新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

夢について…

2021-12-08 15:18:29 | 悟得びと語り


数日前、朝起きたら…ふっと…「夢って?」という想いが浮かんだ~
そこから想い出したのは漫画「頑張れ元気」の事である。

元気の父は、元々プロボクサーだったが…病弱だった元気くんの母親が亡くなり、
父も生活の為にプロボクサーを辞め普通の仕事を始めた…

でも…日々の暮らしの中で息子・元気くんの元気じゃない姿を目の当たりにして…
『元気くんに元気に頑張って欲しい~』そんな想いからか…
『父親自身の頑張る姿を見せる』為に、再びプロボクサーに復帰した~
そして…何と、まあ~無謀な事に「世界チャンピョン」を目指してトレーニングを始めたのである…

結果的に、途中の試合で命を落としたが…
それでも…残された元気くんが亡き父親の夢の現実化に向けて頑張り始めたのである。
元気くんは、父親の夢が「世界チャンピョン」だと信じて頑張って…
そして~ついに父親の夢を現実化したが…

でも…しかし…本来の父親の夢は「元気くんの頑張る姿の実現」であった。
そして、元気には、父親の真の夢を分かっていなかったにもかかわらず…
結果的に、世界チャンピョンを目指して必死に頑張り続けたのである。

そんな父親の夢を現実化してしまった(夢の達成=夢の消滅)の元気くんと思いきや…
引き続き~彼は亡き母親方の祖父母の夢(自分たちの跡取り)~
大地主で事業家である祖父の夢を目指して~

以前、ボクサーになる為、最短距離で世界チャンピョン目指す為に…
合格しても通わなかった有名高校入学から再度の人生を始めたのであった~


ここで私が思ったのは、
では…他人の夢・希望を叶える為に頑張り続けている…
「元気くんの夢とは?」であった…

それは自分に関わっている周囲の人々の幸福な姿・笑顔が見続ける事?
それが「元気くんの夢なのだろう…」?

周囲の人々の喜ぶ姿が自分の夢であり自分の幸福であったなら~
これは…元気くん自身の主体的な人生の生き方であるのだろうか?

この場合、元気くんの周囲の人々である母親、父親、祖父母…
彼らが求めたのは「元気くんの幸福」であった…元気くんの夢・幸福であろう…

元気くんが思ったがどうかは不明であるが…
若い元気くんには、祖父母の希望・夢を現実化しても…
その後の彼には、まだまだ長い人生が続くだろう事を想っただろうか…

自分の事を真に想ってくれている周囲の人々の希望・夢を現実化しても…
その後には…元気くん自身の夢・希望の実現化の時は十分残されていたのだろう…



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信じる事から始まるこの世界~

2021-12-05 13:47:12 | 悟得びと語り
信じる事から始まるこの世界~



表題~より正確には~
「信じる事から始まる自由びと精神世界~」
となるだろう…

何度も書いているが…
このブログは自由びとの観念的・精神的な世界である。

それでも…不特定多数者に読まれる事を前提に、
書かれている普通とはチョット違った精神・観念的な世界であるが…

基本的に個人を特定可能な具体的な情報を書く事は避けている。
それで…「嘘や誤魔化し」は極力避けて書く努力はしている。

その方法として…事実を事実として書くのではなく、
その事実を極力論理的に書こうとする努力を続けてきている。

ここが自由びとの精神・観念的な世界である以上…
ここでは、私が神である。
私の意志が神の意志であり、私の論理が神の手でもある。

この世界で神である私の論理を否定する者には、
この世界での「天罰」が落ちる…だろう。


過去から現在まで…
この世界を否定し続けている「お宅」(私の命名)は、
この世界での「大馬鹿者=大馬鹿お宅」であろう。


この「馬鹿…」とう表現は、
私の記憶が正しいならば…
これは私が初めて担任していた児童を「馬鹿野郎!」と
怒鳴りつけた時からの使われ始めた言葉であろう。

私の「馬鹿野郎!」・「バカタレ」・「馬鹿者…」の意味・概念とは?
一般的には、「普通の人より頭の働きが鈍い事」…である。

それは、「馬と鹿の区別がつかない」…という所からきている…のだろう…
もっとも…ネットで調べるなら色々な説があった…

私が児童・生徒に使っている「バカ」とは以下のようなモノである。
児童・生徒であり、教師・先生から学んでいる者なら、
先生的な考え方で「物事を考えよう」とする努力が必然・当然であろう。
それなのに…はなから~教師・先生の言っている事を聞こうともせずに、
自分の感情・考え・思い…を言語化してぶつけてくる児童・生徒への言葉である。

