新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

ヤッパリ可笑しい!

2018-08-26 16:46:56 | 弁証法


愚案君の「国民は国家の細胞論」はヤッパリ可笑しい!
以下は、談話サロン天寿堂からの転写である。



[2897] 大事な事は何か

愚按亭主 - 2018年08月21日 (火) 10時15分

というのは、本来国家の個々の成員すなわち国民の権利は、勝ち取るべきものではなく、当たり前のように守られるべきものだからです。人間の身体を想定してもらえば分かるように、個々の細胞が人権を主張して闘ってばかりいたらどうなると思いますか?日本の国家においては、天皇の臣民は、大御宝といって、とても大事にされました。これが本来の国家のあり方であり、国家第一主義のあり方です。







国民の権利が「当たり前のように守られて」いるモノなら、
誰が、何故にどうして「人権」を主張するだろうか?


彼の「国民が国家の細胞論」からすると…
細胞の癌化は、細胞の反抗・反乱で、その病化の責任は細胞だろう~
本当は、その人の認識・頭脳の生活・生き方が拙かった為なのに…

国民は国家の細胞論を展開するのに、
細胞は頭脳の統括下であるという条件を失念するとは、
これは、全くもって非学問的な論説と言えよう。


国家第一主義について…

革命によって誕生した新国家が、多くの国民の為のモノたり得た時、
それは多くの国民が、現国家を否定し「新・国家誕生第一主義」
だったから革命が可能だったのだろう。

愚案くんの「国家第一主義」には、現実の現国家が忘却されている。
それもこれも、絶対的観念論者たる彼には理想的人倫国家だけが国家であり、
他の国家は、国家たり得ないのだろう。


それは、現実界での精神は、
普通精神と絶対精神との混合体である事が分からない。

唯物論には唯モノ論と唯物論がありえる事も分からない。
分からないというより想定不能であろう。

それもこれも、
絶対的観念論は絶対的真理だ!との思い込みからであろう。






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「老いゆく」事~

2018-08-26 16:08:57 | 言葉・概念


15年と9ヵ月、大型犬としては…
超長生きだった愛犬のゴールデン・レトリバー~

奴は~
川泳ぎ大大大好きだったのに…ある日を境に川に入らなくなった。
頭を上げ尻尾ふりふりの散歩も、気付いたら、どちらも垂れて歩いていた。
滑り台の階段側からの登りも、
「ワォー」と雄叫び上げてのボール追いも…
いつしか全く見られなくなった…

そして、ついにある日、奴は歩けなくなり、
寝たっきりで餌も食べなくなった。
そしてついにある日、一言の叫びをあげて逝ってしまった…


89歳の父親にも、同じような「老い」を視てしまう。
昨日まで覚えていた事が、今日は忘れてしまっている。

昨日、脳内科の医師から
「この人(私を指して)誰ですか?」と聞かれて、
父親は「従兄弟」と答えた。

また、「この人(私の家内)は?」と聞かれて、
父親は、「姪っ子」と答えていた。

なんと息子とその嫁が分からない!
とビックリしたが…

しかし、よくよく考えると、息子とその嫁と認識していても…
息子・嫁、または、子供・奥さんという言葉を忘れているのかも…

私・家内に対しての概念的把握はあっても…
その概念を表す言葉を忘れてしまっていては相手に伝えられない…


まあ~そんな事はよい!として…
動物・人間にとって老いてゆく事は必然である。
それでも、自然界の動物は、死ぬ瞬間まで、動物=動く物たり得る、のだろう。
しかし、忘れてしまう人間は、動く事・動き方を忘れてしまう、ようだ…

動けても、動きたくない面倒だ!
面倒だから忘却しよう!
そんな感じで、歩く事を止めてしまうのかも…

動物・人間にとて「老いてゆく」のが必然であっても、
その「老いてゆき方」、老いてゆく過程のあり方は十人十色である筈だ。
それは、人間が認識的実在である、からだろうが…


身体・実体は老いていっても、認識・精神は若くありたいモノである。
認識・精神は機能であるから、身体・実体が老いれば、それなりに老いてゆく…
それでも、実体と機能は、相対的独立関係にあるだろうから…
機能を技化し、その技を保持し続ける事が可能ならば、
身体・実体は老人でも…認識・精神は若者!も可能なのだろう…

