私は「神」を信じているだろうか?
私にとっての神とは何か?
私の認識している「神」は、
全ての人にとっての神なのだろうか?
キリスト教の神とは?
密教の神とは?
イスラム教は?
日本には、八百万の神がいる、そうであるが…
日本人にとっての神とは?
欧米人にとっての神は?
インド人?
以下の故事ことわざから神を考えてみた。
それは、「捨てる神あれば拾う神あり」である。
それは新学期を数週間後に控えていた、今年の三月九日だろうか…
四年間勤務した補助員の仕事の再雇用・契約が出来ない事を、
体育館で副校長から告げられた。
そんな気はしていたが…
そんな気がしていた理由は以下である。
四月から、特別支援学級の児童数が六人減少する事。
それに伴い、市からの予算が減り、
毎日三人体制だった補助員を二名にする事。
当時、補助員は全部で五名、これを交代で毎日三名勤務であった。
五人中一名は、四月から校への勤務が決まっていて、
残りの四名中、二名は週に四日の働き者であった。
最後の二名の中の私は、父の介護があり休みが多く勤務が不規則。
もう一名は、週一の勤務であるが、無遅刻無欠勤であった。
もっとも…私は去年の六月までは、
三年と二か月は無遅刻無欠勤の週四勤務であった。
実際、内心そんな気はしていても…
それが事実だと知ったショックは大きかった。
そんなショックから、
その事を仲間の補助員、他校へも行っている講師に話し、
出来れば、補助員の空きはないか聞いてくれる、よう頼んだ。
不思議なモノで、言葉にして他人に話すと、心が少し落ち着くモノだ。
そんなショックな一日が終わった次の日、
お願いした仲間の補助員がメールをくれた。
なんと!
四月から移る小学校の副校長から、
「誰かいい人いない?」
「うちの特別支援学級の補助員に…」と尋ねれ、
即、私を紹介してしたと知らせてくれた。
上記の私に起こった出来事を一文で表現するなら、
「捨てる神あれば拾う神あり」である。
この「捨てる神」とは?
そして「拾う神」とは?
これらの神は、決しての個別の市、学校、人物…でなく、
捨てる状況に至った全ての過程を含めての結果である。
この神とは、個別・個体ではなく、総体・全体である。
そこには、
個別・個体的な感情・意志に関係なく、
総体・全体的な偶然からの必然性的決定がなされた、と私は考える。
私の父は、よく「運命」という言葉を使用している。
この「運命」を使うなら、
今回の私はの出来事は以下のようにも言える、のだろう。
「捨てる神」に出会った事も運命なら、
「拾う神」に出会った事も運命…。
事実を事実として認識する事が「運命」なら、
その認識した事実を、夢・願いの方向へ変えていくのも「運命」である。
神の中に個別・個体的な感情・意志を認識するのは、
神を正しく神と認識した事にはならないのだろう。
人が、神を信じる事は、人間の特権で、あり自由だろう。
だが、偽りの神を信じる事は絶対に避けたいものである。