新任教師の時は、そんな時には大声で怒鳴り・叱りつけて…
その根本的な認識・間違いを正そうとしたモノであったが…

時代が変わり、
私の立場の教員から学習指導補助員へと変化し~
若者が高齢者へと変化し~
精神も子供的から大人的へと成長・成熟しつつある現在の私には…

以前程の迫力で「バカ野郎」とは言えなくなっていた…事に気付いて。
それは数日前に余りには「バカな児童」に…ついつい~
小声である「バカタレ」と口から出てしまっていた…からである。


小二の彼は、私が補助をしている最中に「鉛筆を削る…」と言って「離席した」。
なかなか戻らないので…みてみると…戻る途中に他の児童の席の前で立ち止まって見ていた。

私が「早く戻って来て下さい!」と少しきつい口調で注意した。
戻っての開口一番の台詞が「叱らないで!」であった…
そこで、
私―「××(名前)!途中で他の人と話しているから…」
××―「話してないよ…呼び捨ては止めて!」
私―「××は友達の机の前で立ち止まって見ていた…でしょう」
私―「××君?××様?××ちゃん?××殿!…どれにする?
××―「君がいい!」
私―「××君は鉛筆を削りに行って、なかなか帰って来なかったから…きつく呼んだ…」
私―「××君が、チャンとやらないから××で、チャンとやるなら「××君」だよ」
私―「どっちがいい?」

すると…なんと…
××は「もう~その話は止めて!」と宣ったのである。
小二とは思えない…自己正当化の言葉ばかりで…呆れての「バカタレ」であった…
彼にとっては…
「授業中の鉛筆削りは間違いではなく正しい」
「離席の帰りの他の児童の席への立ち寄りも間違いではなく正しい」
それは、言うなれば、
「自分のしたいようにするのは間違いなく正しい事」という認識であろうか…

私の小学生時代では、「鉛筆は家で削る」のが当然で、学校には「鉛筆削り」がなかった。
でも…今は、全ての鉛筆が削れていないなら…
「字を書く為にはショウガなくOK」。
「トイレもどうしても我慢が出来なければOK」。
「今は授業中の水飲みもOK…なんて考えられない」モノだった…
最近では…大きく違ってきている…



さてさて…本題の「大馬鹿野郎」のお宅の話である。
私が「奴を大馬鹿野郎」と言う理由は以下である。

この私のブログである観念・精神世界の中~
私が書いている私の日常生活でも論理的な事実を、
奴は「全て嘘!信じない!」と断言して…
それでいて…私の記事への奴独特の愚にもつかない長文コメントの連続的な投稿である。

奴の内容をどうの…こうの…と言う前に、
私的に見てこれらは全く馬鹿野郎的な行為である。


例えるなら、二人の者達が「何かを見て」…
「あれは、○○だから馬だ!」⇔「違う…、××だから鹿だ」と
二人が同時に共通・同じ動物を見ての議論は有益かつ有効であろうが…


同じ物事・世界を観ているのではない奴と俺に議論の有効性・有益性は問題外であろう。
言うなれば…暇つぶしの遊び感覚であろう。
もっとも…
最近は、結構忙しくなり、奴のクダラナイ馬鹿言説に付き合うにも嫌気がさしてきたのも事実。
また…奴の間違いに気付けた事も事実であろう。


そもそも世界観も弁証法も…全ては現実の問題解決の為であり、
ブログのネタで…どうの、こうのと、議論するモノではない。

例えば、二人が共に働く場合において、
二人が全く異なっている弁証法・論理を使おうが…
二人が共に、同様な問題解決が達成できたなら、そこに何の問題があろう~

弁証法・世界観・哲学を議論するのは若者達の特権であり、
老人・年寄には、特に必要なモノでないのだろう。

だから…私は現実世界で他人との議論は、
極力避けるような日々を送るようになって来た…ようだ。

ならば…私がこのブログを精神・観念的な世界の展開を書く意味・意義は何か?