その為の方法は?
それは、
技の創出・使用、そして技の保持の問題であろう。

創り創られるのが人間ならば、
年老いてゆく己の中に、年若い己の創出を~であろう。

「老いてゆく」事は、今まで通りの考え方・やり方を続け、
「若く幼い」事は、考え方・やり方を習得・修得し続ける。

「幼く若い」とは、身体・実体を使いながら、使い方・考え方を創っている。
「年より老人」は、認識・精神を創る事も使う事もなく、
敢えて、考える事無く、習慣的に身体・実体を使っている。


技を、新たに創る事無く使い続けるから技が崩れてゆく、
そうであるから…


ここは、技の使用・駆使は避け難いだろうから、
そこは、使用・駆使の中に創出を求めよう。

そこで、最近の私が心がけているのは、
手の小指と足の踵の意識的使用である。


モノの持ち方・立ち方の形は同じでも、
今までなかった小指・踵を意識する事は、
身体・実体を使いながら、認識・精神を創る働きである。


ここで、意識・認識を創るは言えても、
更に、精神を創ると言える理由、
それは、一回だけではなく、
その意識・認識を続ける努力をする事で、
出来ない事・違和感ある事・嫌な事を
やり続ける精神の養成・創出があるから…である。







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 学問について…

2018-08-26 14:37:20 | 言葉・概念


学問とは、
先ずは「学びて問う」モノ、
最終的には、体系的理論的な認識として完成されるモノ。


天寿堂の愚案亭主は、
掲示板「談話サロン天寿堂」で
「そもそも人権という概念は非学問的概念」
と言い切っている。

これは真理なのだろうか?
正解は二通り!
愚案亭主にとっては真理、
普通の人にとっては非真理、
である。

絶対的観念論者の愚案亭主にとって、
人権という概念は、既にあるモノ・完成されているモノ。

でも弁証法唯物論者にとっては、
人権という概念は、時代とともにに形成されていくモノ。
それは、人類の進化・文化発展とともに変化・形成されていくモノ。

哲学は時代の哲学であり、学問も時代の学問である。
過去の学問は、その時代の学問であっても、
現代では学問とは言い難い事も有り得るモノ。



そもそも愚案亭主が、人権を非学問的とする理由は、
国民一人一人が「人権」を主張するなら国家は成り立ちがたい…
という理由だろう…


国民が人権を主張なら、国家は、その人権を尊重しつつ、
国家の目的達成を目指せばいいだけであろう。

それは国家・指導者の手腕次第であろう。
なのに国民の人権思想を否定する事で国家を保とうとする事は、
己に政治的手腕がない事の証明であろう。


人間にとっての人権は、初めからあるモノ・あったモノではなく、
世界歴史の進化・推移・変化…の過程で、
弱者が自らの努力で、強者から獲得したモノであろう。

それは、対等な人間として扱われなかった人々が、
自ら闘い勝ち取ったモノであろう。

その勝ち取った人権に対する理論・論理的解説は、
その時代・時代の言葉でなされる、のだろう。

「人権」と言う言葉は同じでも、
その中身・内実は時代時代によって変わっている、のだろう。

その時代の人権の解説・説明は、時代の説明・解説であっても、
それを、人権の概念と言い切ってはマズイのだろう。

概念と説明・解説の違いは?
概念とは、そもモノ自体・実体を表し、
説明・解説は、そのモノの現象形態の表現…かな?!

愚案くんの尊敬しているヘーゲルも、どこかで書いているらしい…
「ない」から始める事はでき「ない」。
全ては「ある」から始める事で「ある」。

世の中「ない」事は「ない」からであり、
全ては「ない」事が「ある」から始まる、のである。


「人権概念」が非学問なのではなく、
愚案くんの概念が学問になり得ていない、のであり、
それは、
人権概念が、非学問なのではなく、
学問がない愚案くんだから、
非学問と見えているだけのモノである。



それは、人権の概念が非学問的概念なのではなく、
愚案くんが、人権を学問的に概念化し得ていないだけであろう。


学問的概念化には、
人権がなかった時代から、
人権が発生・形成されていく時代、
更に小集団のから社会のへ、
そこから国家の人権へと変化・発展していく過程の
全てが視て取れて、やっと可能なのだろう…









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