激化していました。
鍋島直正は、国内政治の混乱を収拾し、国家の統一を図る必要性を感じていました。
帝都を秋田に移転することで、国内政治の安定化を図ることができると考えました。
4. 鍋島直正の政治的意図
鍋島直正は、佐賀藩の藩主として、幕末の政治において重要な役割を果たしていました。
北進論を唱え、帝都移転を主張することで、自身の政治的影響力を高めようとした可能性があります。
また、佐賀藩が北方防衛において重要な役割を担うことで、藩の地位向上を図ろうとした可能性も考えられます。

鍋島直正が北進論を唱え、帝都を秋田に移すべきと論じたのは、ロシアの南下政策への危機感、秋田の地理的優位性、国内政治の混乱、そして自身の政治的意図などが複雑に絡み合った結果であると考えられます。
鍋島直正の主張は、当時の国際情勢と国内情勢を反映したものであり、日本の近代史において重要な意味を持っています。
補足
鍋島直正の北進論は、後の日本の北方政策に影響を与えたと考えられています。
明治政府は、蝦夷地を北海道と改称し、開拓を進めることで北方防衛を強化しました。
また、日露戦争においては、日本の勝利によってロシアの南下政策を阻止することに成功しました。しかし,ノモンハン事件でソ連の本当の強さを思い知り北進論から南進論へと転じ,それが太平洋戦争へと進んでしまったのである。もし、北進が推し進めソ連に敗北していたら日本は社会主義国になっていたのかもしれないし,ソ連に勝っていたら,首都は秋田都なんてことになっていたかもと思うとお面白いのである。
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