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由利中八と維平は別人だった

2022年11月03日 14時01分00秒 | Weblog
吾妻鏡九巻の一文が由利を騒然とさせている。

吾妻鏡九巻

「文治五年(1189)九月小七日甲子。宇佐美平次實政生虜泰衡郎從由利八郎。相具參上陣岡。而天野右馬允則景生虜之由相論之。二品仰行政。先被注置兩人馬并甲毛等之後。可尋問實否於囚人之旨。被仰于景時。々々〔着白直垂折烏帽子。紫革烏帽子懸〕立向由利云。汝者泰衡郎從中有其号者也。眞僞強不可搆矯餝歟。但任實正可言上也。着何色甲者。生虜汝哉云々。由利忿怒云。汝者兵衛佐殿家人歟。今口状過分之至。無物取喩。故御舘者。爲秀郷將軍嫡流之正統。已上三代。汲鎭守府將軍之号。汝主人猶不可發如此之詞。矧亦汝与吾對揚之處。何有勝劣哉。運盡而爲囚人。勇士之常也。以鎌倉殿家人。見奇恠之條。甚無謂。所問事。更不能返答云々。景時頗頳面。參御前申云。此男惡口之外。無別言語之間。無所欲糺明者。仰云。景時依現無礼。囚人咎之歟。尤道理也。早重忠可召問之者。仍重忠手自取敷皮。持來于由利之前令坐之。正礼而誘云。携弓馬者。爲怨敵被囚者。漢家本朝通規也。不可必稱耻辱之。就中。故左典厩。永暦有横死。二品又爲囚人。令向六波羅給。結句配流豆州。然而佳運遂不空。拉天下給。貴客今雖蒙生虜之号。始終不可貽沈淪之恨歟。奥六郡内。貴客備武將譽之由。兼以聞其名之間。勇士等爲立勳功。搦獲客之旨。互及相論歟。仍云甲云馬。被尋畢。彼等浮沈。可究于此事者也。爲着何色之甲者。被生虜給哉。分明可被申之者。由利云。客者畠山殿歟。殊存礼法。不似以前男奇恠。尤可申之。着黒糸威甲。駕鹿毛馬者。先取予引落。其後追來者。嗷々而不分其色目云々。重忠令皈參。具披露此趣。件甲馬者。實政之也。已開御不審訖。次仰曰。以此男申状察心中。勇敢者也。有可被尋事。可召進御前者。重忠又相具之參上。被上御幕覽之。仰曰。己主人泰衡者。振威勢於兩國之間。加刑之條。難儀之由。思食之處。無尋常郎從歟之故。爲河田次郎一人被誅訖。凡管領兩國。乍爲十七万騎之貫首。百日不相支。廿ケ日内。一族皆滅亡。不足言事也。由利申云。尋常郎從。少々雖相從。壯士者分遣于所々要害。老軍者依不行歩進退。不意自殺。如予不肖之族者。又爲生虜之間。不相伴最後者也。抑故左馬頭殿者。雖令管領海道十五ケ國給。平治逆乱之時。不支一日給而零落。雖爲数万騎之主。爲長田庄司。輙被誅給。古与今甲乙如何。泰衡所被管領之者。僅兩州勇士也。数十ケ日之間。奉惱賢慮。一篇不可令處不覺給歟云々。二品無重仰。被垂幕。由利者。被召預重忠。可施芳情之由。被仰付云々。」

現代語では以下のようになります。
 文治五年(1189)九月小七日甲子。宇佐美平次実政は、泰衡の家来の由利八郎を捕虜にして、連れて陣岡に参りました。ところが、天野右馬允六郎則景が自分が生け捕ったのだと争いになりました。頼朝様は、(二階堂)行政に命じて、双方の馬の毛並みと鎧の威し紐の色を書き出させておいて、その上で事の真偽を囚人(めしうど)に聞くようにしなさいと梶原景時に伝えさせました。
梶原景時〔白い直垂に風折れ烏帽子を着る。紫の皮紐の烏帽子です〕由利に立ったまま向かって云いました。「お前は、泰衡の家来の中でも、名のある武将であろうから、事の真偽を無理に取り繕う必要はない。正しい事だけを云えばよいのだ。何色の威しの鎧を着た者が、お前を生け捕ったのだ?」由利は怒って答えました。「お前は、兵衛佐頼朝殿の家来か。今の物言いは、身分を逸した物言いだぞ。例えようもないほどだ。故御舘藤原秀衡様は、俵の藤太秀郷将軍の直系の正統な子孫なんだぞ。奥州藤原氏三代は鎮守府将軍を拝命した家系である。お前の主人の頼朝様さえも、そのような物言いはしないだろう。それに又、お前と私は家来同士という同格の身分ではないか。どちらが上ということはないだろう。たまたま運が無くて囚人となるのは、勇敢の武士には良くある事なのだ。それを鎌倉殿の家来の癖に、とんでもないおかしな態度を表されても、云う事なんか何もない。ましてや、質問に答える必要もない。」との事。
梶原景時は、顔を真っ赤にして、頼朝様の御前に行き申し上げました。「あの男は、文句ばっかり言っていて、ちゃんと説明をしないので、糾明のしようがありません。」といいました。頼朝様がおっしゃられるのには「梶原景時は、無礼な態度をしたので、囚人がそれを怒っているのだろう。それは確かに道理が通っている。早く畠山重忠を呼んで、質問させなさい」と云われました。それなので、畠山次郎重忠は自分で敷皮を持って、由利の前へ来てそれに座って、きちんと礼儀正しく挨拶をしてから云いました。

