新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

行動について…

2020-08-02 13:15:26 | 認識論





㈠  不快を避ける為の行動。
㈡  快を求めての行動。
㈢  不快を避ける為に快を求める行動。

㈠ は、眼前の不快な物事を避ける為のモノ。
㈡ は、眼前に不快な物事はなくても行うモノ。
㈢ は、眼前の不快に囚われる事なく無視し快を求めてするモノ。


眼前に不快の対象がある場合の行動の二重性となると…

㈠と㈢となろう。


しかし、
不快が、眼前にある場合で、

その不快物事を回避可能か?
また快を求めての行動が可能か?


具体的に学校の勉強嫌いな場合、
授業中でも教室の外へ出る事は可能か?
でも楽しいゲーム妄想は可能!

ならば、不快な社会の勉強を避ける為に、
快を感じるゲーム妄想をして…
果たして良いだろうか?



児童の人間的の成長の為には、
不快を避ける行動も快を求める行動もでき難い場合であろう…
さてさて…では、どのように対応すべきか?

その方法は、
「不快な勉強」に頑張って「取り組む行動に快」
を感じるように育てる事。


これは、
人間にとっての「不快」とは、「不快と感じる物事」であり、
人間にとっての「不快そのモノ」がある、のではない、
という事である。


だから例え、
それが「不快な物事」であっても、
それに「関わる事を快」とする事は、
人間の場合は不可能でない。



もう一つの方法は、教育現場での教師の「精神罰と体罰」である。
勉強するという不快より、教師の精神罰・体罰の不快が重い時、
児童は、教師からの不快を避ける為に眼前の不快に取り組む事が可能である。

それは、眼前の小さな不快に取り組む事が、
より大きな不快を避ける手段になり得る、
という事である。


これこそが「体罰の効用」である。
過去の学校では、
この「大きな不快を避ける為に勉強する」
が一般的であった。


しかし…現代の先生は、
全ての児童に強烈な不快を感じさせられる行為ができ難くなっている。
当然に親も同様であろう。


ならば…如何にすれば、よいのだろうか?







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快・不快と行為・行動…

2020-08-02 12:33:05 | 教育
快・不快と行為・行動…


人間の動物的な行動は、
不快を避け、快を求める、が基本だろう。

児童にとっての学校の勉強の場合~
成績が悪いと、親に叱られるから、勉強する。
成績が良いと、親に褒められるから、勉強する。


授業中であれば…
先生に注意・叱られるから静かにする。
先生に褒められるから、静かにする。

これは、児童の場合なので、
そこには主体性がない。

「この主体性がない」とは、
親・先生がどうのこうのではなく、
児童自身がどうしたい、がない事。


そもそも…
多くの児童達は、勉強が嫌い、勉強はしたくない…ようである。

なので、主体的には、「学校の勉強はやりたくない」
その理由は、
「勉強よりゲーム方が楽しい」とか、
「その勉強は塾でやった・知っている」とか、
「この勉強して何になるの?意味ない!」とか、


児童が、静かにしない理由は、
「今、自分が話したいから、」てか、
「今、気持ちが落ち着かない」とか、
「何で話したいのに我慢するの?」とか、
「話して何が悪いの?」とか、
「僕は静かにできない、我慢できない!」とか。

その殆どが、その児童の個人的な欲求・思いから。である。

それでも、親・先生の叱る・褒める…から
勉強しようと頑張ろうと思う児童達であるが…


家で親の言葉で、『叱られる勉強しよう!』と思っても、
いざ授業中になれば、面白くない・わからない…等の理由で、
ヤッパリ勉強に集中できない児童もいるだろう…


動物であれば好まないモノと関わるのは「不快」である。
だから「不快を避ける」のは必然であり当然である。
しかし、動物であっても人間の場合は、
「不快だから避ける」訳には、行かない場合も必然・当然にある。


ならば、どうすべきか?
それは、「不快を避ける」為の行動自体を
「快」と感じるように習慣化・技化する教育である。


勉強が嫌いな児童に対して教師は、
「先生の話は楽しい」とか、
「先生の話は面白い」とか、
「先生の笑顔が好き♪」とか、


その行為の目的が「先生の話を聞く」であり、
その為の行動が「静かする」である。

この過程で児童の思いには「不快な勉強」がない。
ここでのポイントは、
教師の一言一言に「勉強の中身」が求められている事であり、
教師は勉強内容を面白く・楽しく、話せる力量が求められている。

特に、低学年の内に、このような繰り返しの結果、
「先生の話を聞きたい」⇒「先生と勉強したい」
「先生の話を聞きたい」⇒「いつも静かにしたい」
となり得たら…である。


そうなれば、高学年になっても、
「先生」抜きでの主体的な行為で、
勉強は楽しい♪「快感だから」やる。
静かにする♪「快感」だから」やる。


そう~結果的に、
「不快」だった「勉強する事」が
「快感に変わっている事になる。






https://hinative.com/ja/questions/279165
行為 と 行動 と 動作 はどう違いますか?説明が難しい場合は、例文を教えて下さい。


行為:意思や意図をもとにした行動。時として他者へ与える影響の観点から述べられる。act.
行動:無意識的な動作と意識的な動作までを含む人の動作。action.
動作:身体的な運動やその作用。movement.
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