自然コレクション

秋田の田舎暮らし!
アウトドアー生活を紹介します。

内越氏調査

2023年07月11日 06時08分58秒 | 郷土史

内越氏を調査をしていると、矢島に入部する1623年以前には、楠木正成と関りがあることが分かってきた。

1334年(建武元年)、後醍醐天皇は、楠木正成に対して、出羽国の内陸を縦断する羽州街道(国道13号線)の入り口にあたる出羽国屋代松(山形県東置賜郡高畠町)の地頭職を下賜(かし)しています。

また、陸奥国を縦断する奥州街道(国道4号線)の入り口にあたる多賀城には北畠顕家が地頭です。

出羽国の沿岸を縦断する羽州浜街道(国道7号線)の入り口にあたる大井田城(日本海側)に新田義貞をが地頭です。

楠木正家は、守備する常陸国久慈郡の瓜連城(うりづらじょう)を前線基地として東国の守備を固めていました。

その後、楠木正家は瓜連城が落城すると鎮守府将軍・北畠顕家を頼って陸奥国へ落ち延びました。

その後、出羽国へ移って南朝勢力を支援しながら再起を図ります。

由利地方(国道7号線沿い)や横手地方(国道4号線沿い)に楠木氏の末裔の分布があるのはこのような歴史的な経緯があります。

1347年(正平2年)、北畠顕家の弟・北畠顕信は霊山城が落城すると出羽国へのがれました。

また、1351年(正平8年)、再び現福島県須賀川の宇津峰城等が落城すると出羽国由利郡へ潜伏して再起を図っていました。

北畠顕信が出羽国由利郡へ潜伏していた時期に、鳥海山大物忌神社に納めた南朝復興と出羽国静謐(せいひつとは、 世の中が穏やかに治まっていること)を祈願する寄進状が残されています。

1350年頃に楠木正家の子・楠木正安が「打越将監」と名乗ります。











楠木正家が打越城(白坂館)を構えた出羽国仙北郡打越郷の地名である「打越」と楠木正安の官位である「将監」から打越将監となったのです。

ちなみに「うつこし」とふりがなが標柱には書かれています。

また、小笠原大和守の三男・義知が楠木正家の娘の婿養子に入り、出羽国由利郡内越村に築いた内越城(平岡館)に移って「内越」と名字を改めました。

これが打越氏(内越氏)の発祥と思われます。

よって、打越氏(内越氏)の事実上の発祥地は、打越城(白坂館)を構えた出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)ということになります。

また、豊臣秀吉から下賜された御朱印状を根拠とする打越氏(内越氏)のの発祥地は、出羽国由利郡内越村となります。

このような経緯から打越氏と内越氏の2つの表記が混在することになったと言われます。

1390年~1394年(明徳年間)、楠木(内越)正宣は楠木一族の菩提を弔うために、出羽国由利郡内黒瀬村に恵林寺を建立しました。(開基)











境内には楠木(内越)正宣の墓があります。

寺紋は菊水紋です。

今回はここまで!

 

 

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カキドオシの効能

2023年07月10日 08時13分24秒 | 薬草

カキドオシが大きくなってきました。

裏山に群生しています。

カキドオシは、日本全国に分布するつる性の野草です。別名「垣通し(かきどおし)」とも呼ばれ、古くから食用や薬用として利用されてきました。

カキドオシの葉は、タンパク質、ビタミン、ミネラルなどを豊富に含んでいます。特に、ビタミンCはレモンの約2倍、カルシウムは牛乳の約1.5倍含まれています。また、カキドオシの根は、糖尿病や高血圧などの予防に効果があるとされています。

カキドオシの活用方法は、主に食用と薬用です。食用としては、葉を天ぷらや煮物、炒め物などにして食べることができます。

また、根を煎じて飲むと、糖尿病や高血圧などの予防に効果があるとされています。

疳とり草ともよばれ、子供の疳の虫に効くとされています。

ADHDの子供に飲ませると落ち着くかもしれません。

カキドオシは、健康に良い野草です。ぜひ、食卓に取り入れてみてください。

以下に、カキドオシの効能と活用方法を詳しくご紹介します。

効能

  • 糖尿病予防
  • 高血圧予防
  • 動脈硬化予防
  • 骨粗鬆症予防
  • 便秘解消
  • 疲労回復
  • 美肌効果

活用方法

  • 葉を天ぷらや煮物、炒め物などにして食べます。
  • 根を煎じて飲みます。
  • 葉を乾燥させて、お茶として飲みます。
  • 葉をすりつぶして、傷や湿疹に塗ります。
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西林寺に行ってみよう