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「武道…」について~

2021-11-27 12:00:33 | 悟得びと語り
「武道…」について~

「武道とは、武技を用いて生命賭けの勝負の道である」とは~
南郷氏の「武道の概念規定」であるが…
この言葉を私の私は大きく誤解していた事に気付けた。

南郷氏は「私の言葉は論理である」…と言っていた。
この事は、この「武道」定義・概念にいても言えるのだろう…

そもそも…
現代社会で「生命を賭けての空手・剣道・柔道…の武道勝負はない…」と言える。
それでも…
商人の世界なら、商売人人生を賭けての商売合戦であろうし…
学者の世界なら、学者人生・生命を賭けての学説合戦であろうし…
サラリーマンなら、サラリーマン人生を賭けての出世合戦であろう…
現代人には、
それぞれの世界での己の社会人としての人生・生命を賭けた勝負があろう…

私の叔父(母の弟)の口癖の台詞が…
「そのぐらい…死にはしない!」…

そう…人間…なんて…「死ぬ事」に比べれば、
生きていれば、どんな「怪我」も「事件」も「失敗」も…
なんて事ないモノなのだろう。

「守るベキ物ない者は、怖いモノ知らず~」と言うが…
その者達は、自分の生命さえ守る必要のないモノなのだろうか…


どんな時も最低限は己の生命を守り切る自信のある者…
怖い物知らずではなくても…
怖い物を知っていても…
怖いモノを恐れいても…
それでも…自分や他人を守る為に闘える者なのだろう…


武道を学ぶ意義は、観念的な「死」を想像して、観念的「死」と対面・直面して、
その己の中の観念的「死」を克服する認識・意志の創出にこそ…
現代の武道の意味であり、意義であろう。

果たして…
今の私は…己の中の観念「死」を克服できているのだろうか?!





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「絶対矛盾」について…

2021-11-21 10:25:49 | 悟得びと語り
「絶対矛盾」について…

南郷氏は、「ゼノンのパラドックス」を絶対矛盾だと言い切っている。
「それは何故か?」、
「どういう事なのか?」、
「そもそも運動・変化とは何か?」
「何が変化で、何が運動なのか?」、
「変化も、運動もあるのか?ないのか?」、

「動物は本能的実在である」・「人間は認識的実在である」と言われている。
この「人間は認識的実在である」については、「新・頭脳の科学(第一巻)」[現代社]のP20に以下のように書かれている

(引用開始)…
…前略…すなわち、人間が他の動物と違う様々な特徴を持っているのは、
他の動物がすべて本能のみの統括で生きているのに対して、
人間だけが、本能に加えて認識の統括によって生き、かつ生活している…後略…
(引用終了)

人間には、二重の意識がある。
一つ、現実界の事実像を見ている意識…
二つ、観念内の認識像を見ている意識…

外界の変化・運動像は、外界のモノ自体の実態・実態化の弁証法性…
内界の変化・運動像は、本能的(自然的)かつ認識的(社会的・精神的)な変化・運動像…

本能は世界の変化・運動と一体的な働き…
認識は、自然的かつ社会的かつ個性的な働き…


外界の変化・運動を自然(の弁証法)的に感覚できいても…
それを見詰めている内界の認識が非完璧(個性的・部分的)な弁証法なら…
そこに、外界の変化・運動と内界の変化・運動認識像の一致は至難であろう…

そもそも…
変化とは、あるモノが、あるモノである(と同時に)あるモノでない、という事。
運動とは、あるモノが、ここにある、(と同時に)ここにない、という事。

視覚中心の人間の認識像は、外界像を観念内では一瞬一瞬を像として捉えている。
その一枚一枚を連続的に眺められているだけなら…変化・運動的に流れていくだけである。
しかし、一枚一枚を止めて眺めたら、それは静止であり運動ではない。
それは、DVD再生像を停止ボタンでストップさせた像の連続であろう。



観念内で、自己の認識像をながめている自己を意識しているなら、
そこには静止と運動の区別と連関が起こる。


「ゼノンのパラドックス」は、外界像と内界像の矛盾であり、
それは「認識的実在の人間にとっては「絶対的な矛盾」である…という事である。
この矛盾の克服は、認識の弁証法化であろう。


