「いい加減」な「理屈・屁理屈」の話
接骨院で出会った93歳の御老人の聞いた長生きの秘訣。
それは、「私は、いい加減・いい湯加減に生きて来た!」
もともと私は「いい加減」という言葉は知っていたが…
この「いい加減」を「湯」を加えて「いい湯加減」とは…
聞いた当初は~「ふ~ん『いい湯加減』とは…
「風呂の湯の温度以外で使った事のない言葉」
しかし…改めて「いい湯加減」という表現について考えてみた。
風呂の湯の温度の適温は、人それぞれ…
この論理を以下のような日常の場面で考えるなら~
親が子供にに「そんな事は、いい加減にしなさいよ!」という時~
それは、親にとっての「いい加減」であり、
子供にとっての「いい加減ではない」!
子供には、その子供の「いい加減(無自覚)」でやっているだけ…
それを「いい加減にしなさい!」では…
また「いい加減に止めなさい!」も然り…
これでは、あまり教育的ではない。
ここで教育的指導を求めるなら、
まず、親は「自分のいい加減」(再確認)思い考え知る事。
更に、親は「社会一般的いい加減」(再確認)思い考える事。
この三者の「いい加減」を比較・検討して、
平均的な「いい加減」を子供ともに考える。
教師達の注意の仕方・叱り方・声の大きさ…には、
それぞの教師の「いい加減」がある。
また、児童達にも、それぞれの「いい加減」がある。
大人・教師が「42度のお湯」が「いい加減」でも…
それは、児童には、熱すぎで「いい加減」になり得ない。
昨日、授業中に、担任が「iPad閉じてください!」と何度言っても閉じない児童がいた。
そこで、私が近くに言って「閉じる!」と言っても聞かないので…
そこで~
「いい加減に閉じろ!」
「私が小学生頃なら…先生から往復ビンタされたぞ!」
これは、別言するなら、昔の銭湯の時代に
風呂屋に言って40度の湯が熱くて水で温度を下げようとしたら、
近くの大人に「水入れるな!」と怒鳴られた体験的だろう。
昔は、先生の指示は絶対的で、一度で即従うのが「いい加減」。
でも、今は、とにかく最終的に聞けばOK!が「いい加減」。
集団的な行動の決まり要求の温度が~
昔は高温・厳しいのが「いい加減」。
今は、高温・適温・低温なんて、「どうでもいい加減」。
この「どうでもいい加減」とは、勝負論的思考・価値観。
また「高温のいい加減」を求めるのは、上達論的・思考・価値観。