2023年07月08日 04時25分00秒 | 霊場
今回は大内の西林寺です。
国道105号を大仙に向かって右側に西林寺はあります。松本集落から見ると芋川の向かいになります。






欄干の付いた赤い橋を渡ると山門が見えてきます。
境内には池の庭があり歴史を感じます。




創建は寛永7年(1630)で岩城亀田藩が宗教政策の一環として開かれたお寺です。




現在の建物は大正6年(1917)に建てられたもので、赤田の大仏で有名な是山和尚が長老の位を得る為、この寺で立職したと言われています。


本堂の前には是山和尚と思われる銅像があります。
亀田領三十三観音霊場第五番札所です。
是非参拝して下さい。
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大内地区の調査 諏訪神社

2023年07月07日 04時10分00秒 | 霊場
倉沢諏訪神社は集落にある高台に鎮座しています。集落の奥まった所にある為、付近住民の人達以外は分かりにくいかも知れません。

苔むした階段はなんとも言えなく素朴で集落の歴史を伝ているようです。鳥居の前の巨大な杉は集落をずっと見守っているかのようです
本荘から国道105号を東へ約6km。向沢(むかいさわ)の諏訪神社境内に3本の大杉があります。カーナビがないと無理です。




 最大のスギは、石段を登り切ったところ。鳥居の手前、向かって右側(左図)。見た感じ、今は6mを超えているのではないだろうか。
 左側のスギも大きい。これが境内三番手。
 第二の大杉は、拝殿の手前、向かって右。
 第一の大杉の荒々しさに対して、こちらは気品のある美しい姿。対比の意味で好一対をなしている。
 秋田県神社庁の神社紹介ウェブサイトによると、延宝2年(1674)、現在の大倉沢字沖田に信濃諏訪社の分霊を勧請。寛政6年(1794)、現在地に遷座したといいます。




鳥居杉と呼んでよさそうな立ち位置から、大杉は遷座の頃に植えられたのではないかと想像するが、遷座の際に村内の6神を合祀したとも伝えることから、ここには遷座の前から何らかの神社があった可能性もあります。




 もしかしたら、この地では、諏訪神社よりも大杉の方が先輩なのかも知れません。

大倉沢諏訪神社の宮殿は窓越しからしか見れませんでしたが 江戸中期に造られたそうで、かなり重厚な造りになっていました。



由利本荘市には諏訪神社が多いのは、藩主六郷氏と関わりがあるものと思われます。
ここは由利本荘市指定文化財になっています。
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大内地区調査 いきなり日本カモシカ

2023年07月06日 04時15分00秒 | 霊場
昨日は、大内地区の市指定の文化財を調査した。




切通稲荷神社へ向かう。
切通稲荷神社は長坂稲荷神社の事です。
最近毎日のように大内地区での熊情報が出されているので少々びびっていました。
さて場所は長坂集落の後ろの山にあって全く駐車スペースがありません。集落の中で鳥居があるので場所はわかりましたが、道路はすれ違いできない狭さです。


とりあえず、近くに車を置いて階段を登った階段は木材で土止めされたもので草が生えていて整備されていません。
結構なのぼりで、神社周辺は鬱蒼とした森の中です。

切通稲荷神社は慶長5年(1600)京都伏見稲荷の分神を伊藤氏が加賀より移住の際伝えたのが始まりとされています。
五穀豊穣、商売繁盛の神様としても周辺住民から広く信仰されています。現在の社殿は明治17年(1887)に再建されたもので、幕末から明治に掛けての由利本荘周辺の建築に見られる華麗な造りになっています。