外界に「変化・運動がある」のでなく、あるのは「弁証法性がある」。
その外界の弁証法性を「人間が変化・運動」と捉えているのであろう。

変化・運動とは、
認識的自在である人間が、
外界の一瞬前の認識像と今の認識像を、
その区別と連関で捉え認識できた時に、
発生する論理的な認識像であろう。


人間の脳には、本能的な動物的な変化・運動性・動物の弁証法性がある。
しかし、脳の機能である認識は、本能的では人間的認識的であろう。
それは、生後の成長過程で体験的・自然成長的・意図的・目的意識的に、体得・学習しているモノであろう。


動物の弁証法性での「一瞬」と「一瞬」感覚・間隔は本能的であり無限小である。
人間の弁証法での「一瞬」と「一瞬」感覚・間隔は、その人間次第で色々マチマチであろう。

人々が、「弁証法」という同じ言葉で表現していても、その内実・中身は。当然十人十色でマチマチという事であろう。

そもそも…
「アキレスの亀」の競争は、アキレスが何も考えず、
ただひたすらにゴール目指して走ったなら、ありえない事である。

「アキレス」が、外界の競争を観念界での競争として考えたから…発生した「パラドックス」である。
これは、「タイムマシーン」での「過去と未来のパラトックス」や「光速運動におけるパラドックス」にも言えるだろう。

これは、全ての「パラドックス」は、外界の弁証法性を、変化・運動ではなく
「パラドックス・矛盾」と捉えてしまっている「内界・弁証法」の誤り・誤使用であろうか…


ゼノンの時代は、外界の弁証法性を、内界での変化・運動と把えようとし始めた時代であろうか…
それは、ヒト的サルが外界に対しての「問い掛け」の始まり、でもあろうか…
ここから、
ヒト的サル⇒サル的ヒト⇒人間的ヒト⇒ヒト的人間⇒人間的人間⇒理想的人間⇒理想的悟得人間への
変化・運動が始まったのであろうか…





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いのち歴史の弁証法性~

2021-11-20 10:13:45 | 悟得びと語り
いのち歴史の弁証法性~

いのちの始まりは、連続・不断な「生命現象」の弁証法性から~
「生命活動」の弁証法性とは、
同じレベルの生命現象の
「生々・生成・発展・衰退・消滅・モノ化」
新・生命現象「生々・生成・発展・衰退・消滅・モノ化」
    新新生命現「生々・生成・発展…・モノ化」
新新新生命現象「生々・生成・発展…モノ化」…

これは、生物の先祖…祖祖父母・祖父母・父母・私・子供・孫…曽孫…
絶え間なく、同じレベルの繰り返しと言えよう。

動物なら、肉体も本能も同じレベルの繰り返し、だが…
しかし、人類・人間は肉体も精神も同じレベルとは限らない…
過去の人類・人間の肉体的な強靭さを現代人は持ち得ているだろうか?
過去の人類・人間の精神的な図太さを現代人は持ち得ているだろうか?
過去の人類・人間の知識・智慧と現代人の知識・智慧は同じだろうか?

生命活動の弁証法性が基本なら…
単細胞体活動の弁証法性⇒その場で蠢く事の繰り返し…
多細胞体活動の弁証法⇒水に揺らされ続ける…
クラゲ体活動の弁証法性⇒水の中で同じ場所に留まり続ける…
魚類体活動の弁証法性⇒水中を自由自在に全力移動…
哺乳類活動の弁証法性⇒野山を自由自在に全力移動…
サルの生活の弁証法性⇒地上生活から樹上での生活へ変化の道…
サルからヒトへの変化の弁証法性⇒樹上から地上生活への変化の道…
人類進化の歴史の弁証法性…


上記のような弁証法性を
自己の人生で繰り返された時、
初めて「悟り」を「悟得」を体得可能である。

我々は「認識的な実在」的な人間が、現代の「悟り」・「悟得」へ至るには…
過去の
「宗教的な悟り・悟得」⇒「武道的な悟り・悟り得」⇒「哲学的な悟り・悟得」を
己の実体・精神で繰り返しの体験・実感・言語化」…それも、それそのレベルを重層化の形で進める事。

