新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「神」を信じる事…

2018-05-20 11:27:27 | 悟りシリーズ

私は「神」を信じているだろうか?
私にとっての神とは何か?

私の認識している「神」は、
全ての人にとっての神なのだろうか?

キリスト教の神とは?
密教の神とは?
イスラム教は?

日本には、八百万の神がいる、そうであるが…
日本人にとっての神とは?
欧米人にとっての神は?
インド人?

以下の故事ことわざから神を考えてみた。

それは、「捨てる神あれば拾う神あり」である。

それは新学期を数週間後に控えていた、今年の三月九日だろうか…
四年間勤務した補助員の仕事の再雇用・契約が出来ない事を、
体育館で副校長から告げられた。

そんな気はしていたが…

そんな気がしていた理由は以下である。
四月から、特別支援学級の児童数が六人減少する事。
それに伴い、市からの予算が減り、
毎日三人体制だった補助員を二名にする事。

当時、補助員は全部で五名、これを交代で毎日三名勤務であった。
五人中一名は、四月から校への勤務が決まっていて、
残りの四名中、二名は週に四日の働き者であった。
最後の二名の中の私は、父の介護があり休みが多く勤務が不規則。
もう一名は、週一の勤務であるが、無遅刻無欠勤であった。
もっとも…私は去年の六月までは、
三年と二か月は無遅刻無欠勤の週四勤務であった。


実際、内心そんな気はしていても…
それが事実だと知ったショックは大きかった。

そんなショックから、
その事を仲間の補助員、他校へも行っている講師に話し、
出来れば、補助員の空きはないか聞いてくれる、よう頼んだ。
不思議なモノで、言葉にして他人に話すと、心が少し落ち着くモノだ。

そんなショックな一日が終わった次の日、
お願いした仲間の補助員がメールをくれた。
なんと!
四月から移る小学校の副校長から、
「誰かいい人いない?」
「うちの特別支援学級の補助員に…」と尋ねれ、
即、私を紹介してしたと知らせてくれた。


上記の私に起こった出来事を一文で表現するなら、
「捨てる神あれば拾う神あり」である。


この「捨てる神」とは?
そして「拾う神」とは?

これらの神は、決しての個別の市、学校、人物…でなく、
捨てる状況に至った全ての過程を含めての結果である。

この神とは、個別・個体ではなく、総体・全体である。
そこには、
個別・個体的な感情・意志に関係なく、
総体・全体的な偶然からの必然性的決定がなされた、と私は考える。


私の父は、よく「運命」という言葉を使用している。
この「運命」を使うなら、
今回の私はの出来事は以下のようにも言える、のだろう。

「捨てる神」に出会った事も運命なら、
「拾う神」に出会った事も運命…。

事実を事実として認識する事が「運命」なら、
その認識した事実を、夢・願いの方向へ変えていくのも「運命」である。

神の中に個別・個体的な感情・意志を認識するのは、
神を正しく神と認識した事にはならないのだろう。


人が、神を信じる事は、人間の特権で、あり自由だろう。
だが、偽りの神を信じる事は絶対に避けたいものである。













コメント
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