特に向拝の彫刻が凝っており、様々(龍、鳳凰、獅子、象、鯉、兎、力士、亀など)な縁起物が掘り込まれています。
これは見事なものです。



由利本荘市(旧大内町)指定文化財に指定されています。
狛犬に狐様が寄り添っています。
ただビビったのは、ドサという音で、社殿からカモシカ降りてきました。。一瞬熊かと思いましたがカモシカでよかったです。



この神社では、天明年間から始まったと云われる長坂梵天祭が有名です。旧暦2月の初午に、五穀豊穣・商売繁盛・交通安全などを祈願し、梵天奉納が行われます。喧嘩梵天と言われる凄いみたいです。
これは由利本荘市指定無形民俗文化財に指定されています。
これは岩城氏入部400年と絡める事ができそうです。

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折渡の千体地蔵のパワー

2023年07月05日 02時55分00秒 | 霊場

折渡千体地蔵は、秋田県由利本荘市岩谷麓にある地蔵尊です。今から約220年ほど前に、赤田大仏の長谷寺を建立した是山和尚が建てた延命地蔵尊のまわりに、寄進された千体の地蔵が並んでいる霊場です。



昔から通行の難所だったこの地で、通行人の安全祈願と、イボとり地蔵として有名です。



とてつもないパワーで地域の信仰の霊地となっています。



折渡千体地蔵は、秋田県由利本荘市岩谷麓にある地蔵尊。今から約220年ほど前に、赤田大仏の長谷寺を建立した是山和尚が建てた延命地蔵尊のまわりに、寄進された千体の地蔵が並んでいます。




こられの地蔵さまをこれまで地域の方や参拝される方がきちんと信仰して守ってこられたこともあり、温かくも力強いエネルギーが地蔵様に宿っています。




峠には紫陽花が植栽され、今ございますまさに見どころです。ただ、熊の気配を感じました。







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松ヶ崎 八幡神社 国指定です。

2023年07月04日 02時39分00秒 | 霊場

松ヶ崎の八幡神社の調査です。国指定です。以下が由緒になります。



文治2年(1186年)山城の国、岩清水八幡を奥州岩城平の城山の地に勧請し、岩城家歴代の鎮守たりと伝う。




奥州藤原泰衡叛を謀るに及び、源頼朝、千葉之助常胤に命じて東征せしむ。
常胤同社八幡へ戦勝祈願を致して、深く信心を表したという。





後に泰衡亡び、常胤帰陣と共に、頼朝いたく喜び、その特命によって社殿を飯野山の地に再建させ飯野八幡と称し、新たに社領88町の地を寄進した。
関ヶ原の合戦後元和8年(1622年)岩城家羽後の国亀田を領するに当り、御神体を保護し同国に至り、寛永元年(1624年)松ヶ崎村亀井山、則ち現在地に勧請して永く岩城藩の崇敬社とす。
当神社は亀田岩城藩所領内の代表神社のひとつにして、領内75社の分霊を合祀される。
現社殿は寛永13年(1636年)に建立せりと伝う。
明治6年郷社に列す。明治40年神饌幣帛料供進神社に指定せられ、明治43年白山比売神社・神明社を合祀す。
昭和58年、秋田県神社庁より二級神社に指定され、現在に及ぶ。
秋田県神社庁公式サイト より。



由緒
松ヶ崎八幡神社は、日本海に注ぐ衣川下流右岸、標高25mの亀井山山頂に位置します。



京都府の石清水八幡宮(国史跡)の末流にあたり、元和9年(1623)、岩城氏が亀田への領地替に伴い崇敬社として勧請し、以来、藩の総社として大切にされました。岩城氏が崇敬していた飯野八幡宮(国重要文化財・福島県いわき市)の分霊を祀っていることから、飯野八幡宮とは「親子神社」として現在も交流を深めています。



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火鉢 AIに小説を書いてもらった

2023年07月03日 03時36分00秒 | 小説
「火鉢 - 大奥のささやき」 div>

江戸時代の大奥。その内部には、深い闇とともに数多くの秘密が隠されていた。その一つに、大奥の様子を語ることができる謎めいた存在がいた。それは、ある日突然大奥に忍び込んできた火鉢だった。



我が名は、炷(ともしび)。この大奥でいつも置かれ、さまざまな場面を目撃することができる唯一の存在となっていた。大奥に佇むこの小さな掌握は、悲劇と愛憎、裏切りと忠義が交錯する物語を語ることができるのだ。