ここには、心の弁証法性・肉体の弁証法性・頭の弁証法性があり得る。
弁証法性の原動力は「矛盾」である。
モノが変化・運動するには「エネルギー」が必要である。
「エネルギー」とは、静止状態の物質へ運動・変化(静止⇔運動)という矛盾を与える「モノ自体矛盾」といえる…
ここで、私は
「モノ自体とは、無限小の実体と無限小のエネルギー機能を保持しているモノ」と概念規定する。
全てのモノは、エネルギー(矛盾体)を得る・与えられ事で「変化・運動」を始める。

人間にとって弁証法とは、人間の頭脳活動・働きを
「いのちの歴史」に基づいた正しい論理的な活動・働きに創り上げられるモノであろう。

私の心の弁証法性とは、
大学(工学部・電子工学専攻)生活⇒教員(小学校教諭)生活へ…
何をどうしたらいいか分からない…「一週間でとんでも(非常心的)行動…
一ヶ月で落ち着き…平常心…三年後…
文学部・初等教育専攻へ編入(教師から学生、二十代前半の学生の中に27歳の私)
(非常心)…二年間卒業…

その後、再び教員…小学生担任2年間、中一・二担任に年間…
この時、小学生から中学生に移った時の違和感…
それは、『小学生では上手くいっていた指導・言葉かけが中学生ではダメ…』

二年間でギブアップ…父の商売への誘いもあって教員を止め…
商売の世界へ
塾講師の世界へ
外国人の日本語の先生へ
雑貨屋店長へ
雑貨屋店長兼塾講師…
市立小学校特別支援学級の補助員(主に自閉症児)
別の市立小学校特別支援学級補助員(主に情緒障害児)

今考えると…
私には「私の大志」と呼ばれるモノを自覚出来ていなかった。
それでも…私の心の奥底には「自由・自由自在に生きたい」とう強烈な想いがあったようである。
私の自由とは、私の劣等感からの私自身の解放、日々感じ続けていた私の劣等感から私自身の解放…

結果的に、この数十年の私の人生は、
現実で「他人といる時、その他人対して自分を上手く表現できるか?できているか?」…
そんな心の問い掛けの連続だったようである。

この問いかけは、その場の人々を私が理解できていく中で(いつの間にか)消えていた。
しかし、幸か不幸が…私の人生は職場移動・職種変化の連続であった。
それも…生活の為というよりも、私の心の声に従ってのモノだったようである。

この結果、今の私が実感しているのは
「平常心(心)⇒非常心(心の乱れ)⇒平常心(その乱れに慣れた心)」

そう武道の非常心である死との対面した心裡・心理…であるが…
これは、最高レベルの危機的非常心であろう。
この非常心を得るには「自分の死を妄想できる人のみ」であろう。
「心裡は心の中、表意者の真意の事を表す用語で、心理は心の働きやありさまや精神の状態を表す事です。」

私は、私の人生における「平常心⇒非常心⇒平常心」の連続の結果、今の私がいる。

私の「心の弁証法性(矛盾)」の発生とは~
南郷継正の「武道の理論」の出会いであり…
そこから南郷継正の著書を連続的に購読し続けた事であり…

この連続の上に、私の人生・仕事に悩み苦しんだ時、
出会った月刊「空手道」雑誌の「武道講義」の言葉に惹かれて、
信じようと始めた時であろうか…。


今なら実感として言える「弁証法性の弁証法化には、
同じレベルのモノコトの繰り返しの連続であろう。


そうそう、私は塾の講師(夕方のからの仕事)の時代に、
家内は仕事なので46歳の時に息子が生まれ、昼間は息子の子守り…
その時、南郷氏お勧めの育児書の中の
「赤ちゃんなるべく外気に外へ…」と言う言葉に惹かれて、
息子を抱っこ紐で抱いて散歩へいっていた。

私は幼児から小学生、中学生…大学生…と関わるなかで、
他人の中に自分の成長のみていたのだろう…

そして、現在は、通常級・特別支援学級の両方の補助員として、
教師・教員達の中に、過去の私の児童・教員同士の関わり・指導をみようとしている(ようである)。


弁証法性とは、その論理が正しい事の証明・あかし、であろう。






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