㈠ 不快を避ける為の行動。
㈡ 快を求めての行動。
㈢ 不快を避ける為に快を求める行動。
㈠ は、眼前の不快な物事を避ける為のモノ。
㈡ は、眼前に不快な物事はなくても行うモノ。
㈢ は、眼前の不快に囚われる事なく無視し快を求めてするモノ。
眼前に不快の対象がある場合の行動の二重性となると…
㈠と㈢となろう。
しかし、
不快が、眼前にある場合で、
その不快物事を回避可能か?
また快を求めての行動が可能か?
具体的に学校の勉強嫌いな場合、
授業中でも教室の外へ出る事は可能か?
でも楽しいゲーム妄想は可能!
ならば、不快な社会の勉強を避ける為に、
快を感じるゲーム妄想をして…
果たして良いだろうか?
児童の人間的の成長の為には、
不快を避ける行動も快を求める行動もでき難い場合であろう…
さてさて…では、どのように対応すべきか?
その方法は、
「不快な勉強」に頑張って「取り組む行動に快」
を感じるように育てる事。
これは、
人間にとっての「不快」とは、「不快と感じる物事」であり、
人間にとっての「不快そのモノ」がある、のではない、
という事である。
だから例え、
それが「不快な物事」であっても、
それに「関わる事を快」とする事は、
人間の場合は不可能でない。
もう一つの方法は、教育現場での教師の「精神罰と体罰」である。
勉強するという不快より、教師の精神罰・体罰の不快が重い時、
児童は、教師からの不快を避ける為に眼前の不快に取り組む事が可能である。
それは、眼前の小さな不快に取り組む事が、
より大きな不快を避ける手段になり得る、
という事である。
これこそが「体罰の効用」である。
過去の学校では、
この「大きな不快を避ける為に勉強する」
が一般的であった。
しかし…現代の先生は、
全ての児童に強烈な不快を感じさせられる行為ができ難くなっている。
当然に親も同様であろう。
ならば…如何にすれば、よいのだろうか?