「弓馬に関わる職業の武士として、敵に捕われてる事は、中国でもこの日本でもよくあることで、必ずしも恥ずかしい事ではありません。ましてや、故左典厩〔義朝〕様も、永暦年中に途中で死にました。頼朝様も囚人となって六波羅の平家へ連れて行かれ、あげくに伊豆へ流罪になりました。それでも、運が無かった訳ではないので、天下を治めることになりました。貴殿も今は捕虜の身となってはおりますが、将来にまで悲観の恨みを残すことはないでしょう。奥六郡の内では、貴殿は武士としての勇敢な誉れがあり、その名を予め聞いています。それで勇士達も手柄を立てたいと、貴殿を捕えたと、互いに主張しあってもめているのです。そういう訳で鎧や馬の色を聞いた訳なのです。それで彼等の手柄の有る無しも決まるのですが、何色の鎧を着た者に生け捕られたのですか?はっきりと云って下さい。」と云ったので、由利も言いました。「貴殿は畠山殿ですか。特にきちんとした礼儀を心得ておられ、先ほどの男の礼儀知らずとは似てもにつきませんので、ちゃんと申し上げましょう。黒糸威しの鎧を着て、鹿毛の馬に乗った人が、私を捕まえて馬から引きずり落としました。その後で、追ってきた者は沢山居て、後は見分けがつきませんでした。」だそうだ。

畠山重忠は、戻ってきて内容を細かに報告しました。その色の鎧と馬は、宇佐美平次實政です。これで、問題ははっきりとしました。ついで(頼朝様が)おっしゃられたのは、「その男の云っている事で心中を推察すると勇敢な者であろう。聞いてみたい事があるので、私の前へ連れてきなさい。」と申されました。畠山重忠が、連れてまいりました。

幔幕を上げられて彼を見て、仰せになられました。「そなたの主人泰衡は、その権威を陸奥出羽の両国に振るっていたので、罰を加えるのに、大変な事かと思ったが、まともな部下が居なかったようで、川田次郎に一人で殺されてしまった。なんと両国を管理して、十七万騎もの部下を持つ大将なのに、百日も支える事が出来ず、たった二十日で一族が滅びてしまった。云うほどのことでもなかった。」
これに対し由利が云いました。「まともな部下も多少はおりましたが、若い武将はあちこちの砦に派遣され、年老いた武将は、思うような動きもとれないので、やむを得ず自殺してしまいました。私のような不肖の連中は、生け捕られてしまったので、最後までお供を出来ませんでした。だいたい、故左典厩〔義朝〕殿は、東海道の十五カ国を管理しておられましたが、平治の乱で一日も支えられないで落ちぶれたじゃないですか。数万騎の大将であっても、長田庄司忠致のために簡単に殺されてしまいました。昔と今と甲乙つけがたいですね。泰衡が管理していたのは、たった二カ国の軍隊ですよ。数十日でも抵抗をして悩ませましたよ。簡単に不覚を取った奴だと言わないで下さいね」
頼朝様は、これ以上の言葉を失って幔幕を下げました。「由利は、畠山次郎重忠の預かり囚人(めしうど)にして、充分大事にするように。」と、命じられました。

今までは、由利仲八郎維平が由利の地頭になっているので、中八が由利に戻ってきた事になっていましが、実は由利八郎維平は由利中八とは別人という事が分かってきたのです。
中八は畠山重忠に預けられただけでそれ以上の情報はないのです。処刑されなかっただけで、由利に戻ったという表記はありません。

中八は許されてまた由利に戻ってきた事になっている史誌が多く、誰もがそう思っていたので、揺らいでいます。


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