火鉢となっての私の役割は、側女たちの感情と思考を見守りながら、その背後で何が起こっているかを語り続けることだ。将軍家斉を取り巻く20人の側女たちの中には、皆それぞれの運命や悲哀を背負っていた。



将軍家斉の策略によって、大奥のはずれにひっそりと置かれていた私の視点から見た最初の物語は、側女・お千歳と側女・お竹の愛憎に満ちた姿だった。



お千歳は大奥に入ったばかりの新人であり、可憐な容姿と甘い声で将軍の心を魅了した。しかし、お竹は将軍の寵愛を長く受けてきた者であり、嫉妬に狂った心の闇を抱えていた。

二人の間での対立は激化し、お千歳は大奥を追い出される運命に翻弄されることとなった。私は見守りながら、お千歳の強さと闘志を目の当たりにした。苦難に見舞われながらも、彼女は自分の価値を示すために命を懸ける覚悟を持つのだった。



お千歳の脱退後も、大奥は愛憎の渦巻く場所であった。さらに深い闇が明らかになり、裏切りと陰謀の渦に飲み込まれようとしていた。私は見た。悲しみに暗い日々を過ごす側女たちの姿を。



しかし、その中にもまだ信じるべき愛と絆が残っていた。お千歳が大奥を追い出されてから紆余曲折の末、再び大奥に戻ってくる時がやってきたのだ。



それは、側女の中でも特別な存在であり、誰もが尊敬と恐れる存在だったお千歳の帰還だった。彼女の再登場は側女たちの心を揺るがせ、大奥に新たな力と希望を与えた。


将軍家斉のもとで、側女たちは愛憎の果てに自身の存在を確立していく。しかし、その過程で多くの犠牲者も生まれていた。私は大奥の闇を目撃しながら、その物語を語り続けることになるのだろう。


火鉢としての私は、ただ大奥の表面ではなく、裏側にも目を向けることができる。それは私の使命であり、側女たちの運命を後世に伝える役割でもある。



大奥の中で紡がれる愛憎のドラマ。それを語り続ける火鉢の物語。これからも、私は大奥の底に眠る秘密を明かし続けるのだろう。
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ごげるは叱る

2023年07月02日 03時23分00秒 | 秋田の言葉
怒るはごしゃくとかごげるという言い方をします。

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下村氏について現在調査

2023年07月01日 10時06分53秒 | 郷土史
東由利地区の資料調査をしています。
まずは下村氏です。彼の館跡が東由利の蔵に残っています。
下村館は、由利本荘市東由利にあります。下村館は、由利地方を支配した由利十二頭の1人、下村氏の居城です。下村氏については明確な資料が少なく、軍記物とされる「由利十二頭記」に頼れば、初代下村小笠原殿(下村彦次郎宗長?)が応仁元年(1467年)に由利郡に下向したとされる為、下村館は概ね応仁年間(1467~1469年)に築かれたと推察されています。




下村館は高台などに築城したのではありませんが、石沢川が大きく蛇行している為、三方が川に囲まれ堀の役割を果たしていました。城がある蔵集落は本荘街道と川大内街道の結束点である交通の要所で、下村氏はこの地域を押さえる為にも重要視していた事が分かります。下村氏は関が原の戦いで小野寺氏寄りだったと云われ改易され、下村館は破却されました。




現在館跡は平地より一段高い所に諏訪神社が鎮座し、その境内には推定年齢300年以上と言われるイチョウがあり秋田県指定天然記念物になっています。


岩館のイチョウは、中世由利地方の豪族下村氏の館跡にある諏訪神社の御神木です。乳の出をよくしたい女性の信仰を集めたことから、別名「乳房のイチョウ」とも呼ばれています。
蔵立寺は、室町時代の応仁2年(1467)年に下村氏が賽常山鷲泉寺(秋田市萱ヶ沢)3世梅勢永飯を招いて創建したと云われています。



当時は岩館(下村氏居館)の一角に建てられていましたが、その後現在地に移転しました。


16羅漢がお寺の前にあります。
資料が少ない下村氏ですが、もっと詳しく深読みしたい人物だ。

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