普通に、僕は僕、私は私、俺は俺。
なのに、僕とは何?私とは?俺って?
それを知らない!
そう~
僕は本当の僕を知らない。
私も、そして俺も知らん。
僕も私も俺も、私を僕を俺を、知らないのに…
僕は僕、私は私、俺は俺として日々生きている。
しかも、
息子としての僕、
教師としての私、
父親としての俺、
他人としての私、的な日々生きている。
先日、久しぶりの大失敗をした。
それは、夏休みのプールの補助での事である。
教師の指示があったも関わらず、
プールからなかなか出ない一人の男子児童を厳しく叱ってしまった。
その男子は、教室での補助員としての私を知っていた。
しかし、プール・水泳指導補助員としての私は初めてだった。
教室という危険の少ない状況での補助。
プール・水の中、という危険な状況での補助。
その違いから、私は私なのに、
プールでは教室とは違う私だった、のだろう。
彼には、
彼の期待している私、
彼の予想している私、
があったのだろう。
でも…彼の中の私と、その時の現実の私は、大きく異なっていた。
それは、優しい私ではなく、とても怖い私だったのだろう。
優しいと確信していた人の態度が、とても怖くなっていた。
そのギャップを彼は克服できずに、自虐的になってしまった。
プールが終わったのに、
その場を動こうとせず壁を蹴ったり、扉を蹴ったり…であった。
現代の子供達、
その認識に柔軟性があまりないように私には思える。
未熟な子供は、失敗が当たり前、上手くなくて当然、
叱られて当然、叱られて伸びていくモノ…なのに~
この男子児童は、プールが楽しくて、全員が水から出ているのに、
一人で、潜って楽しんでいた。
彼には、回りが見えていなかった。
彼は、回りを視ようとしなかった。
彼にとって教師の指示が絶対的でなかった。
私が彼を叱った事に間違いはなかった。
でも…あの自虐的な反応をさせてしまった事は失敗であった。
叱り方、注意の仕方、指示の出し方…
全体に対する指示と個人に対する指示、
内容は同一であっても、その態度・言葉は変える必要があるのだろう。
私の叱り方も、
全体への叱り方と個人への叱り方、
A君への叱り方とZ君への叱り方、
それらに二重性を求め、二重化して、実践すべきなのだろう。
私の心の葛藤を、
正しいのに間違っていた、という心の葛藤を
相手の態度・言動を、
相手の成長・発展方向へ変える為の私の言動だったのに…
結果的に、楽しんでいた相手を不愉快にしてしまい。
休憩後に再びプールで泳げた筈なのに泳げなくしてしまった。
善意からの言動が、善意ではなく悪意と捉えられ、
素直に受け入れてもらえず、無視・反抗・暴走化してしまった。
それは、相手への善意が大きい程に、
受け入れてもらえないショックは大きい、のだろう。
普通、相手を思う善意の言動は、相手に伝わると予想・確信している。
でも、その予想・確信が外れる事もあり得る、という予想・確信はない。
持つべモノは、全ては変化・運動する、という予想・確信であろう。
自覚的に弁証法を意識して、
日々のモノ・コトを弁証法的に捉え、
それらと弁証法的に関わり…続ける。
その結果、少しずつ弁証法の無自覚化がなされ…
己の認識が自覚的弁証法と無自覚的弁証法の二重化される。
それでも…自覚的に弁証法を意識し続けるのが、弁証法なのだろう。