新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

非常心について~

2017-10-21 16:10:48 | 想いのままに…


非常心について考える時、
そこに平常心、そして普通心を考える必要がある。

一般人の普通の日々の生活と警官のその生活とでは大きく違う。
また、同じ警官でも、刑事と交番勤務の警官でも、
それは異なっている(だろう)。

普通に考えて、平常心とは、
日々の普通の生活の中での「普通の心」だろう。

では非常心とは?

それは普通の生活にはない、
異常・非常事態・状態での心的状態と考えられる。

ならば、異なった日常生活を送っている人物の
異常・非常事態・状態も異なっている事になろう。

学校の宿題を忘れて非常心になる子供もいれば、
宿題どころか教科書を忘れても、
平気の「へ」の平常心の子供もいる。

同じ学校生活を送っている児童が同じ忘れ物をしても、
その心的状態が同じではないのは何故だろう。

それは、その子が、何を大切にしているか、
その価値観の相違から生じるのだろうか?


約束した時刻に遅れそうでバニックになり、
心が非常事態になる者もいれば、
一時間遅れても、笑顔でやって来る者もいる。

しかし、同じ人物でも、友達との約束なら平気でも、
仕事での遅刻なら、どうだろうか…

億万長者が十万円落としても、平常心だろうが…
私なら十万円落としたら、パニクッて非常心となり得る。

それでも、私が宝くじで三億円当てたなら、
十万円の紛失なんて、平気の「へ」なのだろう。

結局、平常心から非常心の変化は、
その環境・状態の変化の当人の受け止め方次第であろう。

現代人が、武道を学ぶ事の意味・意義は、
この非常心を感じ、非常心を体験し、
非常心を味わい、非常心に耐えられる心、
非常心に負けない、己心の養成・構築なのだろう。

誰にとっても…
「生命」は一番大切なモノ・価値あるモノだろうから…
そんな「生命」を賭ける武道の闘いだからの非常心なのだろう。

心が非常心化しても、その非常心に負けない己心があれば…
非常心は非常心であっても、非常心ではなくなる。

心が、平常状態から非常・異常状態化しても、
その言動・行為・態度が普通状態と変わらないなら、
それは、他人からみれば、平常心と同様であろう。    

心が、非常心へ変化しても、
頭が、不動のまま普通状態なら、
それは、平常心と言い得るモノなのかも…
心は非常心、頭は不動、だからの不動心かな…

頭が、心の影響を受けない状態とは、
頭が、非常心時の態度・言動・行為を予想し修正し得るからであろう。

ここに、頭を非常心的状態に慣れさせる練習・訓練が必要であろう。
それは、非常状態におかれた中での普通の身体的なモノ…
全てを頭に焼き付ける事なのかも…








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